第二十話 雪月花の花婿候補
僕と琴乃さんは、大通りから少し入った、古びた町家筋の奥にある料亭の前に立っていた。
──雪月花。
京都の老舗料亭。格式、歴史、技術、そして空気。
そのすべてが、静かに息づいている場所。
門構えからして、異世界のようだった。
黒塗りの格子戸。白砂が敷かれた玄関。
控えめなのに、圧倒的な存在感がある。
「どうぞ、入ってください」
琴乃さんが門をくぐると、すぐに一人の年配の男性が現れた。
黒の羽織に白足袋。背筋はまっすぐで、動きに一切の無駄がない。
彼は琴乃さんの姿を認めると、すっと一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢さん」
その声は静かで、張り詰めていた。
まるで神前で祈るような、敬意の塊だった。
玄関で靴を揃え、静まり返った廊下を進む。
「こちらで、皆様がお待ちです」
案内されたのは、畳敷きの広間。
空気がピンと張りつめていて、息をするのもためらわれるほどだった。
部屋の奥には、三人が正座して待っていた。
白髪の上品な老婦人。
着物姿の女性。
板前風の男性。
どの人も、姿勢が美しく、場の緊張を崩さない。
「大女将、お連れしました」
大女将と呼ばれた夫人が、射すくめるような視線をこちらに向ける。
──とんでもない場違いな場所に来てしまった。
足の裏がじんわり汗ばみ、背筋を伸ばそうとしても、肩がこわばって動かない。
***
僕は琴乃さんにつられて、三人の前で正座した。
「祖母と、父と母です」
琴乃さんが静かに告げる。
老婦人が、ゆっくりと顔を上げた。
白髪はきちんと結い上げられ、着物の襟元にも乱れがない。
目元には皺が刻まれているのに、その視線は鋭い。
「南禅寺雪月花、大女将の南禅寺鈴乃でございます」
その声は、やわらかな響きの奥に確かな芯があった。
続いて、着物姿の女性が微笑む。
「琴乃の母、南禅寺笙子です。
どうぞ、ゆっくりなさってくださいね」
最後に、板前風の男性が口を開く。
「南禅寺宗一。琴乃の父です。よろしく」
「かっ、炊屋安太郎です。よろしくお願いします」
僕は、ただ深く頭を下げるしかなかった。
そして──
「あなたが、琴乃が選んだ婿候補ですか」
「……え?」
――婿……候補? 今、婿って言った?
息が止まりそうになった。いや、止まったかもしれない。
頭の中が真っ白になる。
「今日はお疲れでしょうから、ゆっくり休んでください。腕前は明日、見せてもらいます」
そう言うと、大女将は一つ、乾いた咳をした。
その音が、静まり返った部屋に小さく響く。
「少し疲れましたので、先に失礼いたします」
すっと立ち上がり、部屋を後にする大女将。
残されたのは、琴乃さんと僕、そして琴乃さんの両親だけだった。
「……えっと、琴乃さん?」
「お願い、私のお婿さんになって」
――えっ! ……ええ?
混乱が極まり、もはや頭の中は渦を巻いていた。
「ごめん、違う違う! えっと……お婿さんのふりをして!」
「ふり? ……お婿さんのふりって、どういうこと?」
ますます、わからない。
***
「……ふぅ。緊張したー」
宗一さんが膝を崩し、大きく息を吐いた。
板前らしい厳しい見た目とは裏腹に、肩の力が抜けた瞬間だった。
「宗一さん、姿勢が崩れてますえ」
笙子さんが静かにたしなめる。
宗一さんは慌てて座り直した。
「すんまへん、つい……いや、あの人の前やと、どうしても」
苦笑しながら、宗一さんが僕の方を向く。
「炊屋はん。びっくりしたやろ? 琴乃から、何も聞かされてへんかったんやな」
「ごめんなさい。言ったら来てくれないと思って……」
琴乃さんが、申し訳なさそうに僕を見つめる。
「えっと……僕は、日本料理の勉強に来たつもりなんですけど?」
「まあ、それはおいおいな……」
「……」
「実はな……大女将──鈴乃が病気で、もう長くはないって医者に言われてるんや」
その言葉に、部屋の空気がわずかに沈んだ。
そういえば、声がかすれていたのは病気のせいだったのかもしれない。
「母は、雪月花の将来を心配しています。
この店は代々、娘が有能な板前を婿に迎えて継いできました。
婿が腕を振るい、娘が店を守る──それが、うちの形どす」
笙子さんが、そっと言葉を継ぐ。
「琴乃が次の女将になることは決まっています。
でも、母は……琴乃がちゃんと“相手”を見つけられるかを気にしていて」
宗一さんが、僕をまっすぐ見た。
「ほんまやったら、こっちで用意しても良かったんやが、琴乃が“すごい人がいる”言うからな。
それやったら、その優秀な板前候補の“婿さん”を連れてきてくれって」
「それが……僕なんですか?」
「炊屋はん。琴乃もあんたの腕をよう認めてます。
せやから、協力してもらえへんやろか。
もちろん、本気で婿にならんでもかましまへん。
母を安心させるための形だけの話どす。
手術の日まででええので、お願いします」
二人が深々と頭を下げる。
横で、琴乃さんも僕の方に向き直り、頭を下げた。
僕は、何も言えなかった。
琴乃さんに認められたのは、素直にうれしい。
――でも、お婿さんのふりなんて、僕にできるのだろうか?
頭の中は、不安が渦を巻いていた。




