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第二十二話 初めての椀物

客間に戻ると、僕は呆然として座り込んだ。

頭の中が真っ白で、何から考えればいいのかもわからなかった。


昨晩からの寝不足のせいか、急に睡魔が襲ってきた。

どれくらい眠ったのだろう。今までのことが夢のように思える。


うとうとしていると、障子の向こうから声がした。


「お食事の準備ができました」


「失礼します」と、障子を静かに開けて中居さんが入ってくる。

膳を抱えた腕は安定していて、足音は畳の上をすべるように静かだ。

そういえば、朝から何も食べていない。

飾り包丁の緊張と、勝負の宣言と、女将さんの言葉──

気づけば、胃の中は空っぽだった。


「こちらに置かせていただきますね」


中居さんは膳を丁寧に並べていく。


僕は膳の前に正座し、そっと箸を手に取った。

目の前には、小鉢に盛られた季節の野菜、焼き魚、香の物。

そして、汁椀。


湯気がふわりと立ちのぼる。

その香りだけで、心が少し落ち着いた。


箸を入れると、薄く柔らかな膜が揺れた。

その上に、細く削った柚子の皮が添えられている。

出汁の香りに、柚子の爽やかさが重なって──


僕はひと口、口に含む。

そして、目を閉じた。

舌の上で静かにほどけていく。

出汁は澄んでいるのに、深くて、優しい。


……なんだ、この料理は。


味に鈍い僕でさえ、これが特別なものだとすぐにわかった。

この椀物に、心を奪われた。


不安も、緊張も、勝負のことも──

そのときだけは、すべて忘れていた。




***




食事が終わるころを見計らって、中居さんが膳を下げに来た。


「お口に合いましたでしょうか?」


そう言って、丁寧に器をひとつずつ静かに片付けていく。


僕は、汁椀を見つめながら、思わず声をかけた。


「あの……この椀物、すごく美味しかったです。あれって、何なんですか?」


中居さんは手を止め、少し驚いたように僕を見た。


「湯葉椀どすか。豆乳を加熱したときに、表面にできる薄い膜なんです。

 このあたりでは昔からよく使われていて──名物なんですよ」


湯葉。

僕は、初めてその名前を聞いた気がした。

豆腐の香りがするのに、食感も見た目もまるで違う。

あれが、豆乳からできているなんて。


「……そうなんですね。知りませんでした」


中居さんは、にこやかにうなずき、残りの器を片付けていった。

すべての膳が下げられたあと、もう一度深く頭を下げる。


「皆様がお待ちどす。昨日の広間へご案内いたします」


僕は、少しだけ深呼吸をして立ち上がった。

湯葉の余韻が、まだ口の中に残っていた。


案内されたのは、昨日と同じ部屋。


大女将、笙子さん、宗一さん、そして琴乃さん。

僕は琴乃さんの隣に座るよう促された。

昨日とまるで同じ光景──


一つだけ違ったのは、少し離れた場所に栄介がいたことだ。

腕を組み、無言のままこちらを見ている。

目が合った瞬間、その視線の鋭さに、僕は思わず目を逸らした。


再び中居さんが部屋に入り、大女将の耳元に何かをそっと囁く。


「お連れしなさい」


大女将が、静かに言った。


上座に座布団が三つ並べられ、大女将は入り口の前に移る。


――誰か、すごい人が来るのだろうか。


「そうしましたら、お連れいたします」


中居さんが頭を下げ、部屋を出ていく。


数分後、障子が開いた。


大女将が深々とお辞儀をする。

それに倣い、僕たちもお辞儀をした。

頭を上げると──


そこにいたのは、鷹爪部長と春巻副部長。

その後ろには、凛々子の姿もあった。


――え?


僕の混乱は、頂点に達した。

何がどうなっているんだ。

なぜ、凛々子がここに?


また、頭がぐるぐると回り始めた。




***




上座に座った鷹爪部長が、静かに口を開いた。


「久しぶりです。大女将さん」


その声は、普段の部長よりもわずかに柔らかく、礼を尽くす響きがあった。

続いて春巻副部長が、深々と頭を下げながら言う。


「こんにちは。お世話になります」


凛々子も慌てて、ぎこちなく頭を下げた。

彼女らしくないほど、動きが硬い。


大女将は、微笑みながら部長に目を向けた。


「お久しぶりです、斗真お坊ちゃま。ご入学のお祝い以来ですね」


鷹爪部長は少し照れたように笑い、手を軽く振った。


「……その呼び方は、勘弁してください。もう高校生ですから」


その言葉に、場の空気がわずかに和らいだ気がした。

部長は姿勢を正し、改めて口を開く。


「うちの部員が、日本料理を学ばせていただいているそうで……ありがとうございます」


大女将はゆっくりと頷き、静かに返す。


「わざわざ、それをおっしゃりに」


「それもありますが……」


部長が、ふと視線を凛々子に向け、口元に笑みを浮かべた。


「凛々子くんが、一人で寂しがっていてね。『私も京都に連れてけ』って聞かないもんだから、仕方なく」


「ちょ、ちょっと! そんなこと言ってへんし!」


凛々子がめずらしく慌てて手を振る。

耳まで赤く染めながら、必死に否定するその姿は、いつもの彼女らしくなかった。


春巻副部長が、涼やかな声で言葉を添える。


「凛々子さんが失礼なことをして部長に恥をかかせでもしたら大変ですので、私もついてまいりましたの。 それに……あれ以上お皿を割られては、たまりませんもの」


「そんなに割ってないし! まだ9枚だけやし!」


口をとがらせて抗議する表情は、どこか子どもっぽくて、場の空気をさらに柔らかくした。


大女将が、くすくすと笑いながら言った。


「楽しいお客さんたちやこと。うちも賑やかになりますわ」


その笑顔に、僕たちもつられて笑った。


――京都に来てから、初めて笑った気がする。


けれど、ただ一人、栄介だけは笑っていなかった。

腕を組み、鋭い視線でじっと僕を射抜いていた。


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