第三十二話 ワインより粋な一杯
テーブルを挟んで、男の客と凛々子がにらみ合っていた。
凛々子は一歩も引かず、じっと相手を見据えている。
その横で、るなさんが怯えたように震えている。
マスターがカウンターから出ようとしたその瞬間――
澪がすっと間に割って入っていった。
「どうされましたか?」
声は落ち着いていて、澪の表情も揺らいでいない。
男の客が、興奮気味に言う。
「ワイン持ってこいって言ったら、ありませんとか言うからよ!」
澪は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「すみません、うちは“喫茶店営業”っていう許可でやってるので、アルコールは出せないんです」
その口調は、この前のオタク風の二人連れに対する軽快な接客とはまるで違っていた。言葉を慎重に選び、声を落ち着かせている。
軽快さとは打って変わり、静かな威厳を帯びていた。
「喫茶店営業、なんだそれ?」
「お酒を出せないお店なんです、申し訳ありません。ワインほどではありませんが、お料理に合うものをご用意できますが、いかがですか?」
澪はそう言って、ほほ笑んだ。
男は眉をひそめる。
「ワインの代わりだと?」
「はい」
「なんだ、それ?」
「少々、お待ちください」
***
澪は静かにカウンターへ戻ると、赤いボトルとワイングラスを四つ、丁寧にトレーに並べて持ってきた。
グラスに赤い液体を注ぎながら、澪は微笑む。
「お客様、こちらをお試しください」
男の客にグラスを渡す。そして、るなさんにも、凛々子にも、均等にグラスを手渡した。
凛々子が一口飲んで、すぐに言い当てる。
「トラウベンモスト。ワインにする前のぶどうの原液やな。それをワインビネガーと炭酸で割ってる」
「すごい……どうしてわかったん?」
澪は目を見開いて、驚いたように言った。
凛々子は肩をすくめただけだったが、その表情には少し誇らしげな色があった。
澪は男の客の方を向き、静かに微笑みを深める。
「ワインも素敵ですが、こちらもなかなか粋でしょう。お客様のような通の方にぴったりです」
「通……まあな」
「それに、これなら私たちも一緒にいただけますから」
澪が男に向かってウィンクを投げる。
男は少し照れたような表情を浮かべながら、グラスをぐいっと飲み干した。
「……うまいな、これ」
澪は軽く会釈して――
「ありがとうございます。では、みんなの分はお客様からのご馳走ということで、よろしいですか?」
と言うと、るなさんと凛々子を席につかせ、空いているグラスにトラウベンモストを注いだ。
男は少し照れくさそうに、口をとがらせて言った。
「しゃーねえな」
空気が一気に和らいだ。
さっきまでの緊張が嘘のように、笑い声がぽつり、ぽつりと漏れ始める。
マスターは、ほっとしたように僕の肩をポンと叩いて、キッチンへと戻った。
店内には、ぶどうの香りと、静かな安心感が漂っていた。
***
バイトの終了時間。
鷲尾マスターが、カウンターの奥から声をかけた。
「凛々子くん、安太郎くん、お疲れさん。今日はもう上がっていいよ」
「初日から大変だったね」
澪の声に、ホッとして答える。
「うん、どっと疲れた。でも、すごかったよ。あのお客さんをなだめるなんて」
「たまたまだよ。めずらしそうな時計してたからさ、こだわり強そうだなって思って―― 凝ったものを出せば気に入るかなって思っただけ」
そう言いながら、肩をすくめて少し笑った。
謙遜していたけれど、澪の観察力と判断は確かだった。
「でもさ、凛々子の方がすごくない? トラウベンモストなんて、普通知らないって」
僕はうなずいて言った。
「凛々子は、絶対味覚保持者って呼ばれてるんだ。どんな味でも分かる」
凛々子は得意げな顔をしながらも、少しだけ照れていた。
その表情が、なんだか微笑ましくて、僕は笑いそうになる。
「マジ?――どんな味でも分かっちゃうの?」
澪の言葉は、驚きよりも、どこか不安げに聞こえた。
「それはすごいな。今度から味見は凛々子くんに頼もうか」
マスターの声に、凛々子はまた少しだけ胸を張った。
ふと、視線を感じて振り返ると― るなさんが、凛々子をじっと見ていた。
睨んでいるようにも……見えた。
――僕の思い過ごしだろうか。




