くちゅくちゅ音の除霊劇
「……お前、わざとだろ」
テーブルの端に置かれた空のお茶のカップを拭きながら、黒川才斗がぽつりとつぶやいた。
さっきの朗読——あれは絶対、偶然の一致なんかじゃない。
「何が?」
とぼけた声とともに、因幡歩人は原稿の束を丁寧に整えながら振り返る。
和服の袖がふわりと揺れ、髪を結った黒髪が肩のあたりで静かに光る。
「“唇をなぞる指”って、さっき俺がちょっと触った時の……」
「へぇ、そんなに意識してたのか。黒川」
「……っ」
軽く煽るような声音に、黒川はぐっと言葉を詰まらせる。
眼鏡の奥のオッドアイがほんの一瞬泳ぎ、それを誤魔化すように立ち上がると、カップをキッチンへ持っていった。
その背中を、因幡は少しだけ楽しげな顔で見つめる。
(……可愛い反応しやがって)
たぶん、あの女の霊が現れなかったら、黒川の“それ”に自分も少し反応していた。
いや、実際しかけていた。あの膝先のぬくもりは、今もじんわり残っている。
「先生、お茶淹れ直します?」
黒川が振り返りながら聞く。その顔は、いつもより少しだけ赤い。
「ああ、頼む。甘くないやつがいい」
「じゃあ、緑茶にします」
黒川は手慣れた動きで急須を取り出し、湯を沸かし始める。
何気ない日常のはずなのに、その所作ひとつひとつが、どうにも愛おしく見えてくるから厄介だ。
(……マズいな。俺の方が意識しちまってるじゃねぇか)
不意に、因幡の指が原稿の角で軽く切れた。
ぴりっとした痛みに、小さな声が漏れる。
「……ちっ」
「え、先生?」
音に気づいて、黒川が急須を持ったまま近づいてくる。
「どこ切ったんですか。見せてください」
「あー、大丈夫だ。ちょっと紙で……」
黒川がそのまま因幡の手を取った。
「……あ」
一瞬、互いの視線が交わる。
触れた指先から、ほんのりとした熱が伝わる。
「先生。紙で切った傷でも、油断すると化膿するんで。ちゃんと手当てしてください」
「はいはい」
因幡が受け流そうとするその瞬間、黒川の手がふわりと、指先に口づけを落とした。
「……なっ」
「冗談です」
黒川はすぐに離れて、にこりと微笑む。
だがその耳は真っ赤だった。
「お前……」
因幡は呆れたように笑いながらも、どこか満更でもなさそうに眉を下げた。
(こっちが煽ったつもりだったが……やり返されるとはな)
和やかで、すこし照れくさくて、そして不思議と心地のいい沈黙が、二人の間に流れる。
……その空気を、破ったのは、またしても例のアレだった。
「ぅわああああああ!!」
天井の電灯のカバーが突然ガタンと外れ、宙に浮かぶ女の霊が逆さまのまま現れた。
「彼氏とイチャつくなって言ってんだろがぁああああああ!!!!」
「なんなんだよこの執念深さ!!あんたの未練どんだけ重いんだよッ!」
「先生、原稿ッ!!原稿!!はやくエロ朗読お願いします!!」
「わかったわかった!そこの茶菓子の説明書、官能風に読み上げたら消えるかもだ!」
「なぜに洋菓子説明書!?」
因幡は即座に手近な紙をひらひらと掲げた。
落ち着いた声色で、甘く艶めいたトーンに切り替える。
> 「“ふんわりと焼き上げたパイ生地が、唇に触れるたび、くちゅ、くちゅ……と濡れた音を立て……”」
「ちょ、先生、くちゅくちゅ音って……文字だけじゃ音のインパクト足りなくないですか!?」
「黒川、音、出せ!」
「出せって言われても!?そんな都合よく……っ」
因幡が黒川の腕をぐいっと引き寄せ、耳元で囁いた。
「黒川。自分の腕、吸って音出せ」
「はぁ!?!?」
「除霊だ。命がかかってる。くちゅくちゅ音、頼んだぞ」
「し、死ぬほど屈辱なんですけどォ!?」
「頼む。黒川にしかできない大役だ」
真顔の因幡に説得(押し切られ)され、観念した黒川は、羞恥で真っ赤になりながらも、腕を持ち上げた。
「……く、くちゅ、ちゅ、ちゅぷっ……っっ、ぢゅる……っ……っはああああああああああ!!!!」
> 「“その音は甘く淫靡に、空気を震わせ——やがて未練を浄化する快感へと変わっていく……”」
「ぎゃああああああああああああ!!!!」
女の霊は耳を塞ぐように頭を抱え、壁を突き抜けて文字通り成仏していった。
ふたりの頭上に、しん……と静寂が戻る。
「…………俺、もう明日から人間としての尊厳ないかもしれない……」
黒川はテーブルに突っ伏し、腕を抱えて震えていた。
「いや、すげぇよ。俺、ちょっと感動した。あの“じゅる”の一音、プロだった」
「うるせえ!! 忘れろ!! 全部脳内から削除しろ!! 絶対録音とかしてねぇだろうな!?」
「してないけど……今の、ちょっと使えるな。描写に」
「やめろおおおおおおおお!!」
因幡はくすくすと笑いながら、湯飲みに口をつけた。
(——黒川、最高の相棒だよ)
でも、胸の奥が妙に温かいのは、あの“くちゅくちゅ音”のせいじゃ、きっとない。




