ディメンティア・アンフィキュクロス~狂騒の円環~
吹雪が荒野を白く塗り潰していた。風が唸り雪が舞い、視界のすべてが白に染まる。その中でただ一箇所だけが異様な色をしていた。
ーーー血。焼け焦げた肉。そして、何度も踏み荒らされた雪。
「――どうした、ノエル」
低い笑い声が響く。
「まだ死なねえのか?」
巨大な影が、雪の上に倒れた男を見下ろしていた。全身を黒い甲殻に覆われ、背中からは歪んだ節足が伸びている。
人間だった頃の面影を僅かに残した顔には、憎悪だけが宿っていた。
その男の名はブリンガー・アートグリフ。かつてノエル・クノーラと肩を並べて戦った親友。
しかし今の彼は人ではなかった。
「……殺して、くれ……」
雪に伏したノエルが呻く。右腕は肘から先がない。左脚には巨大な爪が食い込み、腹部には深々と裂傷が走っている。
「俺にそんなことを頼むのか?」
ブリンガーは笑った。
「お前が俺にしたことを忘れたのか?」
巨大な爪が振り下ろされる。瞬間、ノエルの肩が抉れた。
「ぐっ……!」
何度も鮮血が舞う。だが、ブリンガーはとどめを刺さない。代わりに、黒い炎を傷口へ押しつけた。
「死なせてなんかやらねえよ」
ジュッ、と肉の焼ける音がする。
「傷口を焼けば血は止まる。そうすりゃ、まだまだ楽しめる」
「……どうして……」
ノエルは苦痛に顔を歪める。
「どうして、そこまで……」
「分からねえか?」
ブリンガーは顔を近づけた。
「お前を殺したら、アリエスはどうなる?」
「……!」
「お前は悲劇の英雄になる。あいつの心の中で、永遠にな」
ブリンガーの口元が醜く歪む。
「だから殺さねえ。お前が苦しみ続ける姿を、あの女に見せ続ける」
「……やめろ」
「お前が死にたがるほど、あいつはお前を救おうとする」
「やめてくれ……!」
「最高だろ?」
そのときだった。
「――やめてっ!」
吹雪を裂いて、一人の少女が駆けてくる。銀色の髪を雪と血で濡らしたアリエスだった。
「ノエル!」
彼女は倒れたノエルを抱き起こす。
「大丈夫……大丈夫だから……今、治すから……!」
「来るな、アリエス……!」
「嫌!」
アリエスは震える両手をノエルへ向けた。
「《パーフェクト・ヒール》!」
白銀の光が二人を包む。失われた右腕が、みるみるうちに再生していく。裂けた腹が塞がり、潰れた脚が元に戻る。
ーーー奇跡だった。
だが、その奇跡を起こしたアリエスの顔には、まるで生気がない。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする。
指先は震え、唇は青ざめている。この魔法は、ただ魔力を消費するだけではないのだ。
術者自身の生命力を削る。それでもアリエスはノエルを抱き締めた。
「もう……大丈夫だから……」
「……また、回復してしまった」
ノエルは再生した右手を見つめた。
「どうして……僕なんかを……」
「あなたが死んだら、私が嫌なの」
「僕は……死ななきゃいけないんだ」
「そんなこと言わないで!」
アリエスの目から涙が零れる。
「あなたがどれだけ苦しんでいるか知ってる。でも……だからって、死んでいい理由にはならない!」
ノエルは答えなかった。ただ、苦しそうに目を伏せた。その姿を見て、ブリンガーは笑う。
「……いい顔だ」
ーーーそれから。
同じことが、何度も繰り返された。
傷つける。アリエスが治す。また傷つける。
そして、また治す。
そのたびにノエルは死を願い、アリエスはそれを拒んだ。しかし、代わりにアリエスの命の灯がみるみる削れていくのであった。
「もう……無理……」
何度目かの《パーフェクト・ヒール》を終えたアリエスが、雪の上に膝をつく。
「魔力が……」
両の手が震えている。
「もう限界か……」
ブリンガーが大剣を抜く。それを見るやアリエスが顔を上げた。
「次が最後だ」
ブリンガーはノエルの首元へ剣を突きつけた。
「次にこいつを傷つけたら、お前にはもう治せない」
「……」
「だから選べ、アリエス」
ブリンガーが手を差し出す。
「俺と来い。俺と共に闇へ堕ちろ。俺の女になって、俺と一緒に生きろ」
そして、剣先をノエルへ向ける。
「それが嫌なら――ここでこいつの死を見届けろ」
「……そんな……」
「アリエス!」
ノエルが叫んだ。弱々しく、だが必死な声で。
「僕を選ぶな……! 僕を見捨てて逃げるんだ!」
「ノエル……」
「頼むから……もう僕を楽にさせてくれ……! 君が 僕のために傷つく姿を見るくらいなら、ここで死んだほうがマシなんだ!」
「……っ!」
アリエスの目からポロポロと涙が溢れ出す。
震える足で立ち上がり、一歩、また一歩とブリンガーへ近づいていく。
「……嫌」
「アリエス! やめろ!」
「あなたが私を守るために死ぬなら……私は、あなたを生かすために悪魔にだってなる」
アリエスはブリンガーの差し出した手を取った。
「……分かったわ。あなたと行く。だから――ノエルだけは助けて」
ブリンガーはしばらく黙っていた。
ーーーそして。
「ーーー甘いなぁ、アリエス」
ニチャリと浮かべた笑みは、すでに完全な人外のそれだった。
「お前は俺を選んだ」
「……え?」
「なら、もうこいつは用済みだ」
アリエスの顔が凍りつく。
「待って……」
「人質に価値があるのは、お前がこいつを選ばないという選択をした時のみ!」
ブリンガーはアリエスの手を振り払った。
「お前が俺を選んだ時点で――ノエルは必要ねえ」
「や、やめて!」
大剣が振り上げられる。
「ノエル!」
「来るな!」
ノエルは目を閉じた。抵抗しない。まるで、本当に死を受け入れたかのように。
「死ねぇぇぇぇッ!」
凄まじいスピードで振り下ろされる大剣。
――しかしその瞬間。
ガキンッ!
刃が止まった。
「……は?」
ブリンガーが目を見開く。大剣を受け止めていたのは――ノエルの左手だった。
素手。傷一つない。
「な……」
ブリンガーが剣を引こうとする。
動かない。
「なんだ……これ……?」
ノエルが目を開いた。
「……あーあ」
その顔には、もう苦痛も恐怖もなかった。
「もう少し楽しめると思ったんだけどなぁ」
その顔にはすでに先程までの悲壮感は微塵もなく、不気味な笑みが浮かぶだけだった。
「ノエル……?」
アリエスが呟く。
すっとノエルは立ち上がった。先ほどまで血まみれだった身体に、傷は一つもない。
焼け焦げた肩も。千切れたはずの肉も。すべてが完全に再生している。
そして、その身体から黒い魔力が溢れ始めた。
雪が触れたそばから消えていく。大気そのものが震えている。ブリンガーの異形の力など、まるで子供の玩具だった。
「な……何だ、お前……」
ノエルは微笑んだ。
「合格だよ、ブリンガー」
「……合格?」
「うん」
ノエルは掴んでいた大剣を、片手でへし折った。
金属が紙のように砕ける。
「君は期待通り、最高の演出家になってくれた」
「……何を言ってる?」
「ここまで完璧にアリエスを追い詰めてくれるとは思わなかったよ」
「……まさか」
ブリンガーの顔から血の気が引く。
「お前……最初から……」
「そう」
ノエルは笑った。
「全部、僕の計画だよ」
「嘘だ……」
「君を化物にしたのも僕」
「……!」
「君が僕を恨むようにしたのも僕」
「違う……!」
「君が僕を殺さず、アリエスに治療させ続けるようになったのも――僕がそうなるように仕向けた」
ブリンガーの身体が震える。
「俺は……俺はずっと……」
「僕への復讐をしているつもりだった?」
ノエルが笑う。
「そうだね」
一歩、近づく。
「君はずっと、僕の手のひらで踊っていた」
「ふざけるなぁぁぁぁッ!」
ブリンガーが咆哮する。爪を振り上げ、ノエルへ突進した。
ーーーだが。ノエルは動かなかった。
「もう十分だよ」
指を一度、鳴らす。
パチン。
それだけだった。
たったそれだけで、ブリンガーの巨体が内側から弾けた。黒い血と肉片が雪原へ散る。かつて親友だった男は、声を上げる暇すらなく消えた。
あとには吹雪の音だけが残った。
「……さて」
ノエルが振り返る。そこには、アリエスがいた。
立っていることさえできず、雪の上に座り込んでいる。
「……ノエル……」
声が震えていた。
「今までの……全部……?」
「うん」
「あなたが……苦しんでいたのも……」
「演技だよ」
「私が……あなたを治すために……命を削ったのも……」
「君なら、そうすると思ってた」
「私が……あなたを助けるために……ブリンガーと……」
アリエスの声が途切れる。
その瞳から、ゆっくりと光が消えていった。
「……全部……あなたが……?」
「そうだよ」
ノエルは優しく答えた。
そして、崩れ落ちたアリエスを抱き寄せる。
「かわいそうに」
「……いや……」
「怖かったね」
「いや……離して……」
「もう大丈夫だよ」
ノエルの手が、アリエスの銀髪を撫でる。
「悲しいお芝居は終わったんだから」
耳元へ唇を寄せる。
「君は僕のために、命も、心も、誇りも――全部捨ててくれた」
「……」
「そうだろう?」
返事はない。ノエルはそれでも笑っていた。
「だからもう、君には何も残っていない」
吹雪の中、アリエスを抱く腕に力がこもる。
拒絶する力すら失った彼女の体は、ただ冷たく、そして重い。白い雪が降り続け、血に汚れた大地を覆い隠していく。
ブリンガーという狂言回しを排除し、計画は完璧に結実した。
すべてを奪い、壊し尽くした果てに遺ったのは――心を失った愛しい人形と、それを満足そうに抱きしめるノエルだけだった。




