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第四十九話 影を落とす沈黙

開店準備もいよいよ大詰めを迎え、調理室はいつも以上に熱気を帯びていた。

銀平はデザートの仕込みに没頭し、琴乃は旬の食材が書かれた仕入れ表と格闘している。

そんな中、以前なら必ず僕の作業に口を挟んできた凛々子が、ここ数日は一言も意見を言わなくなっていた。


彼女は材料表を前に、開店メニューの作成に没頭していた。

赤ペンで食材名に丸を付け、余白に小さく調理法や分量の修正を書き込みながら、ページをめくるたびに紙の擦れる音が小さく響く。

時折、眉間にしわを寄せて成分表を見比べ、何かを計算してはまた書き足す。

視線が合うこともなく、僕の鍋の中身を覗き込むこともない。

その背中は、まるで別の世界にいるみたいに遠かった。


静かでやりやすいはずなのに、なぜか落ち着かない。

以前なら「そこ、火が強すぎる」とか「味見してから次に進みや」と、ときには鬱陶しいほど口を出してきた。

それが今では、僕の存在など最初からなかったかのように沈黙している。


鍋の中でソースが静かに泡立つ音を聞きながら、胸の奥に小さな不安が芽を出す。

このまま黙っていてくれた方が、作業は予定通りに進む。

でも、何か大事なものを失っているような気がしてならない。

僕の耳には、凛々子の沈黙だけがやけに重くのしかかっていた。


――あの静けさは、ただの集中だけじゃない。


そう思った瞬間、突き放されたような寂しさが広がった。




***




僕は、開店メニューの一つ「ポルチーニ茸のクリームパスタ」を試作していた。

計量も火加減も、これまで通り。

手順を一つも外していないはずなのに、口に運んだ瞬間、舌が小さく拒んだ。


――何かが違う。


ソースは艶やかで、とろみも申し分ない。だが、立ち上るはずの濃厚な香りが弱い。

本来なら鼻腔をくすぐるはずの、森の湿った土と乾いた木の実が混ざったような香りが、淡くぼやけている。

鍋をかき混ぜながら、仕入れたポルチーニ茸の袋を手に取る。

封を切った瞬間の記憶を探るが、今朝は香りがほとんど立たなかった。

一片を口に含み、ゆっくり噛みしめる。

舌に広がるはずの深い旨味は浅く、後味もすぐに消えていく。


「素材の味は日によって変わる。だから味見は欠かせない」


不意に、凛々子の声が頭の奥で響いた。

あの時は、少し大げさだと思っていた。

レシピ通りに作れば、同じ味になるはずだと信じていたからだ。

けれど今、その言葉がやけに重く胸に沈む。


もし彼女がそばにいたら、きっと一口でこの変化を見抜き、どう補えばいいか迷いなく答えを出しただろう。

だが今は、その意見を直接聞くこともできない。

調理室の隅でメニュー表に向かう背中は、僕の方を振り向く気配すら見せない。


スプーンを置き、深く息を吐く。

この違和感は、単なる素材の問題だけじゃない。

僕と凛々子の間にできた距離が、料理の中にも影を落としているような気がしてならなかった。




***




皿の上には、艶やかな赤ワインソースをまとった鴨のロースト。

開店メニューのメインディッシュとなる料理だ。


隣には、銀平が焼き上げた洋梨のタルトが控えている。

どちらも見事な出来栄えで、香りだけでも食欲をそそった。


まずは鴨を一口。しっとりとした肉質に、ソースの深い酸味と甘みが絡み合う。

次にタルトを口に運ぶと、洋梨のみずみずしさとアーモンドクリームの香ばしさが広がった。

単体では完璧だ。だが、続けて味わえば互いの個性が衝突し、余韻が乱れる。

鴨の濃厚さがタルトの繊細な甘みを押し流し、タルトの果実感が鴨の余韻を断ち切ってしまう。


――こういう時、凛々子ならどうするだろう。


頭の中で彼女の声を探すが、すぐには浮かばない。

視線を送っても、彼女はメニュー表に目を落としたまま、ペン先を走らせている。

声をかければ、きっと的確な答えが返ってくる。

それでも、足がそちらへ向かない。


僕の胸のざわつきとは裏腹に、調理室は和やかだった。

銀平は「タルト、もうちょい焼き色つけた方が映えるかな」と笑い、琴乃は和食の開店メニューである秋鮭の朴葉味噌焼きを仕上げている。

澪は、二人の料理を、かわいいイラスト入りのメニューブックにまとめている。

その空気の中で、僕だけが焦りと迷いを抱えていた。


このままでは、開店メニューは形だけの完成になる。

味の流れや全体の調和を整えるために、誰かの視点が必要だ。


その「誰か」が凛々子であることは、分かりきっているのに――。


僕は、鴨のローストとタルトを見つめることしかできず、ただ、立ち尽くしていた。


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