心中の橋で願った未来を
夜、郊外にある古びた赤い吊り橋。
街灯も少なく、足元には霧が立ち込めていた。
地元では「恋人橋」と呼ばれているその場所は、今や心霊スポットとして知られていた。
曰く――親に反対された若い恋人たちが、この橋から身を投げたと。
その後、恋人同士で訪れたカップルの間に不幸が起こるという噂までささやかれていた。
そんな橋のたもとに、ふたりの男が立っていた。
「では、今日もいってみましょうか~。朗読タイトルは……《愛が死を超える夜には》」
因幡歩人の艶めいた声が霧の中に響く。
まるで生きているかのような台詞の応酬と、しっとりとした愛の描写。
黒川才斗はすぐ傍で立ち会い、因幡の朗読に合わせて場の気配を整えていた。
ふたりの朗読除霊が終わると、橋の上に漂っていた霊たちは、穏やかな気配に変わり、どこか安らいだように消えていった。
しんと静まり返る夜の中、因幡は小さく息を吐いた。
「今夜のは……わりと、聞き手が素直だったな」
「うん。きっと、ずっと“愛してる”って言葉を待ってたんじゃないですか」
「ふふ、そんなロマンチックな解釈、君らしいな」
因幡が冗談めかして笑う横で、黒川はふと、橋の欄干を見つめたまま無言になった。
「……もし、俺が」
ぽつりと呟く。
「俺が、誰かを心から好きになって、その人と一緒にいたいのに、誰かに反対されて、奪われて……そうなったら……俺は、どうするのかなって、思って」
因幡は一瞬、表情を止めて彼を見た。
黒川は、はにかむように目をそらし、そっと因幡のコートの袖口を小さく掴んだ。
「俺なら……何があっても、手放したくない、って思うんだろうな」
それは、自分でも気づかないうちに零れてしまった、祈りのような本音だった。
因幡はその言葉に返す言葉を見つけられず、しばし視線を落としたまま黙っていた。
けれど袖を掴む黒川の手を、強くも拒まず、ただそのままにしておく。
「……おまえさ、今みたいなことを、サラッと言うのが一番危ないって知ってる?」
ようやくそう呟いた因幡の声は、どこか苦笑混じりだった。
「え?」
「いや、なんでもない」
照れ隠しのように目をそらしながら、因幡は橋の先を見やった。
そこには、何事もなかったかのように、静かな夜の風だけが吹いていた。
黒川の手がまだ、自分の袖にそっと触れている。
けれど、因幡はそのことに触れず、歩き出した。
そして黒川もまた、その背を見つめながら、そっと後をついて歩き出した。
“きっと、俺はこの人のためなら、何があっても——”
そんな言葉を、胸の奥に飲み込んだまま。
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ふたりの霊が消えたあと、橋の上には深い静寂が訪れた。
ざわめいていた空気が嘘みたいに澄んでいて、朗読の余韻だけが耳の奥に残っている。
「……今夜のは、聞き手が素直だったな」
そう口にした自分の声が、やけに穏やかに響いた。
「うん。きっと、“愛してる”って言葉を待ってたんじゃないですか」
隣で、黒川がそう答える。
あいかわらず、彼はまっすぐすぎる。
そのときふと、彼の横顔が視界に入った。
穏やかで、優しくて、だけど――なぜか、どこか寂しげな瞳だった。
「……もし、俺が」
ぽつりと、呟くように言った。
「俺が、誰かを心から好きになって、その人と一緒にいたいのに、誰かに反対されて、奪われて……そうなったら……俺は、どうするのかなって、思って」
“もし、俺が”。
それはつまり、“いま、そういう相手がいる”という含みを感じさせる言い回しだった。
その瞬間、因幡歩人の胸の奥に、何かがひやりと走った。
そして次の瞬間——
黒川の指が、そっと、自分のコートの袖を掴んだ。
(……ああ、やめてくれ)
心の中で、声にならない言葉が、ぽつんとこぼれ落ちた。
(そんな顔で、そんなこと言わないでくれ。俺は、何も知らないふりをしてるだけなんだ)
いつも明るくて、無邪気で、朗読中は自分よりも真剣で。
お調子者かと思えば、ふとした瞬間にこんな真顔を見せる。
(……本当に、やっかいな奴だな。おまえは)
「……おまえさ、今みたいなことを、サラッと言うのが一番危ないって知ってる?」
ようやく返したその言葉は、冗談の皮を被ってはいたけれど、ほんの少しだけ本音も混じっていた。
黒川は不思議そうに「え?」と聞き返してきたけど、それ以上は答えなかった。
袖に触れている手を、振り払うことも、握り返すこともせず、ただ前を向いて歩き出す。
掴まれた袖の重みが、やけに意識に残った。
黒川が自分に向けている想いに、気づいていないふりをするのは、正直そろそろしんどい。
でも。
もしそれに応えられなかったら?
黒川のまっすぐな目を曇らせるようなことを、俺がしてしまったら?
(だったら、まだ知らないふりの方が、いいのかもしれない)
歩きながら、そっと袖に目を落とす。
彼の手はもう離れていたけれど、あたたかさだけはまだ残っていた。
――もし、俺が恋愛経験が豊富に見えるなら、それはきっと、全部小説の中の話だ。
本当に人を好きになるってことは、こんなにも、面倒で、苦しくて、そして……ちょっと、嬉しい。
自分でもまだ知らない感情の中を歩きながら、因幡はただ静かに、黒川の足音が後ろからついてくるのを聴いていた。




