第三十五話 味よりも大切なもの
鷲尾マスターが、僕の方を見て、にこっと笑った。
「作ってみたいの?」
「いえ、あっ……はい」
思わず口をついて出た。
マスターが、くすっと笑う。
「どっち?」
「作りたいです」
今度は、はっきりと答えた。
マスターは少しだけ考えてから言った。
「今日、閉店後、時間ある?」
「大丈夫です」
「じゃあ、お店上がってからやってみよう。お店で出せるかは、それから決めるよ」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
レシピの調査のことは、すっかり忘れ、ただ、作りたかった。
閉店の時間が近づくと、店内には、少しずつ静けさが戻ってきた。
キャストの女の子たちは片付けを終えると、それぞれの帰り支度を始めた。
メイド服から、セーラーに戻った凛々子が、僕の方へ歩いてくる。
「がんばってな」
レシピの調査のことが、ふと頭をよぎる。
――美味が丘のレシピと違うところを探せばいいんだ。
そうしたら、盗用じゃないって言える。
いつの間にか、盗用でないことを祈っていた。
***
キッチンで待っていると、鷲尾マスターが入ってきた。
「売り上げのチェックしてて、ちょっと遅くなった。ごめんね」
そう言いながら、手に持っていた冊子を僕に差し出す。
「これ、レシピ」
「えっ……あるんですか、レシピ?」
マスターが、僕の反応に少し驚いたようだ。
「ないと思ってたの?」
「……」
「澪が書いてくれたんだよ。あの子、レシピを書くのが趣味らしいんだ。ちょっと変わってるよね」
レシピはないと思って調べていた――なんて、言えるはずもなかった。
僕は言葉に詰まったまま、ノートを開いた。
手順、ポイント、注意点の入れ方――どれも、美味が丘のレシピの書き方と、そっくりだった。
――こんなこと、あるんだろうか。
偶然? それとも――澪が、美味が丘のレシピを盗んだ?
そんなはずはない。けれど……。
頭の中で疑念が、ぐるぐると渦を巻き始めた。
キッチンの静けさが、余計にその疑念を深くする。
「レシピの手順通りに作れば大丈夫。分からないところがあれば、いつでも聞いて。二人分作って、後で一緒に食べよう」
鷲尾マスターがそう言って、僕の肩を軽く叩いた。
「分かりました」
僕は頷き、レシピノートを脇に置いて、料理に取りかかった。
材料を並べ、手順を確認しながら、ひとつひとつ丁寧に進めていく。
火加減、タイミング、香りの立ち方……
澪のことはすっかり頭から離れて、ただ、目の前の料理に没頭していた。
ロイヤル・ルージュチキンが焼き上がる頃、マスターがアイスカップを持ってキッチンに入ってきた。
「ミックスベリーのコンポート・バニラアイス添え。カウンターで作ってたんだ」
そのカップの上には艶やかなベリーと、ふんわりと溶けかけたアイスが並んでいた。
マスターがキッチンから出て行ったことにさえ、まったく気づいていなかった。
それほどまでに料理に没頭していたのだ。
***
出来上がったロイヤル・ルージュチキンを前に、マスターが楽しそうに言った。
「ちょうど夕食どきになったね」
僕は、少し緊張しながら皿を差し出す。
マスターが一口食べて、目を丸くした。
「すごい……おいしいよ、僕より上手かも」
笑いながらそう言われて、思わず顔がほころぶ。
お世辞でも、やっぱりうれしい。
「これは、ちゃんとしたレシピがあったからです」
「それを聞いたら澪くんも喜ぶと思うよ」
その言葉に、少し、複雑な気持ちになる。
マスターが、ナイフでチキンを切りながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、安太郎くん、自分は味覚音痴だって言ってたよね」
「はい……」
自信なく答えると、マスターは首を振った。
「でも、全然そんなことないよ。そんなに気にすることないと思うよ。
そりゃあ、凛々子くんみたいなのがそばにいれば、誰だって"自分は味覚音痴"って思っちゃうよ」
その言葉に、僕は少しだけ救われた気がした。
マスターは、ロイヤル・ルージュチキンを食べ終え、ミックスベリーのコンポート・バニラアイス添えをスプーンですくいながら言った。
「料理ってさ、味も大事だけど、もっと大切なものがあると思うんだ」
僕はスプーンを手にしながら、マスターの顔を見た。
「なんですか?」
マスターは少し照れくさそうに笑う。
「誰が誰のために作ったか、とかさ。
『料理は愛情』、なんてキザなことは言えないけど……でも、そういうのってあると思うんだよね。
例えばさ、好きな子の料理だったら、まずくてもちゃんと残さず食べるだろ?」
僕は、アイスの白にベリーの赤が滲むのを見つめながら、昔、凛々子が作ってくれたおむすびを思い出していた。
形はいびつで、崩れているところあった。正直、味もイマイチだった。
でも、全部食べた。残さずに。
マスターの言葉に、僕は小さくうなずいた。
「それからね、誰と食べるかも大事。好きな子と食べると、やっぱりおいしいしね」
「確かに……」
「それで、この店を開いたんだ。僕の料理を、キャストの子たちがカバーしてくれてる。 味だけじゃなくて、雰囲気とか、空気とか、そういうのも含めてね」
マスターの声には、ほんのり熱がこもっていた。
ふと想像してしまう。
メイド姿の凛々子と、向かい合ってコンポート・バニラアイス添えを食べるところ。
彼女が笑いながらスプーンを差し出してくれる。そんな光景。
気づけば、ひとりで赤くなっていた。
それを見たマスターが、ニヤリと笑う。
「あっ、今、凛々子くんのこと考えてたな」
「ち、違います!」
僕は、ますます赤くなる。
スプーンを持つ手がぎこちなくなって、アイスが少し溶けていく。
マスターの笑い声が、夜の店内にやさしく響いていた。




