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第五十話 嵐の中の声

調理室の空気は、いつもと違ってどこか落ち着かない。


「台風、直撃するみたいだな」


銀平がスマホの天気予報を見ながらぼそりと呟いた。

琴乃は包丁を置いて、「明日、配送止まるかも。冷凍分だけでも確保しといた方がええな」と言った。

僕は鶏のもも肉に火を通しながら、焼き加減を決めかねていた。


開店まであと一週間。なのに、準備はまだ不安だらけだ。


「今日は早めに切り上げて帰宅するようにって、先生から連絡あったよ」


澪が調理室に顔を出してそう告げると、銀平が「マジか。まだタルトの試作途中なのに」と不満げに返した。


僕も正直、納得できなかった。

準備が中途半端なまま終わることに、苛立ちすら覚えた。

それでも、外はすでに風が強くなっていて、窓ガラスが小さく鳴っていた。


帰宅後、テレビの天気予報をぼんやり眺めながら夕食をとっていると、スマホが鳴った。


「凛々子と連絡が取れんのや。そっちに顔出してへんか?」


電話の主は、彼女の父親だった。


「え……」


凛々子にスマホで電話をかけるが、「連絡ができない状態」と表示される。


僕はすぐに銀平たちに連絡を入れた。

琴乃さんから「そういえば、食糧庫の在庫を見てくるって言ってたけど……まだ帰ってないん?」と返信が届いた。


その言葉に、言いようのない不安が押し寄せる。

気づけば、僕はポンチョをかぶって嵐の中を走り出していた。

雨は容赦なく叩きつけてくる。ポンチョの裾が風に煽られる。視界はほとんどない。

冠水した道路の水かさは、あっという間に高くなる。

それでも、僕の足は止まらなかった。




***




風が唸り、雨が地面を叩きつける。

校舎は雨の中にかすみ、目の前には浸水して池のようになったグラウンドが広がっていた。

僕は膝下あたりまである水に足をとられそうになりながら進む。


「凛々子、いるなら返事しろー!」


顔を打ち付ける大粒の雨が、僕の必死の叫びをかき消す。

なんとか実習棟にたどり着き、思いきり扉を引くが、固く閉ざされていた。


「凛々子!」


濡れた手で扉を叩きながら、何度も名前を呼ぶ。

雨音にかき消されそうな声を、絞り出すように叫んだ。


しばらくして、内側から人影が近づいてきた。

鍵が回る音。

扉が急に開く。


そこに立っていたのは、蒼ざめた顔で、肩を震わせる凛々子だった。

その目は、泣き出しそうなほど不安に揺れていた。


「安太郎!」


震える声で凛々子が叫ぶ。

その声は、嵐の音を切り裂いた。


「無事でよかった……」


僕は、安堵の息を吐いた。


「ここは危ない、二階の調理室に行こう」


僕たちは、階段を駆け上がりながら、嵐の音を背にした。

 



***




凛々子が、調理台の引き出しから布巾を取り出し、黙って僕に差し出す。

受け取った瞬間、僕は自分の体が雨でびしょ濡れなことを思い出した。


「ありがとう」


僕は体を拭くと、スマホを取り出し、凛々子の父親に電話をかける。


「無事です。今、隣にいます」


受話口の向こうで、嗚咽が混じった声が返ってくる。


「凛々子に代わってくれへんか……」


僕はスマホをそっと渡す。

凛々子は小さく頷き、震える声で「怖かった、ごめんなさい……」と繰り返す。

涙が頬を伝い、言葉にならない返事がしばらく続いた。。


通話を終えると、僕はスマホをテーブルに置いた。


「今、お母さんが消防に連絡したから、救助が来るまでそこを動くなってさ」


凛々子はやっと安心したのか、頬に赤みが戻った。


「でも、どうして……」


凛々子は、少しだけ顔を上げて言った。


「食糧庫の在庫、確認しに行ってて……戻ったら、みんな帰った後やった」


「急いで帰ろうと思って、玄関出たら……目の前が池みたいになってて、連絡しようとしたら、スマホを水に落としてしまって……」


「それで、二階に避難してた。誰もいないし、怖くて……」


「……」


「でも、窓からグラウンド見たら、安太郎が来るのが見えて……」


僕は何も言わず、ただ彼女の隣に座る。

窓を激しく叩く嵐の音が、静かな調理室に響いていた。




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