夜明けまで、手を離さずに
日もすっかり沈み、因幡の仕事部屋は、灯りを落として静けさに包まれていた。
黒川はキッチンで片付けを終え、因幡の様子をそっと見に戻る。
「……ちゃんと寝てるな」
布団にくるまった因幡はすっかり眠りについている。けれど――
「……っ、……やめろ……こっちにくるな……」
眉間にしわを寄せ、苦しげに寝返りを打っていた。
「……先生?」
黒川は思わず近づき、そっと肩に手を置く。
「先生、大丈夫です。……夢ですよ」
そのとき、因幡の手がぱっと宙をさまよい、黒川の手をぎゅっと掴んだ。
「っ……黒川……」
「俺、ここにいますよ。大丈夫、俺がついてますから」
驚きながらも、黒川はそのまま因幡の手をしっかりと握り返す。ふと、熱のせいか、あるいは夢にうなされているせいか、因幡の目尻から涙がにじんでいた。
「先生……」
黒川はゆっくりと膝をつき、因幡の手を包み込むように両手で包み込んだ。
「怖くないですよ。……先生は、俺が守りますから」
そう囁くと、因幡の表情が少しだけやわらいで、まるで子供のように穏やかな寝息を立てはじめた。
その寝顔を見つめる黒川の胸の奥で、何かがそっと、音を立てた。
(……この人が倒れて、こんなに不安になるなんて。俺……)
不意に、因幡の手を握った自分の指先が熱くなる。
(なに考えてんだ俺は。……ただの編集担当なのに)
でも、そのまま手を離す気にはなれなかった。
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朝が来るまで
夜更け、黒川は因幡の手を握ったまま、座椅子にもたれて眠っていた。
微かに目を開けた因幡が、ぼんやりと黒川を見つめる。
「……なんだ、まぬけ面して寝やがって」
囁くようにそう呟くと、握られたままの手にそっと力を込めた。
「……ほんと、お前がいてくれてよかったよ」
そうしてまた、静かに目を閉じた。
部屋の中には、夜明け前のやさしい空気が漂っていた。
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因幡の夢の断片
夜明け前、うっすらとまどろみの中にいた因幡の意識に、夢の残滓がよみがえる。
誰かの泣き声。
白い障子の向こうから差す淡い光。
小さな因幡が、冷たい床に膝をついていた。
「やめて……やめてって言ってるのに……っ」
男の怒鳴り声。鳴き声。
そして、その場に立ち尽くすだけで、何もできなかった自分。
――記憶の奥底に沈めていた、遠い日の記憶。
夢の中で、ふいに誰かが手を握ってくれた。
あたたかくて、力強い手だった。
(……黒川……)
目が覚めたとき、その手が現実に握られていたことに、因幡は気づいた。
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翌朝
朝日が、遮光カーテンの隙間からわずかに差し込む。
黒川は、座椅子にもたれてうたた寝していた姿勢から、重いまぶたを持ち上げた。
「う、ぁ……っ、いたたたた……寝違えたかも……」
目をこすりながら、ふと因幡の方に目をやる。
「――あ」
因幡は目を覚ましていた。そして、穏やかな目をして、黒川を見ていた。
「おはよう。朝からずいぶん間抜け面だな」
「……おはようございます、先生。あの……具合は……?」
「ま、だいぶマシ。おかげで、熱は下がったみたいだ」
因幡は枕元に置かれた冷えたおかゆの器に視線を落とす。
「これ、ちゃんと食わせてくれたんだな」
「はい。……ちょっと冷めちゃってたけど、味は悪くないと思います」
「ふーん。じゃあ、次はアツアツを期待してるよ」
「なんで次がある前提なんですか……」
言いながら、黒川は寝ぼけてはねた因幡の髪にそっと手を伸ばし、指先で整えた。
「……先生、髪、ぼさぼさです。直しますよ」
「ん、ありがと」
因幡は、素直に頭を預けてくる。
いつもどこか飄々としているその人が、こうして気を許してくれることが、不思議と嬉しかった。
けれど――
「なあ黒川」
「はい?」
「昨夜……俺の手、ずっと握ってただろ」
「っ……!!」
黒川の顔がみるみる赤くなる。
「ち、ちがっ……! あれはその……っ、先生がっ、手を、掴んできたからで……!」
「ふーん?」
因幡は、ふっと微笑むと、熱が引いたとは思えないほど柔らかな視線で黒川を見つめた。
「そっか。……でも、嬉しかった。ありがとな」
「~~~っ!! もうっ! 次はちゃんと寝てください、先生!」
顔を真っ赤にしたまま、黒川はばたばたと部屋を出て行った。
因幡はその背中を見送りながら、そっと自分の指先を見つめる。
まだ、少しだけ、あのぬくもりが残っていた。




