夢を喰うひと
外は秋の風が吹いていた。
街灯が揺れて、カーテンの隙間からぼんやりと部屋の中を照らしている。
因幡歩人は、黒川才斗の部屋の布団の中で目を覚ました。
隣のベッドから、かすかな唸り声が聞こえる。
最初は寝言かと思ったけど、すぐに違うってわかった。
「……やめて……もう……いないだろ……」
低く、掠れた声。黒川だった。
「黒川……?」
因幡は布団からそっと抜け出して、黒川のそばに近づいた。
彼の額には汗が滲み、顔は苦悶の表情で固まっている。
まるで、誰かに縋るように、謝るように、うなされていた。
「……悪い夢、見てるのか」
因幡は静かにタオルを取って、黒川の額に触れた。
ひんやりとした布で、優しく汗を拭ってやる。
「……平気だよ。もう大丈夫」
その声は、そっと耳元に落ちるような、小さく落ち着いたトーンだった。
「……俺がそばにいる。だから――」
つぶやいた言葉が、自分の胸にもしんと響いた。
(何もできないかもしれないけど、せめて……)
因幡はそっと黒川の手に触れた。
指先が震えていた。その震えを自分の手で包み込むように握る。
「泣いてる黒川なんか、見たくない。……俺が守ってやるよ」
少し照れくさくて、少し強がって、だけど嘘じゃなかった。
「おやすみ、黒川。怖い夢、俺がぜんぶ喰ってやるからさ」
少年の頃に読んだ昔話みたいに。
誰かを守れる呪文があるなら、こんな風に唱えていたかった。
そうしてしばらく手を握ったまま、因幡は黒川の表情が少し緩むのを、そっと見つめていた。
――秋の夜、静かに揺れる灯のような、ふたりの距離だった。
---
朝――。
カーテンの隙間から差し込む光が、ほんのり冷えた空気の中に淡く広がっていた。
黒川才斗は、目を覚ました瞬間、ぼんやりと天井を見つめていた。
昨夜の夢の内容は曖昧なまま、ただ胸の奥に重たいものが残っている。
隣の布団には、因幡歩人がいた。
因幡はすでに起きていて、コーヒーを淹れながら、こちらを振り向く。
「……おはよ、黒川」
少し気まずそうな、けれど優しい声。
黒川は小さく「おはようございます」と返した。
それ以上、言葉は続かなかった。
因幡は夜中のことに触れようとはしなかった。
黒川もまた、夢の内容を思い出すのが怖くて、言葉にしなかった。
テーブルに並べられた簡単な朝食――トーストと卵焼き、コーヒー。
食欲はあまりなかったけれど、黒川は無言のままトーストをかじった。
因幡がふと口を開く。
「……今日は午前から編集部か?」
「はい。打ち合わせが一件、午後にひとつ取材もあるんで……」
それだけ言って、立ち上がる黒川。
因幡は少し寂しそうに、その背中を見送る。
「……無理すんなよ。変な夢とか見たなら、ちょっと休んでも――」
「……夢なんて見てません」
黒川の声は、どこか強ばっていた。
「……じゃ、行ってきます」
そう言って、黒川は玄関のドアを開けて、出ていった。
バタンと閉まる扉の音が、部屋の空気を切り裂くように響いた。
静まり返った部屋にひとり残された因幡は、ため息をついた。
「……黒川のくせに、意地っ張り」
口ではそう言ってみたものの、彼の瞳は少しだけ、痛みを含んでいた。
――きっと、あの夢には触れられたくなかったんだろう。
なら、無理には聞かない。
でも、心のどこかにずっと引っかかっているのは、因幡の方だった。
「……もっと俺が鈍かったら、楽なのにな」
独り言のようにつぶやいて、残ったコーヒーを口に運ぶ。
苦く冷めた味が、胸の中のもやを余計に濃くした気がした。
秋の朝の冷たい空気が、部屋の隅にひっそりと滞っていた。




