深夜の朗読と腹痛の女
深夜二時。
静まり返ったアパートの一室で、黒川才斗は疲れた体を布団に沈めていた。締切明けで久々に訪れたオフの夜。ようやく、夢の世界へと意識を沈めかけたその時だった。
「……いたい……おなかが……くるしい……」
かすかに女の声が聞こえた。
(……え?)
寝ぼけた耳が幻聴を聞いたのかと思ったが、次の瞬間、ゾクリと背筋に冷たいものが走った。
視界の端に、何かが立っている。
――枕元に、髪の長い女の霊が正座していた。
白い顔、うつむいた表情。その腹部をおさえて、呻くようにして言った。
「……いたい……おなか……いたい……」
「うわッ!? お前は誰だァァッ!!」
跳ね起きた黒川の叫びとほぼ同時に、今度は自分の腹がギリギリと締めつけられるような痛みに襲われた。
「い、痛ッ……!? な、なにこれ……! お前の腹痛がこっちに転移してんのか!? 勘弁してくれよ……!」
ベッドから転がり落ち、床を転げ回りながら黒川は必死に手を伸ばした。
――目指すは枕元の小さな山。そこにある、赤い表紙の文庫本。
《濡れる吐息と、終電のキス》
因幡あるとの新作・官能小説。本人直筆のサイン入り。黒川にとっては、最早ある種の“お守り”と化していた。
「もうこれしかねぇっ……!」
黒川は本を掴み、めくると同時に覚悟を決めて朗読を始めた。
「『ねぇ……こんなに濡れてるけど、どうして……?』男がそう囁いた時、女は――っ、うぐ……!」
読んでいる本人の羞恥と腹痛が入り混じるが、そんなことは言っていられない。とにかく読み切らなければ……!
「『こ、こんなとこでダメぇ……っ、でも、止まらない……っ』」
読み進めるたびに、霊の呻きが弱くなっていく。そして、四行ほど読んだところで――
「……ふふ……ありがとう……」
女の霊は、腹をおさえたまま、スッと消えていった。
「えっ、え、え……消えた? 治った? ほんとに、読んだだけで?」
黒川も不思議と腹の痛みが引いている。冷や汗を流しながら、ぜえぜえと肩で息をした。
「……マジで効いたのかよ……因幡先生の官能小説、除霊効果ありすぎだろ……」
枕元の本を見つめながら、黒川は額の汗をぬぐう。
「……これ、ますますあの人に頭が上がらなくなるじゃんかよ……」
だが、その夜、黒川は気づいていなかった。
数日後に訪れる“次の霊案件”では、因幡本人が泊まり込みで介入してくる羽目になるということを――。
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数日後。
黒川才斗は、因幡歩人の家を訪れていた。
ピンポンとチャイムを鳴らすと、しばらくしてドアが開く。
「……あれ、珍しいな。こっちから連絡しようと思ってたのに」
やわらかな声と共に顔を見せた因幡は、眼鏡をかけたまま髪を無造作にかき上げる。部屋着のままで、どうやら執筆の手を休めて出てきたらしい。
「……あの、小説、除霊に効きました」
黒川は開口一番、妙に真面目な表情で言った。
「は?」
因幡が瞬きをした。
「いえ、笑わないでください。ほんとに効いたんです。深夜、女の霊が出まして……」
黒川は、数日前の出来事をかいつまんで説明する。夜中、突然現れた女の霊。共鳴するように始まった腹痛。枕元にあった因幡の官能小説。そして、その朗読によって除霊と痛みが同時に消えたこと。
一通り話し終えた頃には、因幡の表情は笑いをこらえきれず、口元を押さえていた。
「……ぷっ……ご、ごめん。いや、笑っちゃダメなんだけど……! 俺の本、そんな万能薬みたいな扱いされるなんて、さすがに初めてで……!」
「ですから、笑わないでくださいって言ったじゃないですか」
赤くなった顔をそむけながら、黒川はむすっとソファに腰を下ろす。因幡は机の上に置いてあったマグカップを片手に、隣に腰かけた。
「でも……その霊、成仏できたならよかった」
「先生は呑気ですね……こっちはほんとに死ぬかと思ったんですから」
「ふふ、ごめんごめん。じゃあ、そろそろ俺が泊まり込みで様子を見るか?」
「……は?」
「だって、黒川の体質も霊を引き寄せやすいままだし、今回みたいに“発動”してから連絡されたんじゃ間に合わないこともある。だったら、俺が直接そばにいた方が早いし、安全でしょ」
「……いや、それは……」
(それってつまり……一緒に住むってことですよね!?)
黒川の脳裏に、因幡が自分の部屋に入り浸る未来予想図がぐるぐると回る。
食卓を挟んで朝食を食べる因幡。ソファに並んで寝落ちしている因幡。夜中にいびきをかいて布団で寝ている因幡――なんだその生活感は!
「な、なんで勝手に決めるんですか」
「じゃあ、ダメ?」
因幡はあどけない笑顔で、マグカップを口に運ぶ。
黒川は思わず視線を逸らし、ぶつぶつと呟いた。
「……絶対ダメとは……言ってませんけど……」
(なんで断れないんだ、俺は……!)
二人の距離はますます近づき、夜な夜な霊との攻防と、妙なときめきが入り混じる奇妙な日々が幕を開ける――。




