第三十三話 重なる勘違い
アルバイト二日目。
キッチンの奥から、鷲尾マスターの声が響いた。
「凛々子くん、ちょっと来てくれる?」
フロアで接客していた凛々子が、ちらっと振り返って、キッチンへと入ってくる。
「ちょっとこれ、見て」
そう言って、マスターは“ご主人様のためのロイヤル・ルージュチキン”の煮汁をすくい、肉の切れ端と一緒に小皿に移して凛々子に差し出す。
凛々子は一口食べて、すぐに答えた。
「ようできてるやん。普通においしい」
マスターは、眉をほんの少しだけ下げて言った。
「そうか……普通にか」
その声には、わずかな残念そうな響きがあった。
マスターは湯気の立ちのぼった圧力鍋の中からチキンを皿に盛り付ける。
「じゃ、これ。お客さんにお出しして」
凛々子が皿を受け取ったそのとき――
「凛々子、お客様がお待ちよ! 早くして」
フロアから、るなさんの声が飛んできた。
苛立ちを含んだ声だった。
凛々子は小さくため息をついて、皿を持ったままキッチンを出ていった。
***
「安太郎~、お絵描きドリンク、一つ!」
フロアから、凛々子の声が響いた。
「ちょっと行ってきます」
僕はキッチンを出て、カウンターに入る。
マスターの手伝いのほかに、キャストが忙しいときのドリンク担当も僕の仕事だ。
「えっと~、お絵描きドリンクって?」
凛々子に声をかけると、振り返って答えた。
「ミルクラテで」
僕は手早くミルクラテを淹れ、泡をふんわりと仕上げる。
チョコソースのチューブを添えて、凛々子のテーブルへ向かった。
「凛々子ちゃん、キティちゃん描いてよ」
お客さんが、楽しそうに催促する。
凛々子はチョコソースを受け取り、ラテの泡に不器用な手つきで絵を描き始めた。
ひげが長すぎて、耳が妙に尖っていて、正体不明の謎の生物が完成する。
「何これ、カニ? 凛々子ちゃんって画伯だね~!」
「嫌なら、飲まんでもええで」
凛々子は唇を尖らせて、差し出したミルクラテを引っ込めた。
お客さんが、慌てて手を伸ばす。
「ごめん、もう、笑いませんから!」
ようやくミルクラテを渡してもらい、ホッとしたように一口すすった。
凛々子は、すっかり接客に慣れていた。
慣れたというより――お客さんを手玉に取ってるようだった。
***
「ちょっと~、来てくれる?」
キッチンからまた、マスターの呼ぶ声がする。
「私、行きまーす」
るなさんが、キッチンに入っていくが――
「凛々子に来て欲しいんだって」
不満そうに凛々子に告げる。
「えっ、また? もう、人使いが荒いなあ」
めんどうくさそうにキッチンに入るその背中を、るなさんが、じっと睨みつけていた。
そう言えば、るなさんは、凛々子が戻ってくるのが遅いと決まって呼び戻す。
「凛々子、そろそろ戻ってきてくれる? お客さんの食器、まだ片付いてないよ」
その声には、明らかに棘が立っていた。
「あっ、すみません。僕が行きます」
「いいわよ、凛々子にやらせれば!」
そう言われながらも、食器を戻し洗う。
食器なんて、手の空いてる人が戻すのが当たり前だろ――とか思いながら。
ドリンクを下げにカウンターへ来た澪に、僕は小声で耳打ちする。
「るなさん、なんか凛々子に怒ってる?」
澪は一瞬、目を泳がせてから、
「しっ……その話は後で、ゆっくりね」と言って、思わせぶりにウィンクした。
バイト終了後、僕と凛々子、澪の三人で駅へ向かう。
夜風が、ほんのり涼しさを帯びていた。
澪がぽつりと話し始める。
「実はね、るなさん、マスターのことが好きらしいのよ」
「えっ、本当?」
僕が驚いて聞き返すと、澪は頷いて言った。
「たぶん、私の勘だけど……絶対そうだと思う」
澪の観察眼は鋭い。彼女がそう言うなら、きっと間違いない。
――それで、凛々子とマスターが仲良くしてると機嫌が悪いのか。
僕は、妙に腑に落ちてしまった。
凛々子は、まるで他人事のようだった。
駅に着くと、澪がホームの階段へ向かいながら言った。
「じゃ、あしたもよろしくね」
僕と凛々子は、反対側のホームへ向かう。
電車の音が遠くから近づいてくる。
そのとき、凛々子がぽつりと口を開いた。
「なあ、安太郎。るなさんがマスターが好きやと、何であたしにきつくなるんや」
――えっ、それって説明必要?
一瞬、言葉に詰まる。
「その、なんて言うか……やっぱり、るなさんとは、やりにくい?」
「ううん、二人に言われて、そうやったんかって感じや」
「じゃあ、意地悪されてるって思ってなかったの?」
「邪魔はされてるかなって……あ、そうか! あたしのこと、感づかれたのかも」
――あたしのことって?
まさか、凛々子もマスターのことが好きなのか――それって、三角……いや、四角関係!
急に胸がざわつく。
「るなさんに、あたしがレシピのことを調べてるのを感づかれたのかも。
それで邪魔してきたんとちゃうか。気をつけんとな」
少し深刻めいた口調だった。
――ふう、安心した。いや、安心してる場合じゃない。
るなさんのこと、ちゃんと説明すべきなのか。
でも、凛々子が気にしてないのなら、妙に騒ぐのも変な気がする。
「……うん……気をつけるよ」
僕は言葉を濁した。




