表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/52

第四十八話 広がる亀裂

ふと、新人の一人がこちらを見ているのに気づく。

僕と凛々子の間で、困ったように視線を泳がせている。

落ち着かなく布巾をいじる手が、僕の胸の奥の不安をさらに広げた。


「おーい、お二人さん。そんな顔してたら料理がしょっぱくなっちゃうぞ」


銀平の明るい声に、新人たちが小さく笑い、琴乃も苦笑する。

だが僕と凛々子は、視線を合わせないまま指導を終えた。


解散の声がかかり、皆が調理室を後にする中、僕は一人歩きながら考える。


――間違っているのは、僕の方なのか?


凛々子との距離がほんの少し遠のいた感覚が、静かに残っていた。

その日の夜。僕はベッドの中で今日のことを思い出す。


少し、凛々子に言い過ぎたかもしれない。

でも、実家の定食屋を手伝っていたとき、お店は、時間との戦いだと嫌というほど知った。

実家では、手順さえ間違えなければ、味は保証できる――僕はそうやってきた。


――コンテストなら凛々子のやり方だけど、お店は僕の方が分かってる。


ふと、春巻副部長の姿が脳裏に浮かぶ。

自由奔放な凛々子を相手に、よく口喧嘩をしながらも、最終的には自然に自分の方へと誘導していた。

強引さはなく、むしろ相手が「自分でそう決めた」と思えるような運び方だった。


――とりあえず好きにやらして、後で、しっかりフォローすれば……


このところぎくしゃくしている凛々子との関係を修復するためにも、あのやり方を試してみよう。


次の日の部活で、凛々子の手が空いているタイミングを見計らって声をかけた。


「なあ、よく考えたら凛々子のやり方が正しいかなって」


角が立たないように言ったはずだったが、その言葉がどう響くかまでは考えていなかった。


「どういう意味や? ほんまにそう思ってるんか?」


凛々子は眉をわずかに吊り上げ、じっと僕を見た。


「……だから、まずは凛々子の思い通りにやってよ」


「それで?」


「その後で、何かあったら僕がフォローするから。春巻副部長みたいに」


「安太郎、あんたは何にも分かってへん!」


布巾を握る手に力がこもり、声が一段高くなる。

凛々子が突然、怒り出した。


――今、凛々子の地雷踏んだ?!


僕には、何が何だか分からなかった。




***




凛々子の口元がきゅっと引き締まった。


「なんであの人の名前がでてくるん?」


低く抑えた声に、怒りの色がにじんでいる。


――えっ? なんでそんな反応になるんだ。


「だって、春巻副部長と凛々子はうまく――」


慌てて説明しようとした僕の言葉を、凛々子がぴしゃりと遮った。


「安太郎は安太郎のままでええ。それに、あの人は料理も味覚も一流や。安太郎には真似できへん」


その一言が、胸の奥に鋭く突き刺さる。


“味覚も一流”――それは僕がずっと気にしてきた、自分の弱点だった。


実家の定食屋でも、父や母に「味見はまだ」と言われてきた。

だからこそ、包丁さばきを磨いてきたのに。


頭の中で何かがぷつんと切れた。


「それは、僕が味覚音痴ってこと?」


「そっ、そうや」


「でも、凛々子だって料理できないじゃないか!」


言った瞬間、しまったと思った。

凛々子の目が見開かれ、次の瞬間には氷のように冷たい視線に変わる。

口から出た言葉は、もう取り戻せない。

調理室の空気が、じわりと重く沈んでいくのを肌で感じた。




***




言葉をぶつけ合った直後、僕と凛々子は同時に視線をそらした。

鍋の湯気が間に立ちこめ、互いの表情を隠してくれるのが、今はありがたかった。

沈黙が落ちる。換気扇の低い唸りと、遠くで包丁がまな板を叩く音だけが響く。


「まあまあ、二人とも落ち着いて」


澪が慌てたように間に入り、僕と凛々子を交互に見やった。

その声も、重くなった空気を和らげることはできなかった。


銀平がちらりとこちらを見て、琴乃と視線を交わす。

二人とも何か言いたげだったが、結局口をつぐんだまま作業に戻った。

僕も凛々子も、意地を張って口を開かない。

今、何か言わなければ、さらに溝が深まると分かっているのに、素直になることもできなかった。


僕は、黙って作業を再開した。

包丁の音、鍋をかき混ぜる音、食器の触れ合う音――それらが淡々と続く。

手元のまな板に視線を落としながら、胸の奥で小さくつぶやく。


――言いすぎた。完全にやってしまった。


きっと凛々子も同じだ。

彼女はスープをすくって味見皿に移す。意識を集中させているように見える。

その横顔からは、さっきの怒りがまだ消えていないのが分かった。


表面上は作業を続けている。

だが、僕と凛々子の間には、はっきりとした溝ができてしまった。

その冷たい感覚は、僕たちの間だけでなく、調理室全体の空気にも影を落としていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ