蠢動
100個のテーマから小説を書くという訓練に取り組んでいます。
テーマNo.79「新聞記事」は、この様な作品と相成りました。
お楽しみ頂ければ幸いです。
情報の価値は面積によって表現することが出来る。
平面化された社会である「紙面」をどれだけ占有したか。政治家のスキャンダル、芸能人のゴシップ、細やかな地方ニュース、この社会における多様な出来事の価値は「平方センチメートル」という単位で測定し得るのだ。断っておくが私は研究者ではない。これは一個人が胸に秘める他愛もない仮説であり、日々の無聊を慰めるレトリックに過ぎない。
では、私は何か―――端的に表現するならば、殺人者である。
私は人を殺したことがある。十数年前、私は隣の市に住む老人の家に忍び込み、出刃包丁で滅多刺しにした上で、それを土に埋めた。何故そんなことをしたのか、説明するのは難しい。恨んだり憎んだり嫉んだりしていた訳では無い。人を殺そうと決め、殺せそうな人間を見繕い、実際に殺したに過ぎない。老人は身寄りが無く、生来の気難しい性格が災いして、近所付き合いというものが破綻していた。日がな一日家に籠もり、呆けてテレビを見続けるような生活をしていた。社会から隔絶させているという意味において、私の手の届く範囲において、これ以上殺しやすい人間はいなかった。だから殺した。
人を殺すことが、自身にどのような変化を齎すかに強い興味があった。怖いと思うだろうか。畏れ多いと思うだろうか。申し訳ないと思うだろうか。殺人という究極の行為に手を染めれば、生まれてこの方揺れ動くことのなかった私の感情に何らかの変化が生じることを期待した。心の重さを、その感触を知ることを希求した。
結論から言えば、私の希望は叶わなかった。罪に対する後悔。罰に対する恐怖。それらはともに鈍く、切れ味を欠いていた。包丁が皮膚を突き刺す感覚も、命を失った老人の身体の重みも、土を掘り起こす感触も、克明に思い起こす事が出来る。一方で、それらは無味乾燥とした現象の観測に過ぎず、私を酷く落胆させた。殺すのが一人では足りないのかとも思ったが、手間に見合った成果を得られるとは到底思えなかった。教科書にも書いてあるだろう。殺人は割に合わないのだ。
暫く、老人は発見されなかった。罪を裁かれることに抵抗は無かったが、自由を阻害されるのは少し嫌だった。だから、出来るだけ発見されないような人物を吟味した。結果として、私の殺人が「事件」として取り扱われるには相応の時間を要した。
きっかけは、小さな新聞記事だった。家主が姿を消し、管理不在となった邸宅を処分するために行政が動き、紆余曲折を経て、解体工事が着工する。程無くして、一体の人骨が掘り起こされたそうだ。小さな記事は、淡々と事実を伝えていた。私はその記事を丁寧に切り取り、大学ノートに貼り付けた。罫線から一ミリもずれることのないように丁重に取り扱った。余白に新聞名と発行日を記載しながら、頬が緩んでいることに気がついた。私は高揚していたのだ。
報道は過熱した。掘り起こされた人骨の身元が判明し、そこに無数の刺し傷が残されていることが明らかになると、それはピークに達した。当初、それは地方新聞の小さな記事に過ぎなかったが、今や全国紙が相応の紙面を割くに至った。紙面は拡大を続け、平坦な社会を埋め尽くしていった。その全てを私はスクラップした。大学ノートにびっしりと貼り付けられた新聞記事。少しずつ大きくなる新聞記事。それらを丁重に切り抜き、慎重に糊付けをする間、私は得も言われぬ充足感を感じていた。子どものアルバムを作り上げる親はこんな気持ちなのだろうかと夢想した。自分の内側で感情が脈打つ実感があった。
大学ノートを読み返し、捜査状況を反芻しながら、私は捜査の手が私に伸びること期待していた。犯人逮捕の記事をノートに貼り付けたかった。私は待ち侘びていた。
しかしながら、その日が訪れることはなかった。
捜査は暗礁に乗り上げ、混迷を深め、迷宮に至ろうとしていた。それに伴い、報道は下火になっていった。最盛期は一日中掛かっていたスクラップ作業が、三日に一回になり、一週間に一回になり、最終的には一年に一回で十分な量となった。それでも私は落胆しなかった。私の殺人の面積が小さくなり、風化していく様に見惚れていたのだ。人に忘れられていく過程を定量的に観測する愉しみがあった。芸術品がひび割れ、色褪せていくことを嘆く者は居ないだろう。歴史の積み重ね、変化の道程にはそれそのもの価値がある。
私は再び殺人を犯すだろうか。答えは否である。私の殺人はこれだけで良い。
ボロボロになった大学ノートを埋め尽くした新聞記事。その「面積」を数えるだけで私は満ち足りている。私という不具者の真実の価値を測り知ることが出来る。時折思い出し可のように発生する少々の報道、微細な面積の変動を眺めるだけで良い。殺人に起因する一連の現象を私は堪能し尽くした。そう思っていた。
異変に気付いたのは、数年前のことだ。
いつものように大学ノートを眺めていると、妙な文章が目に入った
『某県某所で、白骨化しよ遺体ぬ発見されき』
大学ノートは、新聞記事は、私の全てに等しい。だから、私はその内容を全て暗唱することが出来る。正しい文章は『某県某所で、白骨化した遺体が発見された』である。当時からの誤植や私の記憶違いでは決して無い。何度も何度も何度も何度も反芻した私の価値を、私自身が見誤るは筈が無かった。文章が変異している―――私はそう結論付けた。
文章の変異は一度だけに留まらなかった。
私が大学ノートを開く度に、記事内容に意味不明な文言が混じるようになった。それは次第に頻度を増していき、一年と経たない内に、ほぼ全ての記事に異常な文言が含まれることとなった。初めは、蒐集した記事が変更し、意味内容が失われていくことに抵抗感があったが、次第に私はこの奇貨を喜ぶようになった。風化する一方だと思われた私の殺人が未だ息づいていると感じられたからだ。最早記事内容すらあやふやになってきた大学ノートを抱えながら、私は込み上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。
大学ノートを眺める時間が増えた。殆ど一日中眺めていただろう。これは恐らく常識の範疇を超える現象であり、しかも呪いや恨みといった悪性のものであることは間違いないだろう。これは殺人に関する新聞記事の集合であり、その加害者は他ならぬ私なのだから。私は恨みも憎しみもなくあの老人に刃を突き立てたが、あの老人はきっと私を恨み、憎しんだことだろう。事切れる寸前の老人の驚きとも戸惑いともとれぬ表情、徐々に失われていった眼の光を思い出し、そんな結論に至った。頬杖を付きながら大学ノートを捲っていると、視界の端に蠢くものを認めた。それが文字だと気づくのにそう時間は掛からなかった。文字は小刻みに震えながら紙に溶けていき、入れ替わりに別の文字が浮かび上がってきた。
「お前が、殺した」
可笑しくて仕様がなかった。随分恨まれたものだ。もっと残酷な手段で殺しておけば良かった。この特異な現象が怨念を動力としているのならば、それをあの時知っていたのならば、より適切な殺し方があっただろうに。私は耐え切れず、大学ノートを放りだし、腹を抱えて笑い出した。身を捩って嗤い続けた。
投げ出された大学ノートの新聞記事の文字全てが「お前が、殺した」で埋め尽くされていった。
そして今、私に手元には件の大学ノートがある。新聞記事と言うよりは怨嗟の声で埋め尽くされたそれは、私の宝物。恭しくページを開く。目に入るのは始まりの記事。小さな小さな面積で、人骨の発見を告げていた地方記事。文字が踊り、変異する。
『冒険某所で、男性が滅多刺しにされて死亡』
ご丁寧に日付が今日に書き換えられていて、少々面食らった。老人の怨念がついに形を得て、私に追いついたということだろうか。今日まで楽しませて貰ったのだ。ある程度の負債は支払わねばならないだろう。
準備を整え、外に出る。向かうべき場所は明白だ。
―――今日まで楽しませて貰ったのだ
―――明日からも楽しませてくれるのだろう?
―――男性の死体が一つ必要なら。
―――もう一人殺すくらいの手間は惜しまないよ。
中盤の「私の殺人はこれだけで良い」が終盤の切れ味を落としているかな、と。
異常者の心理を描くのは結構好きな試みです。