第二十一話 婿殿のライバル出現?
僕は雪月花の客間に案内された。
畳の香りが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
琴乃さんと並んで座っていた時間の感触が、まだ身体に残っている。
距離は近かった。けれど、心の距離は測れなかった。
――嘘の婿候補。
断る間もなく押し切られてしまった。
大女将の前で、琴乃さんの選んだ“婿候補”として座っていた。
琴乃さんたちの真剣な顔に、僕は何も言えなかった。拒否する余地なんて、最初からなかった。
明日は、腕前を見せる日だ。
婿候補として相応しいかどうか、試される。
雪月花の厨房で、僕の包丁が通用するのか。
味音痴の僕が、料亭の目利きに耐えられるのか。
考えるほどに、胃のあたりが重くなる。
それと同時に、凛々子のことが気になった。
凛々子がこの話を聞いたら、どんな顔をするだろう。
「ふーん」で済ませるかもしれない。
皿を割ったあの音が、頭から離れない。
僕は布団に入ったまま天井を見つめる。
凛々子の声が、頭の中で響いた。
「安太郎、あんた、ほんまにそれでええん?」
――ええのか、僕?
目を閉じても、眠気は訪れなかった。
***
頭の中がまとまらず、布団に入っても目が冴えていた。
気づけば外が白み始め、眠ったのかどうかも曖昧なまま朝を迎えた。
重たいまぶたをこすりながら、僕は雪月花の調理場に立った。
まだ仕込み中の静かな時間。
けれど、空気は張り詰めている。
板前たちが包丁を動かしながら、ちらりと視線を寄こす。
中居たちも食器を揃えながら、僕の手元を横目で追っていた。
その目は、どこか品定めをするようだ。
婿候補としての値打ちを、見極めようとしている。
僕は深く息を吸い、寝不足の重さを振り切るようにまな板に向かった。
きゅうり、にんじん、だいこん。
素材を並べ、飾り包丁を入れていく。
刃先が野菜の表面を滑り、花びらのような形が浮かび上がる。
にんじんの紅は椿に、きゅうりの緑は葉に、だいこんの白は雪に見えるよう工夫した。
包丁一本で、季節の情景を描き出す。
やがて、調理場のあちこちから小さな感嘆が漏れ始めた。
「ほう……」
「なかなかやるな」
「細かいとこまでよう見とる」
手を止め、できあがった飾り切りをそっと盆に並べる。
大女将が、静かに作品を見つめた。
「……まあまあの出来やな」
その言葉に、胸を撫で下ろす。
なんとか試験はクリアできた──そう思った矢先。
「飾り包丁が上手くても、料理ができんヤツは認めんぞ」
鋭い声が響き、調理場の空気が再び静まり返った。
板前たちをかき分けて、ひとりの少年が現れる。
白衣の袖をまくり上げ、髪をざっと後ろに束ねている。
切れ長の目が、まっすぐ僕を射抜いた。
挑むような、試すような──そんな色を宿している。
「そいつと俺を勝負させてください」
少年は、大女将に向かって言い放った。
「そいつと俺、どっちが琴乃さんの婿にふさわしいか──料理で決めてください」
――え?
思わず、少年の顔を見つめる。
その視線は一瞬も揺れず、僕を捉えて離さない。
「こらっ、栄介! 大女将さんに失礼やぞ! せっかく、わしが頼み込んで入れて頂いたのに」
年配の板前が慌てて声を上げ、栄介の腕を掴んで引き戻そうとした。
だが、栄介は動かない。
「お前は、まだ、そんなことを言っとるんか?」
「親父、これはあいつと俺の勝負や」
怒りを帯びた視線が、僕を真っ直ぐに射抜き続けていた。
***
「……ええよ」
大女将が、静かに口を開いた。
その声は、誰よりも落ち着いていて、誰よりも重みがあった。
「料理の腕前も見たかったから、ちょうどええ。ほんなら、明後日のお店の休みの日に腕前を見せてもらおか。安太郎さんは、よろしおすか」
「だ、大丈夫です……たぶん」
「そんなら、頼みます」
そう言って、大女将はくるりと背を向けた。
誰も言葉を返せないまま、彼女は調理場を出ていった。
僕は、包丁を置くことも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
とんでもない方向に話が進んでしまった。
婿候補の勝負?
僕が……琴乃さんのために、勝負するのか?
「なんか変なことになってしもたね」
女将さんが、そっと僕の横に立った。
そして、他の人たちに聞こえないよう、小さな声で囁く。
「栄介は、二番板の息子やねん。琴乃とは幼なじみでな。
宗一さんは初め、あの子を婿候補にって考えてはったんよ。
でも、琴乃が“自分で連れてくる”って言うたから──」
僕は、女将さんの顔を見た。
その目は、優しくて、どこか僕を励ますような色をしていた。
「私はな、引っ込み思案で、いつもは私らの言うことに逆らわん琴乃が、あんたを連れてきたことが嬉しかったんよ。
だから──安太郎さん、頑張ってな」
その言葉は、小さな声だったけれど、僕の胸に深く響いた。




