闇の底で、君に追いつく
旧神社の裏手、山道の先にある朽ちた井戸の前。
因幡歩人は肩に原稿バッグをぶら下げて立っていた。
「……封印、ゆるんでんじゃん。ったく、誰が勝手に触ったんだよ」
ため息をつきながら原稿用紙を取り出す。
除霊用の朗読原稿――内容は、自身の官能小説の一節。
「さて……やりますか」
淡々と読み上げ始める。
低く通る声が夜気に混ざり、空気がわずかに震える。
> 「ねぇ……それ以上触れたら、もう戻れないよ……」
井戸の奥、黒く粘るような影が蠢いた。
やがて、形を持つようにしてにじり出てくる。
「……来たな」
> 「いいよ……もっと、ちゃんと、見て……触れて……」
官能的な声が闇をくすぐる。
だが、霊の動きは鈍らない。むしろ――怒りに似た気配すら纏い始めていた。
(……ダメか、耳が効かないタイプか)
影が跳ねた。
因幡の首元を、鋭い腕が掠める。紙一重。
「ちっ――!」
後ろへ飛び退こうとした瞬間――
「因幡先生!!」
地響きのような足音とともに、黒川才斗が飛び込んできた。
御札を手に、霊の脇腹へ貼りつけながら、そのまま蹴り上げる。
「勝手にひとりで来るとか、どうかしてますよ、先生……!」
「黒川……!」
黒川は容赦なく殴りかかる。拳、蹴り、膝、御札。
除霊の“術”というより“力業”の連打。けれど、そこには確かに気迫がこもっていた。
「俺の担当作家に……手ぇ出してんじゃねぇぞ……!!」
最後の御札を渾身の一撃とともに叩き込むと、霊はバチバチと音を立てながら光の粒になって弾け飛んだ。
静寂。
森が、本来の夜に戻ったように見えた。
「……助かった。ありがと、黒川」
因幡が額の汗を拭いながら言うと、黒川は険しい顔でこちらを見たままだ。
「……本当に、無茶ですよ。先生に何かあったら、俺……」
「……おまえに何かある方がイヤだったんだよ、こっちは」
黒川の目がかすかに見開かれた。
だが次の瞬間、彼はふっと笑って視線を逸らす。
「……別に、先生のことが好きとか、そういうのじゃないです。俺、ただの……助手ですから」
「ああ、はいはい」
因幡はまるで気にも留めず、うんうんとうなずいた。
「助手くん、帰りはラーメンな。おごりでよろしく」
「……はぁ」
(……なんで、まったく伝わらないんですかね)
黒川は背を向けた因幡を見つめながら、ひとり、嘆息した。




