追鬼の夜、艶声に散る
黒川の部屋──
因幡歩人は開けたばかりの玄関を背に、じっと暗がりを見つめていた。
「……来たか、因幡歩人」
それは、黒川才斗の声でありながら、別の何かのように響いた。
闇の奥に沈むその姿からは、禍々しい気配が滲み出している。
「ふむ、君が“追鬼”か。節分の季節ものってわけか」
「フフ……この器は実に良い。諦めと寂しさが染み込んでいる。居心地が良いのだよ」
因幡は一つ肩をすくめ、コートの内ポケットから文庫本を取り出す。
「そりゃどうも。だけど、そいつは俺の助手なんでね。あんまり図々しく居座られると、仕事にならない」
「ふん、何ができる?」
因幡は、ページを一枚ゆっくり捲った。
「“朗読”でも、聞いていってくれよ」
「……?」
微笑を浮かべた因幡の声が、途端に艶やかさを帯びて変わる。
> 『濡れた指がシャツの隙間をなぞり、吐息が耳たぶをくすぐる。「だめだよ……そんなとこ、触れられたら……」』
「やめろ……貴様、なにを──ぐ、ぅ……」
追鬼が唸った。黒川の喉から漏れるその声は、霊の怒りと戸惑いの混じった悲鳴だった。
> 『逃げたって、無駄だよ? 体が、ちゃんと“覚えてる”みたいだから──』
「ぐああっ……!? やめろ!それ以上は──っ、耐えきれん……!」
黒川がビクリと肩を揺らす。しかし──その顔はどこか諦めを孕んだ、呆れ顔だった。
「……はいはい、出ました、“因幡せんせいの朗読プレイ”。どうせ俺が巻き添えなんだろ、わかってたよもう……っ」
その言葉に反応するように、追鬼が咳き込むような呻きを漏らす。
「ま、まさか……こんな、淫靡な感情に当てられるとは……なぜだ、なぜ羞恥が、こんなにも痛い……っ!」
「そりゃアンタ、欲望と執着で動いてんだもんなぁ。色気で揺さぶるのは基本だろうがよ……ってか!」
黒川が半眼で因幡を見やる。
「先生、せめてセリフのトーン下げろよ! なんで毎回そんな“耳元ASMR風”に読んでんだよ!」
「効果は抜群なんだから、仕方ないだろ?」
因幡はとぼけた笑みでさらりと返す。
> 『ねぇ、ここ、こんなに熱くなってる。……ほら、感じてるんだろ?』
「ぎゃあああああああっ!!!」
追鬼の悲鳴が爆ぜ、体からもやのような影が弾かれるように飛び出した。
空中でぐるりと舞い──パチンと破裂音とともに、消えた。
黒川はその場にへたりこみ、額から汗を滴らせながらも、呆れた目で因幡を見上げた。
「……もうちょい、他に方法ないわけ?」
「一番効くんだよ、これが。君も、だんだん耐性ついてきたし」
「なにその“常連扱い”! これでも、俺の精神には効いてんだっての……!」
因幡は苦笑しながら、黒川の額に手を当てる。熱っぽさがひいてきたのを確認し、優しく撫でた。
「でも、戻ってきたな。君の声がちゃんと“ツッコミ属性”になってる」
「……そりゃ、俺しか突っ込まねぇからな……この地獄みたいな朗読劇に」
黒川は目を閉じ、深く息を吐いた。
そしてぽつりと呟く。
「……ありがとな」
「ん? なに?」
「……聞こえなかったらそれでいい」
「はは、素直じゃないなぁ。ま、それも君らしいか」
因幡は微笑んで立ち上がった。
「さて、追鬼はまだ他にもいる。節分の夜は長いからね」
「俺は……もう外出たくねぇ……」




