双子の影、悪意の声
貸し切られた廃ビルでの除霊依頼。
依頼主は映像制作会社の若手社員で、「この撮影スタジオ、絶対なんかいるんです……」と顔面蒼白だった。
だが問題は、今回に限って明らかに異様な気配が漂っていることだった。
因幡は和服の袖をくゆらせながら足を踏み入れた瞬間、ぴたりと立ち止まった。
「……ああ、これはちょっと、タチ悪いな。普通の浮遊霊や地縛霊じゃない」
「どういうことですか?」
黒川が後ろから控えめに尋ねる。
「“悪意で構成されてる”って言えば、伝わるか?」
因幡は低く呟いた。「これは、誰かの恨みの塊……しかも、そいつ、おまえを見て笑ったぞ、黒川」
黒川の肩がびくりと震える。
その瞬間だった。ビルの奥から響く、甲高くひび割れたような笑い声。
そして何かが突風のように吹き抜け、黒川の体が後ろへ引きずられた。
「ッ……ぐっ! な、なんだこれ——」
「黒川!」
因幡が叫ぶ。だが黒川の足はすでに床から離れ、空中に浮かびかけていた。まるで何者かに首根っこを掴まれ、あの世へ引きずられようとしているように。
因幡はすぐに懐から文庫本を取り出した。
表紙は、いつもの官能小説。だが今回は開くことすらせず、それをぱたりと閉じたまま、目を細める。
「……おい、聞こえてんだろう、そこの悪霊。これは俺の“大事な読者”なんだよ。勝手に持ってくんじゃねえ」
黒川の体が急に床に落ち、霊的な力が一瞬引いた。
だがすぐに、部屋の奥でぐしゃぐしゃとした霊の塊が実体化し始めた。異形。目の数が多く、全身が黒い染みのような何かに覆われている。
黒川が床に倒れ込んだまま、苦しそうに唸った。
そのとき——
因幡は本を地面に置き、ふいに黒川の隣に膝をついた。
そして彼の胸に手を添え、囁く。
「なあ、黒川。おまえさ……昔、双子だったろ?」
黒川の目が揺れた。
「ずっと、半分だけこっちにいて、半分は“あっち”のままだった。その片割れを呼び戻したいって願ったこと、あるか?」
「……ある。小さいころ、毎晩、心の中で謝ってた。『先に死なせてごめん』って」
黒川が震える声で応えた。
「じゃあ、これはその代償だな。おまえが半分引き込まれたまま生きてきた証拠だ。……だけど、それを切り離してやるのが、俺の役目だ」
因幡は静かに立ち上がり、目の前の悪霊を見据えた。
「穢れでできた怨念野郎が、こっちの世界に来ていい顔じゃねぇ。……俺の声で、昇って消えな」
因幡はゆっくりと、官能小説を開く。そして——
張りのある、抑揚に満ちた声で朗読を始めた。
> 「ねぇ……こんなところで、だめよ……誰かに、見られちゃう……」
「ふふ。だったら、もっと声を出せばいい。誰も近寄れないくらいにね——」
呻き声がビル中に響く。悪霊が、頭を抱えるように悶えだす。
「やめろ……やめてくれ……下品な声……いやぁあああ!!」
「これが下品に聞こえるなら、まだ人間の感性が残ってるってことだ。ありがたく聴けよ?」
因幡は涼しい顔で読み進める。
最後の一文を読み終えた瞬間、悪霊はばちん、と音を立てて消滅した。
室内の空気が一気に静まる。
因幡は黒川のもとに戻り、そっと手を差し出した。
「立てるか?」
黒川は、その手を見上げたまま、なぜかしばらく動けなかった。
いつもの飄々とした顔の裏に、確かな本気を見た気がして。
「……ありがとうございます。因幡先生」
少し赤くなりながら、黒川はその手を取った。
「礼なんていいよ。おまえはもう、俺の“一番厄介な依頼人”なんだからな」
因幡は笑う。いつもの調子で。
でも、黒川にはわかった。
その笑顔が、今だけは、ちょっとだけ優しかったことに。




