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ねじまげメガロマニア  作者: 草津 辰
第1章 死を望む「私」と、死を運ぶ「人形」
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第1話  死にたがりと人形

 


 私をなにかにたとえるなら、地球外生命体。広い地球のなかで私だけがのけ者にされているのだ。強烈で明確な仲間外れ。私と、そのほかの人の間にある、どうしようもない境界線は、決して越えられず、かき消すことなどできない。普通と異常は相容れない。

 そういった仲間外れは、冬の季節になるとよりはっきりと、この身に染みわたる。寄り添う相手のいない冬ほど、寒々しいものはない。吐く息のむやみな白さは、どす黒い孤独をより浮き彫りにしているように思えた。

 私は六畳一間の部屋で毎日、こんなことを飽きずに考えている。殺風景な部屋を見渡しても、机と本棚など特に目立つものはない。ずいぶん新鮮さと輝きを失くした大学二年生の私。幾多の希望と、おおいなる自由を手に入れるがために入学した大学には十二月に入ってから行っていない。つまり、今月に入ってから、一度も出席していないということだ。いわゆる自主的休講である。なぜそれにいたったか。

 すれちがう誰しもが、どこかの誰かと甘くて青い春とかいうものを年中無休で傍若無人に謳歌している大学で、私のような十年間着続けたセーターのようにくたびれた人間が明るく健やかに生きていけるはずなどないのだと。病むのは当然だと。甘ったるい青春に対する反抗心をはらわたの中で煮えくりかえしながら生活することに疲れてしまったのだ。

 あやふやで、ぼやけた私の存在は、自分の中ですら朧げで、脆い。明日も生きている自信がない。とりあえず、自主休講丸一週間を迎えた記念に、良かったことでも挙げてみよう。

 レポートのことを考えなくなったのは、大きな精神安定を私にもたらしたことだけは確かだ。それから、面白味の一切ない授業を聞いて人生をすり潰すという無駄を人生から削減できた。そしてなにより、学内にあふれる甘ったるい空気を吸わないでいられるということが幸福でならない。どうにもやはり、私はあらゆる意味で色恋に適性がないのだろう。それはずっと昔から変わらない。

 私は優雅な休講貴族。散歩に出てみるのもおつなものだ。一年生の時にバイトをして購入したモコモコファーつきのジャケットを着て、部屋から出た。行きつけの骨董屋にでもいこうと思ったのだ。限りある時間は有効に使わなければならない。

 いきつけの骨董屋、紫陽花(あじさい)は私の住む、耐久年数を超えに超えて久しいと思われるオンボロ屋敷、双葉(ふたば)(そう)から徒歩五分という近さにある豪邸のような骨董屋だ。休講貴族といっても、甘くない外気ならたっぷりと吸っていたいものだ。だから私はよく散歩に行く。

 それも今日が最後だ。空を飾っている茜色の夕日がやけに美しく感じる。


 考え事を脳内に張り巡らせながら歩いていると、もうついてしまった。腕時計を見ると、三分しかたっていない。自然と早足になっていたらしい。焦っているのか。

 紫陽花の店先では普段通り、誰が買っていくんだと疑問に思わざるを得ない、私の背丈ほどある狸の置物がわがままボディを披露していた。狸君のかなり立派なメタボリックおなかに触ると、冬の空気にさらされているせいで氷のように冷たくなっていた。紫陽花の看板息子である狸君がおなかを壊さないかが心配でならない。

 店内に入ると、雑然と並んだ多種多様の商品と少し埃っぽい空気と、すでに顔見知り以上の関係であるオヤジさんが出迎えてくれた。オヤジさんは坊主頭に青いバンダナを巻くという勇ましいファッションに身を包み、どこかの国の奇怪な木製の人形についた汚れを雑巾で懸命に拭いている。

「おう、兄ちゃんか。どうだァ、これ、買うかい?」

 ぐい、と私の目の前に突き出された人形は到底魅力のあるものではなかったので多分、私とは相性が悪い、とオヤジさんに伝えると、オヤジさんはそうか、と一言つぶやいて残念そうに人形の掃除を続けた。ちょっぴり胸が痛んだ。

 私はほとんど倉庫のような店内をぐるりと一周する。

 背もたれの壊れた妙な造形の椅子。

 割ったら確実に怒られそうな壺。

 極彩色の模様が描かれた怪しげな仮面。

 天井の隅には蜘蛛の巣。

 いつも通りの紫陽花だった。しかし、なにか心にひっかかる。気のせいだと振り払うにしては、箪笥の角に小指をぶつけたときの痛みのように強烈な心のひっかかりだ。もう一周してみよう。

 そして二週目も半分に差し掛かった時、私はある一つの変化に気が付いた。

いつもは骨董品が繊細なパズルのように積み重ねられている場所に、なにもないのだ。山のような骨董品がなくなった代わりに、そこには薄暗い通路が続いていた。私の脳内レーダーがなにかあるぞと叫んでいるので、その不埒な叫びに今日ぐらい従ってみる。

 通路の先には紫陽花の常連である私が見たことのない骨董品がゴロゴロと転がっていた。しかし骨董品パズルにふさがれていたのに予想していたほど埃っぽくない。もしかしたらオヤジさんが掃除をしたばかりなのかもしれない。もういくつか寝ると正月だし、大掃除でもしていたのだろう。

 通路の壁には棚があり、そこに並ぶ目新しい骨董品を手に取りつつ、しげしげと眺める。手のひらサイズの赤い蛙の置物はなかなの可愛さだった。赤い肌に浮かぶ黒い斑点と、ぎょろりとした黄色い目玉がプリティ。

 オヤジさんに見つかるまえに通路から退散しないと怒られるだろうかと戦々恐々しつつ、奥に進んでいく。埃は全然ないけれど、通路を進むたびに怪しげでジットリとした空気が私の肌に張り付いてくるようになってきた。普段ならあまり吸いたくない部類の空気であるが、今日という日には、この怪しさが絶妙にマッチしている気がして、私の足は減速することを知らず、歩を進めていく。

 歩きなれてくると、蜘蛛の巣や憎き虫どももいないので通路の方が私的には快適かもしれなかった。私の敏感な鼻が感じる古びた木の匂いも心地良い。

 直進、左折、直進、右折、ずっと直進、直進。私は一本道を進んでいく。

 こんなに紫陽花は広かったのかと改めて感心するほど、通路は長く、果てがないように思えてきた。この長く薄暗い通路の先にいったい何があるのだろうか。地下百階まで続く紫陽花の迷宮でもあるのだろうか。心ふるえる冒険が待っているのだろうか。もしそうだとしたら方眼紙と鉛筆を忘れてしまったことが非常に悔やまれる。地図を書けない今の私が迷宮に挑むのはよしておいた方がいいだろう。楽しみと生存率が半減する。

 少し前に熱中したゲームの影響が如実に脳に現れていることに恐れを抱きつつ、少し疲れてきた足を手でもんで、また歩き始めた。紫陽花の最深部を目指して。

 ちなみに通路の初めの方で私と運命の出会いを果たしたプリティ赤蛙は私のジャケットのポケットに在住している。オヤジさんから許可がでたら永住してくれても全く構わない。

 私の左右にある棚に沢山あった骨董品は、通路を進むほどに少なくなっていった。そのことを少し訝しがるも、私はそれを打ち消すように蛙君をポッケの上から撫でつつ木の床を鳴らしながら歩く。もうこの子以上の運命の出会いは望めないだろう。

 直進、右折、ずっと直進、右折、直進、左折――――ぴたり、私の足が止まる。息をのむ。

 ここがおそらく紫陽花の最深部。長く果てのないようにも思えた通路の終わり。行き止まり。おそらく世界小心者ランキングがあれば間違いなく上位に食い込む私の心臓は、激しいビートを刻んでいた。

 暗がりに薄ぼんやりと浮かぶ輪郭。左右の棚には何もなく、通路の突き当りに居る存在だけに私の意識が注がれる。注がざるを得ないほどに、その存在の気配はどろりと濃い。

 あれは先ほどから私が常に感じていた、肌に張り付く空気の生みの親かもしれない。二十メートルくらいの距離が私と謎の存在の間に置かれている。心臓の鼓動が耳にうるさい。

 少しずつ、半歩ずつ、一歩ずつ。私は突き当りに近づいていく。はやる気持ちが私の心臓をないがしろにする。うるさい。バクバク、バクバクと命の音が騒がしい。

 後、五歩、五歩だ。五歩であの輪郭を確かめられる。ぐっ、と歯を食いしばり、もし何が起きてもいいように鉄の鎧のように強固な心構えをしながら踏み出していく。

 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩―――。

 うわっ、と小さい悲鳴が口から漏れた。あれほどガチガチの心構えをしたにもかかわらず。やはり小心者ランキング上位ランカー(自称)は伊達ではない。紫陽花の謎の通路。その奥にあったのは、心躍るような冒険の舞台への階段ではなかった。かの有名な物語の英雄、桃太郎も大歓喜の金銀財宝でもなかった。

 人間。ひとりの人間だ。

 通路の暗さのせいで全容を詳しくつかむことはできないが、うつむいた人間が突き当りの壁にもたれるようにして座っている。私の肌にぺたぺたとくっついてきたのは、この人間の無念や未練だったのだろうか。近づいてみても呼吸音も聞こえないし、生気も感じないのだ。もしや、にわかに信じたくはないが死んでいるのか。

 だとしたら犯人は一人しかいない。ポケットを探るも、携帯がない。忘れてしまったようだ。私はジャケットの内ポケットからライターを取り出した。決めつける前に、真相を確かめなくては。

 カチン、と音がして百円ライターの明かりがともる。普段はゆらゆらと揺れる頼りない光が、今は真相を究明するために欠かせないものになっている。小さな火のおかげで、通路はかすかに明るくなった。

 私はしゃがみ、光を座っている人間に近づける。そして見えたのは赤い着物の長い袖。振袖だろうか。背丈も小柄。うつむいているせいで顔は見えない。黒く長い髪の毛が床に垂れている。この人間はどうも女の子らしい。おそらく、人生を歩き疲れることもまだ知らないほどに若い。じわりと、胸に怒りがこみ上げる。

 ……もしこの子が死んでいたら、私はきっとあなたを許せないぞ。オヤジさん。

 私は、ライターを持っていない手を女の子にそっと近づける。体温の有無を確かめたい。頼む、生きていてくれ。君は死ぬには早すぎる。指先がうなじに触れようとした、その瞬間、

「そいつにさわんじゃねぇ! 馬鹿野郎!」

 伸ばした手が反射で縮こまる。後ろを向くと、ライターのちっぽけな光など比べものにならない懐中電灯の強い光が私の目を刺激した。光源を片手に肩で息をしている大声の主はオヤジさんだ。

 着物の女の子に近づく前に私が立っていた場所でするどく私を睨みつけている。その迫力には有無を言わさないものがあった。私に通路を荒らされた怒りか、秘密を暴かれかけている怒りなのかわからないが、いつもの穏やかさがオヤジさんから消し飛んでいるのはわかる。

「オヤジさん、この子、オヤジさんが……」

 内心で恐怖と格闘しながら、言葉をひねり出した。でてきた言葉はひどく震えていた。

「……ここは俺の店だ。それ以外にあると思うか」

 雷が脳天にずばりと落ちてきたような衝撃が私の全身を駆け巡る。

「警察に連絡します。いいですよね、見つけた以上、俺は黙っていられません。ちゃんと、この子に謝って、罪つぐなって、そしたら、また紫陽花に帰ってきてください」

「なに言ってやがる、そんなことすんなよ。わかるだろ」

 この人は、本気で言っているのか。私のなかにあった、オヤジさんへの信頼が崩れていく音が心臓の鼓動に混じって聞こえてくる。ガラガラ、ガラガラと、私の心は急激な変化に耐えられず、なかば工事現場の瓦礫のようである。あまりにも唐突な出来事に目頭が熱くなってくる気配を感じる。

「わかりませんよ……年端もいかない女の子を、こんなカビ臭いところに閉じ込めて……。これが罪じゃなかったら何を罪というんですか」

「……うむ。そうだな、それは間違いなく罪だろうな。執行猶予もつかんだろう」

 オヤジさんが神妙な様子でうなずいた。

 ああ、もうオヤジさんとコーヒーを飲めないのか。煙草を吸えないのか。

 よりによって今日、こんなことになってしまうなんて。

「じゃ、外に出て電話……します。邪魔するのなら、オヤジさんを殴り倒してでも!」

「……ああ、好きにするといい。邪魔なんてしねぇ。警察も息せき切って来るだろうさ……その嬢ちゃんが、兄ちゃんの言う、人間だったらな」

 人間だったら? 違うというのか。じゃあコレはなんだ。いったいなんだ……あ。

「この子……売り物、なんですか」

「ああ、そういうことだ。まったく……腐敗臭もしてないだろうに。すぐわかれ、阿呆。人形だよ。その子は」

 そんな馬鹿な。人形。これが人形だというのか。ならなぜ。

「なぜ触ったらダメなんです。そんなに怒るほどに大切な人形なら、なんでこんなところに」

 私がそう尋ねると、オヤジさんは顎に手を当てて、目をつむった。

そして目の代わりに口が開く。

「…………よくあるだろ。骨董屋に一つはさ。『いわくつき』ってやつが。その人形は、ありていに言えば――呪われている。その子に触った奴は全員、いいか、全員だ。死んでいるんだよ。そういう触れ込みだ。ほれ、よく兄ちゃんの周り、見てみな」

 オヤジさんの懐中電灯が僕の横にある棚を照らした。

 そこには、びっしりとお札が貼られていた。そのお札たちは私には読むことのできない文字で書かれているが、冗談で書かれたものではないことを察することはできた。

「そいつが俺の店に来た時……もう二十年くれぇも前だ。俺が兄ちゃんみてぇに若かった頃、お金はいくらでも出すから、どうか預かってくれと男がその子を持ってきたんだ。呪いのことも聞かされたが、骨董屋を始めて間もなかった俺は飛びついたさ。金はあっても困ることはねぇしな。

 んで、都合よくこの建物には延々と続く倉庫があった。預かってもいいが触っちゃならねぇもんなら、お前さんが倉庫の奥まで運んでくれや、って言ったら男はもう、すごい笑顔になってな。すごいって言っても大笑いしたわけじゃねぇぞ。心の底から安心しきった笑顔だよ。そうとう追い詰められてたんだなぁ」

「それで、その男の人は」

「……死んじまった。関わった人間として墓参りに行ったよ。そのあと、神社に行ってお札を買いまくった。気休めかもしれんが、ないよりゃましだ。気は休まる」

 触れたら死ぬ。そういう呪いがある人形。だから、この通路にはどこか違う空気が充満していたのか。人形の異常な存在感も納得がいく。

 事態の正確な認識が済むと、オヤジさんへの申し訳なさが泉のように湧き上がってきた。

「すみません、オヤジさん。勝手にオヤジさんを犯人扱いして……」

 がっはっは、と豪快にオヤジさんが笑う。

「いいさ、気にしてない。若いころは思い込みも激しくなけりゃ、人生面白くねぇよ」

 オヤジさんが許してくれたことに私はほっと息をついた。

 だが、湧き上がるもう一つの感情を私は止められそうにない。

 呪い。死ぬ、呪い。いわくつき。

「あの……この子っていくらで売ってるんですか」

「ん? 値段なんてつけてねぇよ。捨てるにもさわれねえし、お祓いしようにもそれはそれで呪われそうだしなァ……引き取り手がいるもんなら喜んで、ってとこさ」

 オヤジさんは深いため息をついた。そうか、それならちょうどいい。

「じゃ、俺がもらっても問題ないですか」

 ごとり、とオヤジさんの懐中電灯が床に落ちる。そのまま転がって、私の足元にやってきた。煌々と、暗い通路を照らすただ一つの明かり。

「ばっ、馬鹿言ってんじゃねぇよ。兄ちゃんを死なすわけにいかん」

「死にませんよ。俺、そういうのへの対処とか呪いとか勉強してるんです。対策もばっちり、どんとこいですよ。ね、オヤジさんの心配事も減るし、俺はこの子を手に入れられるしで、良いことしか起こりませんよ」

「しかしな……」

「もしやばそうだったら、お祓いに精通してる友達もいるんでそいつを頼れば大丈夫です。お願いします、この子を俺にください!」

 私は立ち上がり、腰を直角に近いほど曲げてお辞儀をした。まるで義父に娘を貰い受けることを彼氏が請う場面がごとき誠実な礼である。

「……わかった。でもな、絶対、手遅れになる前になんとかしろよ。自分より若い奴の墓、参るなんて御免だからな」

 答えるオヤジさんもなんとなく父親の風格のようなものを漂わせていた。

「はい、ありがとうございます。じゃ、オヤジさんは先に戻ってください。移動の途中でこの子に触ると、まずいでしょう?」

 オヤジさんは迷うそぶりをまだ見せていたがすぐに、ああ、と呟き通路を戻っていった。オヤジさんの足音がゆっくり遠のいていく。

 そして。もうこの通路には、私と足元のこの子だけ。

 今日、この日に、

 命を投げ出そうとしていた私と、

 命を奪う呪いを持った人形だけ。

 声を押し殺して、私は笑う。力を込めた腹が震える。もはや、これを運命と言わずになんと称したらいい。ずっと考えていたんだ。ただ死ぬのでは、つまらないと。この二十年間生きてきて、負った傷の分、疲れた体の分、この世界から解放される方法くらい面白味のあるものにできないかと。生きていて楽しめなかったのなら、死ぬという幻想を見ていたいと。  

 そんなときにこの出会いだ。

 私はこの出会いのためだけに生まれたのかもしれない。

 私は懐中電灯をつかんだ。人形を照らす。着物は年月を経て汚れてはいるが、その真っ赤な色彩は薔薇のごとき妖艶さを有していた。今すぐに動き出しても不思議に思えない。動いたとしても、きっとそれが自然のように思うだろう。

 激しい興奮を抑えつつ、私は、そっと、やさしく彼女の頬に触れた。まるで人間のようにその肌はやわらかかった。

 触れた。

 私は彼女の呪いにかかったのだ。死への線路に立った。もう、途中下車はできない。このまま地獄の何丁目かまで連れて行ってくれ。地球外生命体には地球はつらすぎたんだ。

 私を救済してくれる彼女の顎をくいと上げ、顔を見る。いわゆる日本人形のような、筆で書かれた顔ではなかった。服が和装なドールと言ったところか。精巧な作りで、表情は目を閉じ、安らかに眠っているように見える。天使とか巫女とか神聖なイメージを沸かせる柔らかで清純な顔だ。

 とても人を殺す風には見えないが、オヤジさんは嘘をつかない。冗談を言う時の癖も出ていなかった。間違いは、ない。……けっこう可愛いとか、思っている場合ではないのだ。相性は、良いにこしたことはないけど。

 私は彼女をおんぶする。彼女の着物に住み着いたカビの臭いがけっこうすさまじい。呪いより、こちらの方がきついのではないか。仮にも女の人を模したモノにくさい、と直接的に言うのは気が引けるので、個性的なスメルと言うことにする。ああ、一歩歩くたびに揺れる彼女の袖から匂い立つ個性的なスメル。(かぐわ)しいスメル。これが俗にいうフェロモンというものか。もう私はメロメロである。

 通路は一本道だったので迷う心配もない。増えた荷物も蛙君と人形だけなのでたいした疲れも感じない。人形である彼女の重さは人間とはまた違った重さだった。体温のない肉体から伝わってくるのは冬の空気と同化したような冷たさだ。あんな暗がりに押し込まれて、さぞ寒かったろう。けど、もう大丈夫だ。もうすぐ、この長い通路から出してやれる。

 歩き続けて、一時間ほど経っただろうか。私は暗い通路から出た。店内の電灯の明かりが闇に慣れた目に優しくない。目をしばたかせて回復に努める。オヤジさんはいつもコーヒーを出してくれるカウンターに座っていた。

「おお、無事に出てきたか、兄ちゃん」

 オヤジさんは吸っていた煙草を灰皿に押し付けながら言った。

「ええ、呪い、即効性はないみたいですよ」

「あー……。呪いな。ほんとに何とかしろよ。変化あったら俺にも報告しろ。良い医者を紹介してやるから、心も体も任せろ」

「わかりました。その時はお願いします」

 私は彼女を落とさないように気をつけてお辞儀をする。彼女の髪が私の顔の横に垂れた。

「はぁ……なんだかな。その子に呪いがなけりゃ、お前らまるで兄妹みたいだぜ」

「はは、こんな綺麗な妹をもったら大変でしょうね、色々」

 妹か。私は妹に殺されるのを望む兄ということになる。なかなかに病んだ家族だ。

「せいぜい変な男に連れて行かないように気をつけるんだな。まぁ、逆にそいつが男をあの世に連れて行っちまうかもしれねぇけど」

 私は苦笑いを浮かべた。オヤジさんは気が付いていない。今、まさにその事態が起きていることを。この地球上で一等変な男である私が彼女を家に連れ込んで、そして連れて行ってもらうのだ。あの世へ。私の魂胆をオヤジさんは知らない。

 そうだ。家に帰る前に聞きたいことがあった。

「さっき赤い蛙の置物、持ってきちゃったんですけど、いくらですかね」

「ああ、あの毒々しいのか。いいよ、あんなもん気に入るのは兄ちゃんくれぇだ。もってけ」

「ありがとうございます……大切にします」

「んだよ、かしこまって。冥土の土産じゃねぇからな。生きろよ、兄ちゃん」

 私は自分でもどのような形を作ったのかわからない歪んだ笑顔をオヤジさんに向けて、紫陽花から出た。おそらく、もう二度とこの敷居をまたぐことはないだろう。





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