チョコと鍵
因幡の家には、まだ仄かに朝の光が残る午後の気配が漂っていた。
リビングのテーブルには、資料とゲラの束。黙々と赤を入れる因幡の斜め前で、黒川は無造作にリュックを置くと、その中から小さな紙袋を引っぱり出した。
「……あー……」
声をかけるのに一拍、妙に間が空く。
「……ほら、コレ」
ぽん、と紙袋をテーブルに置く。中身が崩れないように気をつけた手つきのわりに、目線はそっぽを向いたままだ。
「昨日、律くんと作ったやつ。……別に深い意味とかないですけど。バレンタインだし、編集担当だし、まぁ……その……なんか、流れっていうか」
言い訳が先に出るのが黒川らしい。言葉の端々が尖りながらも、どこか照れくさそうで。肩まで赤くなっているのを見て、因幡は小さく笑う。
「ありがとう。……いただくよ」
さらりと礼を言って、紙袋を受け取る因幡。中をちらりと覗き見て、「おや、律の手じゃないな」とでも言いたげな目をしてから、再び黒川を見た。
「黒川」
「……はい?」
不意に名前で呼ばれて、黒川は思わず背筋を伸ばす。
「そろそろ……うちに正式に住まないか?」
「は?」
思わず聞き返した黒川は、瞬時に眉をひそめた。だが怒ったというより、目の奥が妙に揺れている。
「いや、だからその。今は“よく入り浸ってる”って程度だろ?でも、こっちは……いっそ全部整えて、鍵もちゃんと渡して、生活の足場にしてくれて構わないって思ってる」
因幡の声はいつもの調子だった。落ち着いていて、どこか含みがあって。でもその目だけはまっすぐで、冗談じゃないことを語っていると、黒川にもすぐにわかった。
「……あんた、またそうやって、するっと変なこと言う」
黒川は視線を泳がせながら、ゆっくりと息を吐く。
「こっちは、いきなりそういうの、けっこう……くるんですけど。マジで……先生、からかってます?」
「本気だよ。……これ以上、黒川が遠慮してるの、見てるのも癪だしな」
そう言って因幡が少しだけ笑った瞬間、黒川の肩の力が抜けた。
「……仕方ない、っすね。だったら、ちゃんとスペース空けてくださいよ。俺の漫画の資料とか、荷物とか、ちゃんと置けるように」
「ふふ。了解」
「……あと、夕飯はちゃんと分担です。俺ばっか作るの嫌なんで」
「うん、それも交渉の余地ありだな」
そんなやりとりをしながら、因幡はそっと紙袋を抱える。甘さの代わりに、少しの覚悟と、たっぷりのぬくもりが詰まったチョコレートケーキが、その日ふたりの間に、ひとつの節目を作った。




