ラーメンと師弟
夜の高架下。車の音もまばらな深夜、じっとりとした空気の中に、確かに「それ」はいた。
線路の下に広がるコンクリートの死角に、浮かび上がる黒い影。視線を感じるたびに足がすくむような冷気を漂わせている。
「……来てる。柚瑠さん、準備を」
「うん。……任せて、律」
柚瑠はそっと目を閉じる。霊媒師としての気を集中させ、懐から取り出した数珠を静かに握る。その指先はかすかに震えていたが、彼の眼差しには揺るぎがなかった。
「……哀しみに囚われし魂よ。此処に囚われし理由を忘れたならば――どうか還れ、安らぎの場所へ……」
祈るように、囁くように、柚瑠の声が宙を震わせた。声と共に数珠が光り、空気がふっと変わる。
黒い霧のような霊が、ぴたりと動きを止めた。
それはまるで、やっと自分の存在に気づいてくれた誰かに、懸命に手を伸ばすようだった。
「……ありがとう、ございます……」
かすれた声が、風に紛れて消えた。
次の瞬間、霊の姿はふわりと溶けるように消え、夜の闇に静寂が戻る。
「――やった……」
柚瑠の肩がわずかに震えた。
その時。
「やりましたね!柚瑠さん!」
隣にいた律がぱっと駆け寄り、感極まったように手を握ってきた。瞳が輝いていて、満面の笑みを浮かべている。
「本当に、すごいです!これまでの努力が全部、今日に繋がってたんですね!」
「ちょ、律……落ち着いて。あんたのほうが喜びすぎ」
ふっと笑った柚瑠の顔に、また律の心が強く脈打つ。
その笑顔は、どこか照れくさそうで、それでいて誇らしげで。律の胸に、ふわっと温かいものが灯った。
「……でも、ほんとにすごかったです。尊敬してます、柚瑠さん」
「……なにそれ、改まって。やめてよ、照れるじゃん」
「……じゃあ、俺だけ照れておきます」
そう呟いてそっと笑う律を、柚瑠は不思議そうに見つめながらも、まんざらでもなさそうに肩をすくめた。
高架下の風が、二人の間をやさしく通り抜けていった。
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除霊の帰り道。
「……なあ律、なんか腹減らない?」
「減りましたね。緊張してましたし、何も食べてませんから」
顔を見合わせてふっと笑い、柚瑠の提案で駅前のラーメン屋に入ることにした。
深夜の赤提灯がぼんやりと揺れる。
カウンターだけのラーメン屋。
「いらっしゃーい」と威勢のいい声に出迎えられ、並んで席に座った。
「……こういうとこ、初めて?」
「ええ、なんか映画の中みたいで……ちょっと感動してます」
「はは、律、マジで真面目すぎ。深夜のラーメンは、こういう時のためにあるんだぞ」
「なるほど、覚えておきます。これも“霊媒師の流儀”ですね」
冗談めかした会話を交わしながらラーメンが運ばれてくる。
「いただきます」と声を合わせ、ふたりして箸を取った。
「……っ、やば、うまい」
「沁みますね……今日の夜に、ぴったりです」
しばらく黙々と食べていたが、ふと柚瑠がスープをすすりながらぽつりと口を開いた。
「……今日さ、ありがとな。僕、ひとりだったら無理だったかも」
「……俺は何もしてませんよ。除霊したのは柚瑠さんですから」
「でもさ。律が横にいてくれたから、僕は……やれたんだよ」
その言葉に、律は一瞬だけ動きを止める。
視線は柚瑠の方に向けられているのに、どこか遠くを見るような目をして――
「……それは、“師匠”だからですよ。俺が支えるのは当然です」
「……ふうん」
柚瑠は特に深く考えた様子もなく、再び麺をすすり始めた。
その横顔を、律はこっそり見つめる。
湯気越しに浮かぶ、ちょっと照れてるような、でも素直な顔。
(……弟子じゃなかったら、柚瑠さんの隣にいられなかったかもしれないから)
そう心の中でだけ呟いて、律はそっと笑った。
その笑みには、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。
「律?」
「……いえ、何でもないです」
柚瑠は全く気づかず、替え玉を頼むか悩んでいるようだった。
「僕、もう一杯いけるかも……いや、でもスープ残したくないしな……」
「じゃあ、俺が残ったスープ、いただきますね」
「マジ?頼りになるな、律は」
屈託のない笑顔。
その言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
(……気づかなくていいです。今はまだ、それで)
静かにラーメンをすする律の横で、柚瑠は替え玉の注文を元気よく告げていた。




