第二十四話 湯気の向こう側
厨房の隅を借りて、琴乃さんに湯葉の作り方を教えてもらう。
「お豆腐屋さんから買ってくるところもあるけど、うちでは豆乳から作ってます」
そう言って、琴乃さんは湯鍋の前に立った。
豆乳の表面に、湯気とともに薄い膜が静かに広がっていく。
それを、竹串でそっと汲み上げる。
動きに一切の無駄がなく、まるで舞を見ているようだった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
見よう見まねでやってみるが、膜はすぐに破れたり、うまくすくえなかったり。
何度やっても、まともな形にならない。
「へたくそ」
背後から、栄介の声が飛んできた。
思わず手を止め、振り返ると、腕を組んでニヤついている。
「お前は自分の仕事をしろ!」
二番板を任されている栄介の父親が、鋭く叱った。
栄介は舌打ちし、慌てて持ち場に戻っていく。
「すんません、お嬢さん。あいつ、まだ、あのことを諦めきれんで……」
「……」
「わしから、よう言い聞かせますよってに、堪忍してください」
栄介の父親は、そう言って深々と頭を下げた。
琴乃さんは、首を振る。
「かましまへん」
――あのことって、いったい?
***
「椀物のお出汁ですけど、京風は薄味どす」
湯気越しに、琴乃さんの声がやさしく響いた。
その声音は、湯葉のように柔らかかった。
「安太郎さん、作ったことありますか?」
僕は、少しだけ間を置いてから答えた。
「……作ったことは、あります」
けれど、最後の味見はいつも凛々子にしてもらっている。
それを口にするのが、なぜかためらわれた。
琴乃さんは、僕の言葉の奥を見抜いたように、ふっと微笑む。
「お味見は、うちがさしてもらいます」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなり、思わず息をゆっくり吐いた。
言葉にしなくても、伝わるものがあるのだと思った。
僕は、朝食に出された湯葉の椀物を思い出しながら、なんとか手を動かす。
昆布と鰹の出汁に、薄口醤油と酒をほんの少し。
それを湯葉の椀に張り、ゆずを添える。
「味は、どうですか?」
琴乃さんは、箸先で湯葉をすくい、口に運んだ。
しばらく目を閉じて、味を確かめる。
「……もう少し、うすい方がええかもしれません」
僕は軽く笑みを浮かべ、うなずいて鍋に向き直る。
出汁を少し引き直し、醤油を控えめに。
湯葉がふわりと浮かぶよう、そっと出汁を注ぐ。
琴乃さんの助言が、僕の手を導いてくれるようだった。
***
厨房の隅で湯葉の鍋を火から下ろしたところで、琴乃さんが盆に湯呑みを二つ載せて戻ってきた。
「少し休憩しましょう」
「ありがとうございます」
湯呑みから香ばしいお茶の香りが立っている。
「さすがは安太郎さん。もう、ちゃんと湯葉を汲み上げられるようになるなんて……やっぱりすごいです」
僕は手を拭きながら、少しだけ首を振った。
「いや、まだまだです。少し気を抜くだけで、すぐに破れてしまいます。繊細で、気まぐれで……僕にはまだ、扱いきれないです」
琴乃さんは湯呑みに口をつけながら、僕の顔を見た。
「あの〜、ちょっと聞いてもいいですか」
「何を……ですか?」
「えっと、その……凛々子さんとは?」
僕は、鍋の湯気を見つめながら答えた。
「あいつ、中学生のときに大阪から転校してきて……それで、知り合いました」
「あっ、その……関係とか……」
「えっ?違いました?」
「いえ、いいです。聞きたいです。続けてください」
「最初は、うちの食堂に来てくれて。定食を食べながら、食材を全部言い当てたんです。出汁の種類まで。びっくりでした」
「やっぱり、すごいですね……凛々子さん」
「それから、ちょくちょく話すようになって。同じ美味が丘学園を目指してるって知って……一緒に受験勉強、頑張るようになったんです」
言いながら、なんだか懐かしくて、少しだけ口元が緩んでしまった。
そんな僕を見て、琴乃さんがぽつりとつぶやく。
「……凛々子さんの話をしてるときの安太郎さん、楽しそうです」
はっとして、思わず顔が熱くなるのを感じた。
「え、いや……そんなこと……」
はっきり言えずに言葉を曖昧にした僕に、琴乃さんは湯呑みを見つめながら、静かに言った。
「うちも……あんなふうに、何でも言えたらいいのに」
その声は、湯気の向こうに溶けていくように静かだった。
何か言おうとして、でも言葉が見つからなくて、ただそっと彼女の隣に座っていた。




