お茶とスイーツと浮遊霊
「先生、お茶入りました」
黒川才斗は、因幡歩人の家の一室——いわゆる仕事部屋の一角に、慎重に盆を運んできた。
壁一面の書棚と低いテーブル、座り心地のいい二人掛けソファ、そしてその横には、季節の和小物がさりげなく飾られている。
因幡は、正座でも胡座でもなく、ソファに片膝を立てたラフな姿勢でノートPCに向かっていた。長い髪はゆるく後ろで結ばれ、和装の裾が床にふんわりと広がっている。
「へえ、今日はほうじ茶か。渋いチョイスだな」
「先生、今日のお菓子が濃厚系だったので、渋めのほうがバランスいいかと。…というか、また頼んだんですか? この洋菓子」
黒川の視線の先には、金の箔押しがされた上品な洋菓子の箱。
因幡は、にやりと笑って箱を開ける。
「甘いもんは心の栄養だろ? こういうのがあると、締切前でもテンション上がる」
「……俺に言ってるようで、自分に言い聞かせてますよね、それ」
「まあな」
因幡はラズベリームースのカップを取り出し、もうひとつ黒川の前に差し出す。
「おまえも手伝ってるし、一緒に食うぞ。遠慮すんな」
「じゃあ……いただきます」
黒川は小さなスプーンでひとすくいし、口に運ぶ。
「……あ、うま」
小さく驚いたように言ったその顔が、ふわりと緩む。
普段きっちりしているだけに、その無防備な表情が妙に印象的だった。
因幡はその様子を、湯呑を手に取りながらじっと見つめる。
(やっぱ、こいつ……意外と表情に出るな)
言葉にはせず、微笑みだけを口元に浮かべる。
静かな部屋の中で、甘い香りとお茶の香ばしさが重なる心地よい空間。
「黒川。口、クリームついてるぞ」
「えっ? あ、すみません……」
慌てて指先で口元を拭う仕草に、因幡の目が一瞬細められる。
(……ちょっと、可愛い)
そのまま黙っていればいいものを、因幡はスプーンをくるりと回して、冗談めかして言った。
「——なぁ黒川、おまえ、俺が女だったら、惚れてたんじゃねえの?」
「はっ……? 何言って……いや、いやいやいやいや! 惚れませんから!」
「じゃあ“男”でもちょっと惚れかけてるってことか」
「先生!」
思わず声を上げた黒川が、ムッと頬をふくらませて睨んでくる。
けれどその顔は、怒ってるというより、むしろ照れていて、耳までほんのり赤い。
因幡は笑いを噛み殺しながら、ほうじ茶に口をつけた。
「ふふ、まあいいさ。とりあえず、スイーツタイムは続行な。俺の創作に、おまえの癒し力は必要だからな」
「……自覚ないけど、そうゆうとこですよ、先生」
「そう言って、付き合ってくれるおまえの方がよっぽど優しいけどな」
ちゃぶ台の上、洋菓子がひとつ、またひとつと減っていく。
PCは開いたまま。執筆はひと休み中。
それでも、この静かな時間が、ふたりにとっては何より贅沢だった。
---
「……ふぅ、うまかった」
因幡歩人は最後のひと口をゆっくりと口に運び、満足そうにため息をついた。
黒川才斗も隣で、空になったカップを見つめながら小さく笑っている。
「なんだかんだで、こういう時間って大事ですね。少しだけ気が緩みます」
「そうかい。じゃあ、たまにはサボるのも悪くねぇってことだな」
「……あんまり堂々と言わないでくださいよ、原稿の締切近いんですから」
そう言いながらも、黒川の声はいつもより柔らかい。
二人でソファに並んで座って、穏やかな午後の光に包まれている空間は、まるでどこか遠くの世界のように感じられた。
そして、その“ちょっとした油断”が、不意打ちのように訪れる。
「……あっ」
黒川が腰をずらそうとした瞬間、伸ばした足が、因幡の膝にぴたりと触れた。
たったそれだけ。
けれど、触れた場所がやけに熱を帯びたように感じられて、黒川が反射的に体を引いた。
「す、すみません……っ、いまのは、わざとじゃ……!」
「……別に怒ってねぇよ」
因幡は、珍しく少し声が低くなっていた。
黒川の方を向く目が、ふだんの飄々としたものとは違っていて——じっと、何かを見定めるような光。
「……先生?」
「いや。なんでもない」
因幡が軽く目を細めて微笑む。
だけどその笑みは、どこか“誤魔化している”ようにも見えた。
黒川の胸が、妙にどきどきする。
この距離、この沈黙、そしてこの目線。
(……やばい。変に意識してるの、バレた……?)
ちょうどそのとき。
「ふ、ふふ……」
部屋の空気が、ぴし、と凍りつくような音を立てた気がした。
「……………え?」
低い、女のような笑い声。
「先生、いまの……」
「——出たな」
因幡はすっと姿勢を正し、長い袖をさっと払うようにして立ち上がった。
黒川も立ち上がりかけたが、足に絡まった茶盆のふきんに滑ってよろける。
「って、わっ、うわあっ!」
「おい、そっちはテーブル——!」
バンッ!
低い音と共に、黒川がちゃぶ台に突っ伏す格好に。
横で因幡はあきれ顔を通り越して心配していたが、直後にふわりと現れた、髪の長い女性の霊に気づいてすぐに表情が引き締まる。
「ふふ……あの男……私のこと、無視したのよ……彼氏とばっかり喋って……」
「彼氏じゃないです!!!」
黒川、即座に否定。
「俺も違うぞー。いまいい雰囲気だったけどなー」
「先生、ふざけてる場合じゃ……!」
「ふざけてねぇよ?」
そう言って、因幡は引き出しから小さなボイスレコーダーと原稿用紙の束を取り出す。
「よし、じゃあ朗読タイムといくか」
「待ってください、俺の湯呑まだそこにあるんで! 飛び散らないようにだけして……!」
> 「——彼の指が、唇をなぞって……私はただ、そこに囚われるように身を預ける……」
「ぎゃああああああああああ!!!」
女の霊は耳を塞ぐようにして、壁の中へとスッと溶け込んで消えていった。
黒川は肩で息をしながら、呆然と因幡を見る。
「……なあ先生」
「なんだ」
「その、“彼の指が唇をなぞって”って、さっきの状況をモデルにしました?」
「さて、どうだろうな?」
因幡は、にやりと口元をゆがめてほうじ茶の残りを啜る。
そしてその頬は、どこかほんのりと赤くなっていた。




