二人の呼吸
「……やっと消えた、か……」
緊張が解けたのか、先生の身体から力が抜けるのがわかった。ぐらりと体勢が崩れそうになったのを、俺はとっさに両腕で支えた。思ってたより細くて、骨ばってる背中。こんな体で、あんなもんと向き合って、ひとりでずっと……。
「先生、大丈夫……っすか?」
うつむいて、因幡先生は何も言わなかった。まぶたを伏せたまま、ただ深く呼吸してる。平静を装ってるけど、手が、ほんの少し震えていた。
この人、強がってる。たぶん、さっきの影……自分自身と向き合ったのが、相当きつかったんだ。
ふと、俺の胸に先生の頭が、そっと寄りかかってくる。
「せ、先生……」
声が裏返りそうになる。なんかもう、いろいろ近い。が、今は文句言ってる場合じゃねえ。
俺は小さく息を吐いて、先生の頭を軽く抱き寄せた。指が髪に触れて、驚くほど柔らかかった。たぶん、緊張してるのは俺のほうだ。
「……なんかあったら、ちゃんと俺に言ってくださいよ」
ぽつりと、呟いた。
「そんで……怖くなったら、こうやって……俺のとこ、来りゃいいっす」
先生は何も言わない。だけど、肩の力が少しだけ抜けたのがわかった。
たぶん、こういうの、正解かどうか分かんねえけど——俺にできんのは、こいつの隣に立ってることくらいだから。
「先生は、俺のこと殴ったりしねえよ。……だって先生、優しいもん」
言いながら、ちょっと照れてる自分が嫌になる。でも、口に出しとかないと、不安そうな先生に届かない気がして。
「……なに言ってんのか、俺……」
ぼそっと呟いた俺の言葉に、ようやく因幡先生が小さく笑った。
「……黒川って、本当に馬鹿だな」
その言葉に、俺はちょっとだけ口元を歪めて笑った。先生の声には、いつもの皮肉と、ほんの少しの優しさが混じってる。
「馬鹿でも、いいっすよ。先生が笑ってくれるなら」
自分で言っておいて、顔が熱くなるのがわかった。恥ずかしさを隠すみたいに、先生の頭にそっと手を置く。
「……先生のこと、ちゃんと支えられる馬鹿でいられるように、頑張るからさ」
隣にい続けるって、そういうことだろ。
先生は少し黙ってから、ふっと息をついた。笑ったのか、安心したのか、たぶんその両方。
「……もう少し、このままでもいいか」
その言葉が、俺の胸の奥にじんと染みてくる。
「……俺も、もう少しこうしてたいんで。……ダメ、じゃないです」
先生がうなずく気配がした。静かな廃ビルの中、ふたりの呼吸だけが、ゆっくりと溶け合っていった。




