湯けむりの和解
「本当に……ありがとうございました!」
女将は何度も頭を下げながら、両手でぎゅっと因幡歩人の手を握った。
「これで、観光客の方にも安心して泊まっていただけます。廃ホテルの噂で予約が激減していたんですけど、今日からまた頑張れそうです!」
因幡は気まずそうに肩をすくめた。
「ま、オレはタダで泊まれるって話だったから来ただけだけど……効果出たなら何よりだな」
「本当にありがとうございました! 因幡先生の朗読……すごかったです」
黒川が慌てて間に入り、フォローを入れる。
「先生、ちょっとは感謝されることに慣れてください……」
「俺に感謝されても、別に本の売上には直結しねーからな……あっ、でもこのついでに《濡れる吐息と、終電のキス》って官能小説を――」
「先生!! 宣伝は後でにしてください!」
一方、少し離れたところで、柚瑠は腕を組みながらそっぽを向いていた。
それでも、女将の言葉はちゃんと届いていた。
「あなたたちのおかげで、因幡先生が危険な目に遭わずに済んだとも聞きました。本当に感謝しております。どうぞ、今日は皆さんに別室をご用意させていただきますから、温泉でゆっくりしていってくださいね」
柚瑠が一瞬驚いた顔をしたが、すぐに背を向けたまま、そっと拳を握った。
「……ふん。まあ、当然の報酬だな。共闘の対価、ってやつだ」
律が微笑み、深く一礼する。
「お気遣い、ありがとうございます。柚瑠さん、お部屋もらえましたね。……よかったです」
「律、おまえ……! だから敬語やめろって……!」
「柚瑠さんは俺の師匠なんですから、当然ですよ」
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夜、温泉宿にて
因幡歩人と黒川才斗は、廊下を歩きながら手ぬぐいを肩にかけていた。
「ふぅ、やっと一息つけるな。あの朗読、かなり喉にくるからな……」
「いや、そういう話の前にですね、先生。俺、今日一日ずっと心臓に悪かったですからね!?」
「おまえ、今日の蹴りはマジで冴えてたぞ? 黒川がいなかったら、あの髪のやつに引きずり込まれてたかもな」
「……そ、それ本気で言ってます? ちょっと嬉しいです」
木造の湯屋の戸を開けると、湯けむりと檜の香りがふわりと漂ってきた。
因幡が浴場の中に一歩踏み出した、そのときだった。
「あっ……」
「……え?」
タイルの洗い場に、すでに先客がいた。
柚瑠が浴槽の縁に座り、肩まで湯に浸かっている。その隣には、タオルを頭にのせて湯に浸かっている律の姿。
「……なんでおまえらもいるんだよ!!」
「そっちこそ!! まさかこの時間に来るなんて聞いてないぞ!!」
因幡と柚瑠が同時に叫び、湯屋に微妙な緊張感が走る。
律はタオルを持ち上げて、にこやかに手を振った。
「こんばんは。温泉、気持ちいいですよ。柚瑠さんもすっかりのぼせそうなくらい、長風呂中です」
「律!! いらんこと言うなっての!!」
黒川は、少し戸惑いながらも律の隣に座って湯に入った。
「……ま、同じ宿なんだから、鉢合わせもありますよね。湯船でまではケンカしないでくださいね?」
「こっちはケンカする気はねぇよ。……ただ、静かに入りたいだけだ」
「……こっちだって、別に話しかけたいわけじゃないしな」
湯けむりの中、ふたりはそっぽを向いたまま、距離を置いて湯に沈む。
その様子を黒川と律が笑いながら見守っていた。
「……でもさ、なんだかんだで、あのふたり、似てるかも」
「ふふ、たしかに」




