祓いの家、揺らぐ信念
因幡が飴玉を口に入れようとしたそのとき――
「――ッ!?」
黒川が首をすくめるように震えた。
「……来てます。またさっきの悪霊と似た反応が」
カフェの裏庭に漂う空気が一変する。夕方の穏やかな空が、まるで曇天のように重く沈む。
「おいおい、またおかわりかよ……最近、ここの霊、空気読まねぇな」
因幡がぼやきながら、胸ポケットから例の文庫本を取り出す。その表紙には、今月新刊の「妖艶秘めごと夜話・第五章」のタイトルが金箔で光っている。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
高守が前に出た。
「こういう場面であなたの“朗読除霊”を続けるのは、風紀を乱します!今度こそ、正統派の術式で僕が祓ってみせます!」
「ん?やってみたいんなら、やってみな」
因幡は本を閉じて一歩引く。
「お、おい先生?譲っちゃっていいんですか……?」
黒川が心配そうに耳打ちするが、因幡は飴を噛み砕きながら言った。
「……いいじゃん、実力見せてもらおうぜ。俺は“恥ずかしくてやりたくねぇ”から助かるし」
「最低ですか」
「愛のある皮肉だろ」
そんな軽口を交わす中、高守は真剣な表情で印を組み、文様を刻んだ札を空中に浮かせた。
「霊よ、迷いを捨て、帰るべき場所へ還れ!」
――瞬間、空気が震えた。札が青白く光り、空間に圧がかかる。
「……!」
だが、その光が霊に届く直前で、霊はひらりと逃げ、煙のように裏庭の茂みに消える。
「っ……くっ、また逃げた!?」
肩を落とす高守に、律がそっと近づく。
「柚瑠さん、悪霊って霊力を読まれた瞬間に逃げる癖があるから……無理しないでくださいね?」
「……律、わかってるよ。僕だって……悔しいんだ」
その横で、因幡がもう一度文庫本を取り出す。
「じゃあ、俺の出番か」
本のページを指でなぞりながら、ポケットの中からマイク付きイヤホンを取り出して黒川に手渡す。
「お前、BGMな。音鳴らして。あと、例の“リズム吸音”もな?」
「……腕、また吸うんですか、俺……?(死んだ目)」
「効果あるんだから我慢しろ。お前、霊より雑音のほうが怖いだろ?」
黒川が渋々自分の前腕に唇を寄せて、くちゅ…くちゅ…と微妙に不快な音を立て始める。
因幡は堂々とページを開き、低音で響く声で朗読を始めた。
> 「……“ふたつの唇が重なり合った瞬間、すべての理性は溶けていった――”」
霊が茂みから顔を出す。そのまま動けなくなった。
> 「“彼の指が、背中をなぞるたび、甘く痺れる声が……”」
霊の輪郭が淡く光り始め、浄化の兆しが表れる。
高守が愕然としたように、唇を噛んだ。
「くっ、バカバカしいと思ってたけど……なんで、そんなやり方で……!」
「……不本意ながら、すごいですね。あの“音”も、想像以上に有効とは……」
律は黒川のくちゅくちゅ音を真顔で見つめながら、ポケットから新しい飴玉を取り出していた。
朗読が終わると、霊はふわりと昇華し、夜の気配に溶けて消えた。
「よし、オッケー。……あー、疲れた」
因幡はふぅと息をついて、腕を吸い続けていた黒川の頭をぽんと軽く叩いた。
「よくがんばったな、黒川」
「……はい。光栄です、先生……(腕ベタベタですけど)」
因幡と黒川の距離がぐっと近づいたのを見て、高守はそっと視線をそらす。
「……あんなの、認めたくない……でも、なんでか、悔しいのに、ちょっとだけ……羨ましい……」
その横で、律が微笑む。
「だったら、また一緒に現場へ行きましょうよ。柚瑠さんはまだ、伸びますから」
「……律、あんたってほんとに……」




