風の止まる場所
高守柚瑠の自宅兼拠点に、場違いなほど厳かな気配が流れ込んできたのは、ちょうど依頼帰りで一息ついていた夕方のことだった。
「……柚瑠、お前んとこの結界、ゆるいな。見逃してやるけど」
突然、玄関をくぐってきたのは、和装に身を包んだ精悍な中年の男――高守玲音。柚瑠の遠縁にあたる親戚で、霊媒の世界では知る人ぞ知る凄腕だった。
「玲音さん……なんで急に?」
「ちょいと“良い素材”を見つけたからな。スカウトに来ただけだよ」
玲音の視線がすっと横に向けられる。そこには、キッチンで湯を沸かしていた律がいた。
「無我律くん。君、なかなか素質あるな。精神の揺らぎが少ない。霊との距離感も見事だ。柚瑠に使われてるより、もっと上で鍛えたほうがいい」
「……は?」
柚瑠は、手にしていたマグカップを落としそうになった。律もまた驚いた顔で目を瞬かせている。
「俺なんか、まだ未熟ですし、柚瑠さんの助手で……」
「だからこそ惜しい。高守家の名のもと、正式に助手として迎える。どうだ、考えておいてくれ」
玲音はそれだけ言い残すと、置き手紙のように名刺をテーブルに置き、さっさと玄関を出ていった。
――気まずい沈黙が落ちた。
「……柚瑠さん。俺、ちょっと外の空気吸ってきます」
そう言って出ていく律の背中を、柚瑠は呆然と見送った。
胸がざわつく。
助手だから、必要なんだ。
ずっとそばにいて、助けてくれて。僕はアイツがいなきゃ――いや、でも、それだけか?
(行くなよ……)
気づけば、柚瑠は玄関を飛び出していた。
律の背中を見つけたのは、角を曲がった小さな公園のあたりだった。風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
「律!!」
呼ばれて、律が振り向く。
「……柚瑠さん?」
「……行くな。あんなスカウト、断れ。僕には、おまえが必要だ」
柚瑠の声は震えていた。自分でも、自分の感情の正体がわからなかった。
「僕は……おまえが助手だから?相棒だから?……それとも、ただ……」
「――俺は」
律が一歩、柚瑠に近づいた。その目には、もう迷いがなかった。
「俺は、柚瑠さんのことを、“好き”って意味で好きです」
柚瑠の息が止まった。
「助手としてじゃなくて、人として。男として、恋愛感情として。ずっと前から、俺は、柚瑠さんが……」
風が止まり、時間が凍るようだった。
「……わかんないんだよ」
柚瑠の声が小さく漏れる。
「僕の“必要”って気持ちが、おまえの言う“好き”と同じなのか、まだ……」
「それで、いいです」
律の声は静かだった。
「気づいてもらえただけで、今日は十分です」
その声に、柚瑠は目を伏せたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
“律を、失いたくない”――その気持ちだけは、確かだった。
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夜の風が、ふたりの間をそっとすり抜ける。
律の告白を受けてから、柚瑠は一言も発していなかった。沈黙を破ったのは、意外にも律のほうだった。
「すみません……俺、勝手でしたよね」
「……バカ」
柚瑠がぽつりと呟いた。
「謝るくらいなら、言うなよ。そんな顔して、謝るなよ」
「……はい」
律が苦笑し、目を伏せる。その横顔を見て、柚瑠は心の奥底がかき乱されるような感覚に襲われていた。
助手としての信頼。戦友としての絆。そして、それを超える感情。
「……正直、まだ答えは出せない」
やっとの思いで口を開く。
「だけど、律がいなくなるって想像したら、息ができないくらい苦しくなった。それは、嘘じゃない」
律が目を上げる。柚瑠の言葉を、ひとつ残らず受け止めるように、まっすぐに。
「だったら、俺は待ちます。何年でも、何回でも、柚瑠さんの隣に立ち続けて……“好き”を証明してみせます」
「……めんどくせえな、おまえは」
柚瑠は、ようやく少しだけ口元を緩めた。
「でも……そばにいろ。今だけじゃねぇ。これからも、ずっと」
その言葉に、律の瞳が震える。
「はい」
「助手として――って、今は言っとく」
「はい。……でも、いつかそれが“恋人として”に変わることを願って、俺はそばにいます」
柚瑠は、何も返さなかった。
けれど、隣に並んで歩き出したその歩幅は、さっきより確かに近づいていた。
沈黙の中に芽生えた感情の輪郭は、まだぼやけていた。
それでも――それはたしかに、恋のはじまりだった。




