やっかいな恋の書き方
その次の日の夜。
因幡歩人はいつものように、自宅の書斎にこもっていた。
部屋の空気は少しひんやりとしている。
けれどキーボードの上を滑る指は、やけに熱を帯びていた。
("もし俺だったらどうするか"……か)
黒川が言ったその言葉が、まだ耳に残っている。
心中した霊たちに感情移入していたのは、あいつではなく、自分の方だった。
──ああ、いけない。
恋愛小説を書くにあたって感情移入は大事だけど、今回はちょっと入りすぎた。
それは小説のためじゃなくて、ただ黒川の言葉を思い返していたからだ。
そんなことを考えていたら、玄関のチャイムが鳴った。
ガチャリ、とドアを開けると、案の定そこにいたのは黒川才斗だった。
「あ、こんばんは。ちょっと差し入れに来ました」
いつもの調子で、紙袋を掲げて見せる。
「どうせ夕飯食べてないでしょ、先生。プリンとミニチーズケーキ買ってきました。あと、カフェラテ」
「……おまえ、俺の好み覚えすぎじゃない?」
「覚えるでしょ。好きな人のことなら」
何気ない調子でさらりとそんなことを言う。
悪びれもせずに。
(……やっぱり、やっかいだ)
因幡は内心でひとつため息をつきながらも、黙ってその差し入れを受け取った。
「で?仕事中?」
「まあな。そろそろ終わるところだったけど。……入ってく?」
「あ、じゃあお邪魔しまーす」
気軽に靴を脱ぎながら上がり込む。
もう何度も来ているのだから、彼にとってはここも“いつもの場所”なのだろう。
そのまま台所でマグカップを取り出してカフェラテを温めているのを横目に見ながら、因幡はふと声をかけた。
「なあ、黒川。……昨日の橋の話。あれ、本気だったのか?」
「え?」
「“誰かと一緒にいたいのに奪われたら、どうするか”ってやつ。……おまえに、そんな相手がいるのか?」
カフェラテの電子音が“ピッ”と鳴ったタイミングで、黒川の手が止まった。
ふり返った彼の表情は、いつもよりほんの少し、真剣だった。
「いたら……先生、どうします?」
今度は、因幡が言葉に詰まる番だった。
「そいつが俺の近くにいて、俺のことを好きでいてくれて……でも、俺がそれに気づいてなかったら。そいつは……どうしたらいいですかね?」
「……知らん。俺に聞くな」
「でも、先生……小説の中じゃ、いつも気づいてあげてるじゃないですか。登場人物の気持ちに」
「小説は……小説だよ」
因幡は、コーヒーカップを持つ手に力を入れた。
だけど、それ以上なにも言えなかった。
ふたりの間に、一瞬だけ静けさが流れる。
だけど、それは気まずいものではなく、どこかやわらかい沈黙だった。
やがて、黒川が笑った。
「ま、いっか。今日はプリンでも食べてください。仕事しすぎるとまた寝落ちしますよ」
「おまえに言われたくないけどな……」
ふっと笑って、プリンのふたを開ける。
カラメルの香ばしい匂いが、ささやかな癒しになった。
黒川はとなりで椅子に座り、いつの間にかパソコン画面を覗きこんでいた。
「次の作品って、どんな恋なんですか?」
「……そうだな。叶うかどうかもわからないけど、伝えずにはいられない……そんな、やっかいな恋だよ」
「……へえ。どっかで聞いた話だな」
プリンのスプーンを口に運びながら、黒川はにやりと笑う。
因幡歩人はただ肩をすくめて、知らんふりを決め込んだ。
今はまだ、知らないふりのままでいさせてほしい。
だけど心のどこかで、ほんの少しずつ、それが変わってきていることにも気づいていた。




