第二十六話 湯葉椀勝負の行方
料理対決の日。
僕と琴乃さんは、ある決心を胸に秘め、厨房へ向かった。
――料理には真摯に向き合え。
湯鍋の前で、鷹爪部長のあの言葉をもう一度胸の中で繰り返す。
何も考えるな。料理に集中しろ──。
僕は豆乳を火にかけ、隣で琴乃さんが鰹節を削り出す。
やがて料理を仕上げ、この前と同じ広間へ入った。
あの時と同じ顔ぶれが、すでに揃っている。
静かな緊張が漂う中、まず最初に、栄介と凛々子が作った椀が配られた。
湯気がゆらゆらと立ちのぼる器を前に、鷹爪部長が箸を取る。
一口、口に運ぶと──
「……これは、まさに雪月花の味だ」
部長は目を閉じ、いつものように食レポを始める。
「春の香りが鼻をくすぐり、夏の余韻が舌に残る。秋の深みが広がり、冬の静けさが──」
「部長、それくらいにしておきましょう」
春巻部長が苦笑しながらたしなめる。
鷹爪部長は、ばつが悪そうに咳払いをして箸を置いた。
大女将も静かに椀を手に取る。
「……たしかに。これは、雪月花の味そのものですね」
場が静まり返る。
大女将は椀を置き、ゆっくりと口を開いた。
「この味は、まだ栄介には無理や。──凛々子さん、味見、しはりましたか?」
凛々子は少し首を傾げ、悪びれずに答える。
「えへっ、バレましたか」
僕を見て、得意げに笑った。
凛々子なら、雪月花の味を完璧に再現しているはずだ。
──負けた。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと冷たくなった。
***
大女将は、凛々子の方へ向き直した。
「凛々子さん──伝統を、勘違いしてはいけまへん」
その声は、静かでありながら、芯のある響きだった。
「同じものを作るのなら、少し練習すれば誰にでもできます。
けれど、残すところは残し、変えるところは変えることで……伝統は受け継がれていくんです」
「……」
「真似している間は、真の料理人とは言わしまへん」
場が、しんと静まり返る。
凛々子は、少しだけ目を伏せ、それから背筋を伸ばした。
「……はい」
その返事は、素直で、まっすぐだった。
大女将は、今度は栄介の方へ向き直る。
「栄介──あんたは、何と勝負してたんや?」
声は穏やかだったが、その奥に揺るぎない意志が感じられた。
少しだけ声を低くして、言葉を続ける。
「勝負にこだわりすぎて、料理人として一番大事な──自分の舌を信じへんなんて。 そんなこと、絶対あってはなりまへん」
栄介は、悔しそうに下を向き、唇を噛んだ。
膝の上に置かれた手が、わずかに震えている。
その姿を見ながら、僕は拳をぐっと握った。
大女将の言葉は、栄介だけに向けられたものじゃない。
***
「さて──次は、こっちどすな」
大女将は、僕と琴乃さんの作った椀をそっと持ち上げた。
蓋を開けた瞬間、湯気が立たないことに、わずかに眉を上げる。
「……冷製、どすか?」
僕は緊張を押し隠しながら答えた。
「はい。大女将さん、喉を傷めているようでしたので……
熱いより、こちらの方が飲みやすいかと思いまして」
しばらく僕の顔を見つめていた大女将は、ふっと目を細めた。
「──それは、おおきにさん」
そして、椀に口をつける。
ひと口飲んだあと、静かに間を置き、ゆっくりと口を開いた。
「……味は、そこそこやけどな」
僕と琴乃さんは、思わず背筋を伸ばす。
「せやけど──料理人にとって一番大切なこと。
食べる人への心遣いは、ちゃんと感じさせてもらいました」
そう言って、微笑む。
その笑みは、厳しさの奥に確かな温かみを宿していた。
「──でもな。柚子を金柑にするのは、やりすぎどす」
その一言に、場がふっと緩む。
凛々子が肩を震わせ、笑いをこらえる。
僕も、つられて苦笑した。
やがて広間に、やわらかな笑い声が広がっていく。
その笑いの中に、ほんの少しだけ、救われた気がした。




