双子を喰う井戸
編集部を出ていった黒川才斗の気配が消えたアパートで、因幡歩人はひとり、静かに原稿に向かっていた。
昼を過ぎて、陽が傾き始める頃。
カタカタとキーボードを打つ音だけが、室内に響く。
「……よし、一区切り」
エンターキーを押してから大きく息をついた歩人は、椅子の背もたれに体を預けた。
画面には新作官能小説の締めの一文――言葉で触れる快楽と、触れられない心の距離。
皮肉だな、と思う。まるで自分みたいだ。
ちら、と目をやった先。テーブルの上には、黒川が置いていったマグカップと、封も開けていなかった次の除霊依頼書。
あれから黒川は、夢の話をしなかった。
もちろん、因幡もあえて聞かなかった。けれど。
「……わかってんだよ」
誰に向けるでもない独り言。
彼が昨夜見た夢、その中にある痛みは、あまりにも生々しくて――。
「今の黒川に、ああいうの……近付けたくねぇよな」
カーテン越しに滲んだ夕陽を見ながら、因幡はそう呟いた。
除霊依頼の内容は、郊外の神社の裏にある廃井戸。
『双子を喰う井戸』――
生贄にされた双子の霊が今も底で呻いている、という噂。
「よりによって……タイミング最悪かよ」
黒川は、双子の兄を亡くしている。
そんな場所へ、連れていけるはずがない。
リュックの中にはすでに、御札と清めの塩、経文と懐中電灯。
そして、朗読用に選んだ最新作の官能小説。
カバーだけは黒川が最後に使っていたものを拝借した。
少しだけ甘い気持ちを抱きながら、そっと文庫にかぶせる。
「今日は……俺ひとりでやる」
立ち上がり、荷物を肩にかけ、玄関に向かう。
靴を履いてから、ふと立ち止まった。
ドアノブに手をかけながら、ぽつりとつぶやく。
「恋人でも、家族でもないし……ただの師匠で、ただの作家だけどさ」
少し照れくさそうに笑って、でもその声音は真剣だった。
「……黒川がこれ以上、痛い思いしないように、俺が守る」
誰にも聞かれないような、静かな誓い。
そのまま因幡は、暮れなずむ街の中へと一歩を踏み出した。
背中には、夜の依頼と、言葉にできない想いが詰まっていた。
アパートの部屋には、微かに揺れるコーヒーの香りと、彼が書き上げた原稿の余韻だけが残っていた。
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編集部から帰ってきた黒川才斗は、アパートの玄関を開けるとほっと息を吐いた。
靴を脱いでリビングに入る。
カーテンは閉じられ、照明は落とされていた。まるで人の気配がない。
「……因幡先生?」
呼びかけても返事はない。
風呂場を覗いても、寝室を覗いても、どこにも彼の姿はなかった。
黒川の眉間に、じわりと皺が寄る。
彼がどこかに出かけるとき、必ずメモかLINEを残していく。
それが彼なりの“自分が無事でいる”という証のようなもので、黒川もまた、それに何度も救われてきた。
けれど今日は、何もなかった。
「……いや、待って」
何かがテーブルに置いてある。
封筒。編集部から回ってきた依頼書のフォーマット。見慣れた字体。
黒川はそれを手に取り、中身を見た。
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【除霊依頼書】
■場所:郊外・神倉村 旧神社裏の廃井戸
■内容:深夜、井戸から呻き声のような音が聞こえる。近隣の住民が悪夢や幻聴に悩まされている。
■補足:「双子を喰う井戸」と呼ばれており、かつて双子を“供物”にしたという伝承あり。地元では封印されていたが、最近工事で地面が掘り返され……
読み進めた指先が、ピクリと止まった。
「……双子……?」
心臓が跳ねた。
記憶が、胸を鋭く叩く。
冷たい病室。手を伸ばしても届かなかった兄の手。
その夜からずっと、夢の中で見続けてきた情景。
「まさか……」
黒川はその場に座り込んでいた。
因幡が、これを見て、俺を連れて行きたくなかった。
その理由が、痛いほどわかった。
でも、だからって。
「ひとりで行くなよ、バカ……」
紙を握る手が震えた。
“俺が行ったら黒川が傷付くかもしれない”——
そんなふうに考えたんだろう。
だけど、俺だって、アイツが傷付く方がずっと怖い。
黒川は立ち上がると、すぐにスマホを手に取った。
発信履歴から因幡の番号を押す。コールは鳴り続けるが、繋がらない。
「先生……出ろよ……!」
無意識のうちに声が荒くなる。
コールが切れた瞬間、黒川は迷いなくバッグに塩と数枚の御札を詰め込み、コートを羽織って玄関へ向かった。
「すみません、因幡先生。俺、やっぱり……お前の助手なんて中途半端じゃいられない」
鍵をかけ、ドアを閉める。
「お前のこと、……好きなんだよ、もう」
夜の街へ駆け出すその背に、抑えきれない想いが滲んでいた。
――間に合え。
その願いだけが、冷たい風に乗って響いていった。




