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ディメンティア・アンフィキュクロス~狂騒の円環~

作者: 不諦
掲載日:2026/09/17


 吹雪が荒野を白く塗り潰していた。風が唸り雪が舞い、視界のすべてが白に染まる。その中でただ一箇所だけが異様な色をしていた。


 ーーー血。焼け焦げた肉。そして、何度も踏み荒らされた雪。


「――どうした、ノエル」

低い笑い声が響く。

「まだ死なねえのか?」


 巨大な影が、雪の上に倒れた男を見下ろしていた。全身を黒い甲殻に覆われ、背中からは歪んだ節足が伸びている。

 人間だった頃の面影を僅かに残した顔には、憎悪だけが宿っていた。


 その男の名はブリンガー・アートグリフ。かつてノエル・クノーラと肩を並べて戦った親友。

 しかし今の彼は人ではなかった。


「……殺して、くれ……」

 雪に伏したノエルが呻く。右腕は肘から先がない。左脚には巨大な爪が食い込み、腹部には深々と裂傷が走っている。


「俺にそんなことを頼むのか?」

ブリンガーは笑った。

「お前が俺にしたことを忘れたのか?」

 巨大な爪が振り下ろされる。瞬間、ノエルの肩が抉れた。


「ぐっ……!」


 何度も鮮血が舞う。だが、ブリンガーはとどめを刺さない。代わりに、黒い炎を傷口へ押しつけた。


「死なせてなんかやらねえよ」

 ジュッ、と肉の焼ける音がする。

「傷口を焼けば血は止まる。そうすりゃ、まだまだ楽しめる」


「……どうして……」

 ノエルは苦痛に顔を歪める。

「どうして、そこまで……」


「分からねえか?」

 ブリンガーは顔を近づけた。

「お前を殺したら、アリエスはどうなる?」


「……!」


「お前は悲劇の英雄になる。あいつの心の中で、永遠にな」

 ブリンガーの口元が醜く歪む。

「だから殺さねえ。お前が苦しみ続ける姿を、あの女に見せ続ける」


「……やめろ」


「お前が死にたがるほど、あいつはお前を救おうとする」


「やめてくれ……!」


「最高だろ?」

 そのときだった。


「――やめてっ!」


 吹雪を裂いて、一人の少女が駆けてくる。銀色の髪を雪と血で濡らしたアリエスだった。

「ノエル!」

 彼女は倒れたノエルを抱き起こす。

「大丈夫……大丈夫だから……今、治すから……!」

「来るな、アリエス……!」

「嫌!」


 アリエスは震える両手をノエルへ向けた。

「《パーフェクト・ヒール》!」

 白銀の光が二人を包む。失われた右腕が、みるみるうちに再生していく。裂けた腹が塞がり、潰れた脚が元に戻る。


 ーーー奇跡だった。


 だが、その奇跡を起こしたアリエスの顔には、まるで生気がない。

「はぁ……はぁ……」

 肩で息をする。

 指先は震え、唇は青ざめている。この魔法は、ただ魔力を消費するだけではないのだ。


 術者自身の生命力を削る。それでもアリエスはノエルを抱き締めた。

「もう……大丈夫だから……」

「……また、回復してしまった」

 ノエルは再生した右手を見つめた。

「どうして……僕なんかを……」


「あなたが死んだら、私が嫌なの」


「僕は……死ななきゃいけないんだ」

「そんなこと言わないで!」

 アリエスの目から涙が零れる。

「あなたがどれだけ苦しんでいるか知ってる。でも……だからって、死んでいい理由にはならない!」


 ノエルは答えなかった。ただ、苦しそうに目を伏せた。その姿を見て、ブリンガーは笑う。

「……いい顔だ」


 ーーーそれから。

 同じことが、何度も繰り返された。


 傷つける。アリエスが治す。また傷つける。


 そして、また治す。


 そのたびにノエルは死を願い、アリエスはそれを拒んだ。しかし、代わりにアリエスの命の灯がみるみる削れていくのであった。


「もう……無理……」

 何度目かの《パーフェクト・ヒール》を終えたアリエスが、雪の上に膝をつく。

「魔力が……」

 両の手が震えている。

「もう限界か……」

 ブリンガーが大剣を抜く。それを見るやアリエスが顔を上げた。


「次が最後だ」


 ブリンガーはノエルの首元へ剣を突きつけた。

「次にこいつを傷つけたら、お前にはもう治せない」


「……」


「だから選べ、アリエス」

 ブリンガーが手を差し出す。

「俺と来い。俺と共に闇へ堕ちろ。俺の女になって、俺と一緒に生きろ」


そして、剣先をノエルへ向ける。

「それが嫌なら――ここでこいつの死を見届けろ」


「……そんな……」

「アリエス!」

 ノエルが叫んだ。弱々しく、だが必死な声で。

「僕を選ぶな……! 僕を見捨てて逃げるんだ!」

「ノエル……」

「頼むから……もう僕を楽にさせてくれ……! 君が 僕のために傷つく姿を見るくらいなら、ここで死んだほうがマシなんだ!」


「……っ!」

 アリエスの目からポロポロと涙が溢れ出す。

震える足で立ち上がり、一歩、また一歩とブリンガーへ近づいていく。


「……嫌」


「アリエス! やめろ!」

「あなたが私を守るために死ぬなら……私は、あなたを生かすために悪魔にだってなる」

 アリエスはブリンガーの差し出した手を取った。


「……分かったわ。あなたと行く。だから――ノエルだけは助けて」

 ブリンガーはしばらく黙っていた。


 ーーーそして。


「ーーー甘いなぁ、アリエス」

 ニチャリと浮かべた笑みは、すでに完全な人外のそれだった。

「お前は俺を選んだ」

「……え?」


「なら、もうこいつは用済みだ」

 アリエスの顔が凍りつく。

「待って……」

「人質に価値があるのは、お前がこいつを選ばないという選択をした時のみ!」

 ブリンガーはアリエスの手を振り払った。

「お前が俺を選んだ時点で――ノエルは必要ねえ」


「や、やめて!」

 大剣が振り上げられる。

「ノエル!」

「来るな!」

 ノエルは目を閉じた。抵抗しない。まるで、本当に死を受け入れたかのように。

「死ねぇぇぇぇッ!」

 凄まじいスピードで振り下ろされる大剣。


 ――しかしその瞬間。


 ガキンッ!


 刃が止まった。

「……は?」

 ブリンガーが目を見開く。大剣を受け止めていたのは――ノエルの左手だった。

 

 素手。傷一つない。

「な……」

 ブリンガーが剣を引こうとする。

動かない。

「なんだ……これ……?」


 ノエルが目を開いた。

「……あーあ」

 その顔には、もう苦痛も恐怖もなかった。

「もう少し楽しめると思ったんだけどなぁ」

 その顔にはすでに先程までの悲壮感は微塵もなく、不気味な笑みが浮かぶだけだった。


「ノエル……?」

 アリエスが呟く。

 すっとノエルは立ち上がった。先ほどまで血まみれだった身体に、傷は一つもない。

 焼け焦げた肩も。千切れたはずの肉も。すべてが完全に再生している。


 そして、その身体から黒い魔力が溢れ始めた。

 雪が触れたそばから消えていく。大気そのものが震えている。ブリンガーの異形の力など、まるで子供の玩具だった。


「な……何だ、お前……」

ノエルは微笑んだ。

「合格だよ、ブリンガー」

「……合格?」

「うん」

 ノエルは掴んでいた大剣を、片手でへし折った。


 金属が紙のように砕ける。


「君は期待通り、最高の演出家になってくれた」

「……何を言ってる?」

「ここまで完璧にアリエスを追い詰めてくれるとは思わなかったよ」

「……まさか」

 ブリンガーの顔から血の気が引く。

「お前……最初から……」

「そう」

ノエルは笑った。

「全部、僕の計画だよ」


「嘘だ……」

「君を化物にしたのも僕」


「……!」

「君が僕を恨むようにしたのも僕」


「違う……!」

「君が僕を殺さず、アリエスに治療させ続けるようになったのも――僕がそうなるように仕向けた」

ブリンガーの身体が震える。


「俺は……俺はずっと……」


「僕への復讐をしているつもりだった?」

ノエルが笑う。


「そうだね」

一歩、近づく。


「君はずっと、僕の手のひらで踊っていた」

「ふざけるなぁぁぁぁッ!」

 ブリンガーが咆哮する。爪を振り上げ、ノエルへ突進した。

 ーーーだが。ノエルは動かなかった。

「もう十分だよ」

 指を一度、鳴らす。

 パチン。

 それだけだった。

 たったそれだけで、ブリンガーの巨体が内側から弾けた。黒い血と肉片が雪原へ散る。かつて親友だった男は、声を上げる暇すらなく消えた。


 あとには吹雪の音だけが残った。


「……さて」

 ノエルが振り返る。そこには、アリエスがいた。

 立っていることさえできず、雪の上に座り込んでいる。


「……ノエル……」

声が震えていた。

「今までの……全部……?」

「うん」

「あなたが……苦しんでいたのも……」


「演技だよ」


「私が……あなたを治すために……命を削ったのも……」


「君なら、そうすると思ってた」


「私が……あなたを助けるために……ブリンガーと……」

 アリエスの声が途切れる。

 その瞳から、ゆっくりと光が消えていった。

「……全部……あなたが……?」


「そうだよ」

ノエルは優しく答えた。

 そして、崩れ落ちたアリエスを抱き寄せる。

「かわいそうに」

「……いや……」

「怖かったね」

「いや……離して……」

「もう大丈夫だよ」

 ノエルの手が、アリエスの銀髪を撫でる。

「悲しいお芝居は終わったんだから」

 耳元へ唇を寄せる。

「君は僕のために、命も、心も、誇りも――全部捨ててくれた」


「……」

「そうだろう?」

 返事はない。ノエルはそれでも笑っていた。

「だからもう、君には何も残っていない」

 吹雪の中、アリエスを抱く腕に力がこもる。


 拒絶する力すら失った彼女の体は、ただ冷たく、そして重い。白い雪が降り続け、血に汚れた大地を覆い隠していく。

 ブリンガーという狂言回しを排除し、計画は完璧に結実した。


 すべてを奪い、壊し尽くした果てに遺ったのは――心を失った愛しい人形と、それを満足そうに抱きしめるノエルだけだった。

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