第三話 庶民には分からない味
次に、審査員たちは凛々子の席の前で足を止めた。
彼女の味覚試験の答案用紙を手にした瞬間、審査員たちの目が見開かれる。
「こ、これは……完璧すぎる」
用紙にびっしりと記されていたのは、スープに使われたすべての食材とその分量。
しかもムール貝の産地や、隠し味に使われていた醤油の銘柄にまで及んでいた。
「料理の手順まで書いてあるじゃないか。しかも正確だ。これはもう、レシピ本だぞ!」
「答案じゃない、もはや再現マニュアル。まるで厨房で見ていたかのようだ!」
審査員たちがざわつき、何人かは思わず拍手をしてしまう。
僕は息を呑んだ。……やっぱり、凛々子は別格だ。
彼女は鼻をぷくっと膨らませ、得意げに胸を張る。
まるで「ほら、見てみぃ」と言わんばかりに。
──すごい。
「ところで、あなたの飾り切りが見当たらないのだけど」
審査員が問うと、凛々子はさらりと答えた。
「おいしそうやったから、食べてもうた」
「食べた?」
「あれは高知県産の四葉キュウリやな。水分はやや多めで、皮は薄く、舌に甘みが残る。ちなみに糖度は五前後、切り口から香気成分が……」
「ちょっと待ちなさい! 飾り切り用の食材を食べるなんて、どういうつもりですか!」
春巻副部長が机をドンッと叩いた。
***
「まあまあ、審査員さん、そんなに心配せんでええよ」
凛々子は、悪びれる様子もなく、きっぱりと言い放った。
「心配……? 誰が、何を心配するんですか?」
けれど、彼女はすでに聞いていなかった。
腰に手を当て、堂々と話しはじめる。
「あたしは、一度食べたものは全部覚えてる――絶対味覚保持者の六味凛々子や」
その声は大きくはない。けれど、調理室全体にすっと響き渡った。
凛々子の言葉に、調理室がざわつく。
「え……あの百万人、いや、数百万人にひとりって言われている奇跡の舌の持ち主……」
「絶対味覚保持者って本当にいたの?」
「都市伝説かと思ってたわ……」
周囲からどよめきが広がる中、凛々子はさらに続けた。
「でも、料理はちょっと苦手や。それで、こっちにいるのが――」
そう言って僕の肩をポンと叩く。
「包丁の腕はピカイチの炊屋安太郎。でも――肝心の味覚が壊滅的な残念くんや」
――残念くんって、言い方。
「つまり、二人合わせれば完璧。要は、星三つ確実ってことや」
凛々子は、自信満々にそう言い切った。
***
「認められません。二人合わせて星を出すなんてルールは存在しません」
春巻副部長はぴしゃりと言い、答案を閉じた。
「でも、食材は全部当てたやん。それに、あたしの答え、材料も料理法も全部書いてある。現場より詳しいはずや」
「しかし、試験には飾り切りも含まれています。それを“食べた”など、常識を疑いますわ」
凛々子は口を尖らせ、副部長を睨む。
「それに――」
副部長の声が冷たくなる。
「あなたの絶対味覚なんて、料理には役に立たないわ」
「なんやてっ!」
「証明してあげましょう。誰か、冷蔵庫にある“あれ”を」
呼ばれた審査員が、密封された銀の容器を運んでくる。
副部長は蓋を外し、挑むように言った。
「これが何か、当ててみなさい」
銀の皿に盛られていたのは、赤茶色の艶を放つペースト状の塊。
凛々子は迷いなく一口含んだ。
だが、次の瞬間――表情が止まる。
「……あん肝? じゃない。けど、それに近い。レバー系? でもクセがない。なめらかで、香りも上品……舌で溶けて、脂の甘さが……」
彼女の声がかすれ、言葉が途切れた。
今まで一度も見せたことのない――迷い。
僕の胸がざわつく。
――まさか、凛々子が分からないなんて。
副部長が冷たく告げた。
「これはフランス産の最高級フォアグラ。あなたのような庶民が口にする機会など、一生ないでしょう。つまり――絶対味覚なんて、知らない味の前では無力なのよ」
「……ぐ、ぐっ」
凛々子の顔が悔しさに歪んだ。