優しくて愚かな男
割れた窓から吹き込む夜風が、古びた書類の山をはためかせる。蛍光灯はとうに死んでいて、因幡の持つランタンだけが、二人の足元をぼんやりと照らしていた。
黒川が床を軽く蹴って、埃を舞わせる。
「うっわ……ほんとに、ここ出るんですかね? マジで人が住んでたとは思えねえ……」
「ま、出るかどうかはこれからのお楽しみ、ってとこだな」
因幡は懐から文庫本サイズの和綴じノートを取り出し、黒川に背を向けたままページを繰った。柔らかな声色に、微かな余裕が滲んでいる。
「……先生、それ、まさか朗読用じゃないですよね」
「おや。黒川、最近はもう“読むな”って言わなくなったな」
「誰が言いましたかそんなこと。俺は、あの朗読が別に……怖くないってだけで……つーか今それどころじゃないっての!」
肩をすくめる黒川に、因幡は笑いながら振り返った。その笑顔の奥に、どこか硬い影があることには、黒川はまだ気づいていなかった。
「そうだな。今日は少し、様子が違う」
因幡がゆっくりと前へ踏み出したその瞬間——。
空気が変わった。
冷気とは異なる、骨の奥をひやりと撫でるような、何かが“触れた”感覚。黒川が息を呑んだ直後、床の隙間から黒い“影”が這い上がってくる。
「う……な、何ですかあれ……」
影は人の形をしていた。だが、顔は曖昧に歪み、見るたびに違う誰かに似ている気がした。黒川の目にはただの“異形”として映るそれを、因幡は見て、凍りついた。
「……また、お前か」
その声は、いつになく乾いていた。冗談も、微笑もない。
「因幡……先生?」
「“影喰い”だ。俺の記憶に取り憑いた、厄介な奴さ」
影の顔がぬるりと因幡の父親へと変わる。次の瞬間には、幼い因幡が泣きながら母の前に立つ幻影。そして——因幡自身の姿が現れる。だが、その“因幡”は黒川に手を上げようとしていた。
黒川は一歩後ずさる。
「……なんだよ、あれ……俺を、殴ろうとしてんのか?」
因幡は首を振った。
「違う。あれは……俺が恐れている俺自身だ」
影喰いが口を開く。だが声は因幡のものだった。
「“黒川を守るなんて、無理だ。お前は血を引いてる。いずれ同じように手を上げる。壊すんだ、いちばん大事なものを”」
因幡の指が震えた。だが、黒川の声が静寂を切り裂いた。
「先生」
はっと顔を上げる。
「……そんな顔すんなよ」
黒川が強引に因幡の腕を掴んだ。
「先生が自分のことどう思ってようと、俺が信じてる因幡先生は、そんなことしない人だっての」
因幡は息を詰める。
「黒川……」
「それに、俺がそんな簡単に壊れるかっての。俺だって……先生を守りてえんだよ」
その一言が、影喰いの形を揺るがせた。黒い輪郭が、びりびりとひび割れ始める。
因幡はゆっくりとノートを開いた。
「……読み聞かせてやろうか、“優しくて愚かな男”の物語を」
黒川が思わず「うわ、それはやべぇヤツだ」と呟いた時、因幡の声が廃ビルに響いた。
> 「——彼は己の罪を恐れていた。それでも、愛する人の隣に居ることを選んだのだ」
文字が音に変わり、影喰いの身体にぶつかるたびに、影は焦げるように煙を上げて消えていく。
最後に残ったのは、幼い因幡の幻影。その手に触れるように、因幡が指を伸ばした。
「……もう、大丈夫だ。お前は何も悪くない」
そして、それも煙のように霧散した。
---
因幡がその場に崩れそうになるのを、黒川が肩で支えた。
「……先生。さっきのセリフ、なんか本気っぽかったですよ」
「おや、さすがに今のは効いたか」
「……先生、からかってます?」
「さあ、どうだろうね」
しかしその手は、微かに黒川の背に回っていた。自分が誰かを傷つける人間ではないと、少しだけ思えるようになったその夜。因幡は、ようやく少しだけ眠れそうな気がした。




