夜更けの湯たんぽ事件
その夜。こたつの余韻もすっかり落ち着き、家の中にはしんとした静けさが戻っていた。
「……寒くないかな」
律はふとそんなことを思い、台所で小さな湯たんぽを二つ準備する。お湯を注ぎ、タオルで包んで、ふわふわと両腕に抱えて客間の引き戸へと向かった。
「因幡さんたち、もう寝てるかな……そっと置いていこう」
そろりそろりと音を立てないように戸を開けた――その瞬間。
「……っ」
ふとんの中ではなく、その上。寄り添うふたりの姿がそこにあった。
因幡の手が黒川の頬に添えられ、そのまま静かに唇を重ねていた。
――ばちんっ!
律の頭の中で、なにかが真っ白に弾けた。
「っ……わ、わわわっ、すみませんっ、すみませんでしたーっ!!」
律は湯たんぽをバンッと布団の端に置くと、ほぼ反射的にその場を飛び出した。耳まで真っ赤、視界もほとんどぶれている。
廊下を駆け抜け、リビングへと逃げ込んだその先――
「律?」
「ひゃっ!?……あ、柚瑠さんっ……!!」
立っていたのは、カップを手にした柚瑠。ひょっとんした表情で、慌てふためく律を見て目を大きく見開く。
「ど、どうしたんだ!?顔真っ赤……えっ、なに、走ってきた?なんで!?火傷!?お湯こぼした!?え、違うの!?なんか見た!?怖いやつ!?虫!?」
「ちが……違いますけど、でも、でも、あの、黒川くんと因幡さんがっ……!そのっ……!!」
「うん……?どうしたの……?」
柚瑠がさらに近づこうとすると、律はぎゅっと顔を伏せて小さくなった。
「……な、なんでもないですっ……ほんとに、なんでも……っ!!」
「いや、なんでもなくはなさそうなんだけど……!?律、耳まで真っ赤だぞ!? なぁ、何があったんだ!? えっ、君がそんな顔するほどのことって何!?」
わたわたと柚瑠が詰め寄り、律はその場にしゃがみ込む勢いでうずくまった。
その夜、温度が高すぎる湯たんぽと、顔まで真っ赤な律と、それに混乱する柚瑠の声だけが、静まり返った家にひときわ響いていた。
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……マジで死んだ方がマシだっての。
布団の中で、黒川は枕に顔を押し付けてごろごろと転がった。
「律くんに……見られた……っつーか、ガッツリ、だし……!」
「うん、見られたな。いいタイミングだったじゃん」
「どこが“いい”んですか!?マジで……っ、信じらんねぇ……!」
がばっと顔を上げて因幡を睨みつけるが、頬は熱のせいか真っ赤で、目元も潤んでいる。
「よりにもよって律くんだぞ?……あの子、絶対俺のこと、なんか“チョロい先輩”とか思ってるし……うわ、無理、恥ずかしすぎて死ぬ……っ」
「チョロいかどうかは知らんけど、可愛いとは思ってるんじゃねぇの」
「……っ、先生、からかってます?」
「いや、事実言っただけだって」
「クッソ……!なんで先生はそんな落ち着いてんだよ。マジ空気読めよ……」
「読んでるよ。“もうちょっとキスしてもいいかな”って空気だったしな」
「は!?どこにそんな空気ありました!?あの瞬間で、俺の中の全感情が“逃げろ”に切り替わったっつーの!」
黒川は思わず枕を掴んで因幡に投げつける。だがそれも、ひょいと因幡に受け止められてしまう。
「じゃあ……お前が恥ずかしがってるのがあんまりにも可愛くて、続きしたくなった、ってことにしとくか?」
「……先生、マジでそういうとこ、ずるいです……」
ぼそっと呟いて、黒川は布団を頭からかぶる。けれど、因幡が優しくその背中を撫でる手を、拒むことはなかった。
「……もう、今日は絶対出ねぇ……律くんと顔合わせたくねぇ……マジで……」
「じゃあ、ここでずっとお前のこと抱きしめてるわ」
「……勝手にしろです、もう……」
真っ赤な顔を隠すように、布団の奥に沈んでいく黒川と、そんな彼の中途半端な敬語と拗ね方を楽しむ因幡。
笑えるほど正反対のふたりの夜は、まだ終わりそうになかった。




