熱とおかゆと、少しの恋
その日、因幡の家の仕事部屋は、いつもよりずっと静かだった。
「……先生?」
昼過ぎにやってきた黒川が、いつものようにコツコツと襖をノックすると、しばらく返事がない。珍しい。やけに静かすぎる。
「失礼します」
そっと戸を開けると、ソファに横になった因幡が毛布にくるまり、顔をしかめていた。
「……黒川か。わざわざ悪いな、原稿は……ちょっと無理だ」
「うわ、顔めっちゃ赤いじゃないですか。熱、ありますよねこれ」
「うん。朝から節々が痛くてな……俺も人間だったみたいだ」
「なに他人事みたいに言ってるんですか……!」
あわてて黒川は額に手を当てる。熱い。予想以上に高い。
「ちょっと寝ててください。おかゆ、作ってきますから」
「え、黒川が?」
「俺だってこれでも一人暮らし歴、長いんですよ。おかゆくらい余裕です」
因幡が微かに笑う。
「へぇ。お前が台所に立つ姿……ちょっと見たかった」
「はいはい、黙って寝ててください」
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黒川は慣れた手つきで米を研ぎ、やわらかめに炊く。
(まさか因幡先生が寝込むとは……無理してたのかな)
ふと、思い出す。最近の因幡は、霊媒の依頼や執筆、編集部とのやり取りに追われていた。自分もそれに巻き込んでいた。
(……たまには、俺が役に立たないと)
真剣な眼差しで鍋を見つめながら、ぐつぐつ煮えたおかゆに、塩をほんのひとつまみ。冷蔵庫にあった梅干しを添えて、器に盛る。
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「先生、できましたよ。ほら、起きられます?」
「……ん。ちょっとだけなら」
因幡がゆっくりと身を起こし、枕元に黒川がおかゆを差し出す。
「はい、あーん」
「……まさか黒川に食わせてもらう日が来るとはな。夢に出そうだ」
「いいから黙って口開けてください。あーん」
スプーンを差し出すと、因幡は素直にひとくち。
「……ん。優しい味だな。案外、家庭的なんだなお前」
「ほめてるのか馬鹿にしてるのかわかりませんよ、先生」
「両方だ」
小さく笑って、またスプーンを受け取る因幡の顔が、ほんの少し赤くなっているのは熱のせいだけではなさそうだった。
黒川も、照れ隠しのようにわざと大きなため息をつく。
「先生、ちゃんと食べて、寝てください。回復したら、そのときにまた……朗読の仕事、再開ですからね」
「……まさか、お前の口から“朗読”って単語が自然に出るようになるとはな。成長したなぁ、黒川」
「はいはい、寝る!」
毛布をかぶせると、因幡は静かに目を閉じる。
黒川の手に、そっと自分の手を重ねて。
「ありがとな、黒川」
「……どういたしまして」
熱と、優しさと、少しのときめきが混じった一日だった。




