夜の底で、手を握る
遮光カーテンの隙間から差し込む月明かりが、仄かに部屋を照らしていた。
因幡は黒川の隣で布団に入っていた。規則正しい寝息が背中越しに聞こえる。肩に黒川の指先がわずかに触れていて、そのぬくもりが心地よかった。
……はずだった。
夜が深くなり、因幡は不意に冷たい汗をかいて、荒い息とともに目を覚ました。全身が強張り、喉が乾いていた。夢の中で、またあの記憶が甦ったのだ。
——食器の割れる音。
——母の短い悲鳴。
——殴られる音。
——動けない自分。
「やめて……っ」と叫んでも、何も変わらなかった。あの夜も、あの朝も、何度も。
因幡はそっと体を起こして、眠る黒川を見下ろす。その穏やかな寝顔に、胸が締めつけられるような感覚が広がった。
(……俺の中にも、あの血が流れてる)
そう思うと、どうしようもなく怖くなる瞬間がある。
普段は冷静で、冗談も交わせる。多少のことで取り乱すような性格ではないつもりだ。だが——もし、自分もいつか、父のように“怒りに呑まれてしまったら”?
黒川に手をあげてしまったら。
そんな未来を想像するだけで、吐き気がした。
(黒川が、俺のそばで安心して眠ってる。それが、こんなにも嬉しくて幸せなのに。……なのに、なんで俺は……)
胸元に手を当てると、鼓動が早かった。汗ばむ指先を握りしめて、そっと布団の端を掴む。
「大丈夫だ、俺は父親とは違う……違うはずなんだ……」
けれど、確信は持てない。怒鳴られた記憶、殴られた母の姿、それを止められなかった無力な少年の自分が、いまだに背中にしがみついて離れない。
不意に黒川が寝返りを打ち、因幡の手に触れた。
「……ん、せんせ……どうかした?」
寝ぼけた声。無防備で、柔らかくて、優しくて——
その声に、因幡は何も言えなくなった。ただ黙って、黒川の手をそっと握り返す。言葉にすれば、きっと壊れてしまいそうだった。
(頼む。こんな俺のそばに、これからもいてくれ)
ただ、願うように。
明け方が静かに、部屋の空気を染め始めていた。




