夢の残り香
除霊から戻ったあとの、深夜の静かな時間。
黒川のアパートの部屋は灯りを落とし、間接照明だけがほのかに空間を照らしていた。
「はぁ……今日はさすがに、疲れましたね」
ソファに深く腰を沈めた黒川が、小さく伸びをした。
すでにシャワーは浴び終えていて、ゆるく乾かした髪からは微かに柑橘系の香りが漂っていた。
部屋着のパーカーの袖を無意識にいじる手つきが、今日のことを反芻している証拠だった。
「まあな。……あの亡霊の最後のひとこと、気になるな」
キッチンからマグカップを2つ持ってきた因幡が、黒川の隣に腰を下ろす。
差し出されたカップには、薄く淹れたカモミールティー。
眠る前の静けさが、ふたりを自然に寄り添わせていた。
「“来世でまた、会えますように”――でしたね」
黒川が、ぽつりと呟く。
それは亡霊が光へ還る直前、消え入りそうな声でこぼした願いだった。
「愛してた人に再び会えるように、か。執着じゃなく、願いとして残ったんだな。……おまえは、信じるか? 来世とか、運命とか」
因幡がマグを片手に、ふと横目で黒川を見やった。
黒川は、答えに少しだけ間を置いた。
そして、柔らかく笑ってこう返す。
「……誰かを強く想う気持ちが、何かを超えることがあるなら。信じたいです。叶わなくても、願っていたい……って思うくらい、大切な人がいるなら」
その横顔には、熱も告白もない。ただ、少しだけ切なさを孕んだ穏やかな静けさがある。
だけど因幡は、その言葉の向かう先を、薄々気付いていた。
(……俺のことか?)
気付かないふり。
ずっとしてきた。
黒川が、誰よりも自分の言葉を信じ、支えてくれていること。
傍にいる理由が、ただの“助手”ではないこと――。
それを、ずっとわかっていながら、気付かないふりをしていた。
でも。
「……黒川」
「はい?」
因幡は何気ないような顔で、黒川の頭をぽんと撫でた。
唐突で、あまりにも優しくて、黒川の瞳が揺れる。
「……あんまり、そういう顔すんな。夜だし、変な気起こすだろ」
「……!」
赤くなる耳を隠すように、黒川はマグカップを持ち直した。
笑ってごまかすのは得意だったはずなのに、今夜はちょっと無理だった。
「すみません。気をつけます」
「いや、……気にすんな。おまえのそういうとこ、俺は……」
言いかけて、因幡は言葉を切った。
(好きだよ。……とか、今さら言えるかよ)
そんな自分に小さく舌打ちしながら、マグカップに口をつける。
静けさが戻る。
けれど、それはどこか心地いい緊張を孕んだ沈黙だった。
部屋の窓の外では、夜風が赤く色づいた葉を揺らしていた。
---
夜中。
窓の外では風が紅葉を揺らし、さらさらと乾いた音を立てていた。
その音の中に、かすかな声が混じった。
「やだ……いかないで、柚瑠さん……っ……」
寝返りを打った布団の中で、律は眉を寄せ、小さく震えていた。
夢のなかで何かにすがるように、誰かの名前を呼んでいる。
――柚瑠が、遠ざかっていく。
何も言わず、ただ背を向けて歩いていく。
呼んでも、手を伸ばしても、届かない。
胸を裂くような喪失感だけが、律の中に残った。
「――っ……!!」
びくん、と身体を起こして、律は夢から飛び起きた。
視界がにじんで、呼吸がうまくできない。
何が現実で、何が夢だったのか、その境目が曖昧なまま、目から涙が溢れ続けた。
「律……?」
低く優しい声が、すぐ横から聞こえた。
柚瑠だった。
隣の布団に背中合わせに寝ていた彼が、律の異変に気付いて目を覚ましていた。
「どうした、苦しい夢?」
律は何も答えられず、ただ小さく頷いた。
こぼれ落ちた涙が、シーツに滲んでいく。
柚瑠はそっと起き上がると、律の背中に腕をまわして、その身体を抱き寄せた。
「大丈夫。……僕はここにいる」
律の額が、柚瑠の胸元に触れる。
そのぬくもりに、律はようやく少しだけ呼吸を取り戻す。
「……夢の中で、柚瑠さんが、俺のこと嫌いになって、……どこかに行ってしまって……呼んでも、追いかけても、何にも届かなくて……」
震える声でこぼす律に、柚瑠は何も言わず、ただ優しく背を撫でた。
まるで小さな子どもをあやすような仕草だった。
「律。よく聞いて」
柚瑠は少しだけ体を離し、律の頬に手を添えて、まっすぐ目を見る。
「僕は、おまえが泣くほど不安になるような、そんな夢に負けないくらい、ちゃんとここにいる。……おまえを嫌いになるなんて、ありえない。おまえは、僕にとってただの助手じゃない。大事な存在だ」
律の唇がわなないた。
喉の奥から、嗚咽がこぼれそうになったその瞬間、柚瑠がもう一度、強く抱きしめる。
「……僕は、どこにも行かない。律、おまえの傍にいるよ。これからもずっと」
その言葉に、律の手がゆっくりと柚瑠の背に回った。
ぬくもりにすがるように、静かに、でもしっかりと。
「……柚瑠さん、……ありがとうございます」
涙のにじんだ声に、柚瑠は「バカ」とだけ囁いて、律の髪を撫でた。
夜の風が、ふたりのいる部屋の外を通り過ぎていく。
けれど、ここにはもう何の不安もなかった。
寄り添う温もりと、互いを求める想いだけが、確かにそこにあった。
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夜が明け始める頃、律はようやくうとうととした浅い眠りに落ちていた。
窓のカーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいる。
部屋の空気はしんと静かで、聞こえるのは鳥のさえずりと、隣にいる誰かの穏やかな呼吸。
律は薄く目を開けた。
まぶたの裏にまだ残っていた夢の影は、今ではもうどこにもなかった。
隣にいる柚瑠の腕の中で目覚めた朝――
それは信じられないほど、あたたかくて、安心できる空間だった。
「……起きてたのか?」
不意に、低い声が頭の上から落ちてくる。
「っ……柚瑠さん、起こしちゃいましたか?」
「ん。目が覚めたら、おまえが俺の腕を掴んで離してくれなかっただけだ。寝苦しいかと思ったけど……まぁ、悪くなかった」
小さな冗談めいた言い回しに、律は頬を赤らめた。
昨夜の夢のことを思い出して胸がちくりと痛むけれど、柚瑠のぬくもりはそれをそっと包み込んでくれる。
「……あの、昨日は……すみませんでした。変な夢で取り乱して……」
「謝るなよ、律。怖い夢くらい見るもんだ。誰だって」
そう言って、柚瑠はゆっくり起き上がり、寝癖のついた髪を指先で整えながら、カップを手に取る。
「……コーヒー、淹れるけど飲むか?」
「はい、ぜひ……」
律もゆっくりと身体を起こした。
すぐ隣にある日常。
その中に柚瑠がいて、笑っていて、名前を呼んでくれている。
それだけで、律の胸の奥がじんわりとあたたまる。
小さなテーブルで、柚瑠が差し出したカップを受け取る。
そこに注がれた黒い液体は、ほんのり香ばしくて、鼻をくすぐった。
「甘くしてる。おまえ、苦いのダメだろ」
「……ありがとうございます」
さりげない気遣いに、律の心はまた少しだけ強くなれた気がした。
一口飲むと、ちょうどいい甘さと温度に、思わず頬がゆるむ。
「……なんか、こういう朝って、すごく……幸せですね」
ぽつりと漏れた律の言葉に、柚瑠は一瞬カップを口に運ぶ手を止めた。
だが、それをすぐに誤魔化すようにふっと笑う。
「何だそれ。夢見が悪かったやつの台詞には聞こえねえな」
「ふふっ……」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
照れ隠しと、安堵と、静かな喜びがそこに混ざっていた。
昨日の夢はもう過去。
この朝は、確かな“今”として、ふたりの心に刻まれていく。
小さな朝のテーブルに、寄り添うふたりの距離が、昨日よりも少しだけ近くなっていた。




