モスクワに引っ越す男
「全部捨てたんですよ。」
男は車窓の外を眺めながらそう呟いた。
目前を流れる木々は枝の先々まで凍りつき、その向こう側にはだだっ広い平野が何を主張するでもなく、真っ白な絨毯をそこに横たわらせていた。
私はサンクトペテルブルクでの旅行を終え、自宅があるモスクワへ帰るため特急列車サプサンに乗っていた。
サンクトペテルブルクからモスクワまではサプサンで約4時間。帰りの列車に乗ると楽しかった旅の思い出と早く家へ帰ってゆっくりしたい気持ちとが入り混じる。
私は車両の隅にある荷物置き場にスーツケースを置き、予約していた席に座った。
スマホを取り出し、旅行中に撮った写真を整理していると、対面の席に男が座ってきた。男は初老のようで、グレーの髪を掻き上げ後ろで結んでいる。腰も幾分か曲がっていたが、それでも身長は180cmを優に越えていた。
男が座る時、私と男は一瞬目が合った。男は何も言わずスッと席につき車窓の外に視線を移した。列車はゆっくりと、車体を揺らしながら発車した。
ロシアの冬は寒い。雪は解けることはなく、辺り一面を真っ白にする。森も平野も町も全て。その景色はどこか空虚さを湛えている。
発車して小一時間が経つと、私は小腹が空き始めた。鞄に入れていたコルバッサを取り出し一口食べると、前の男にも勧めた。
男は無愛想にコルバッサを取ると一言「ありがとうございます。」と言った。
「旅行ですか。」私は男に尋ねた。
「いや、仕事でモスクワに。」
「そうですか。住まいはサンクトペテルブルクに?」
「そうでした。」
「でした?ということは、仕事でモスクワに引っ越すんですか?」
「そんなところです。」
男は少し言葉を濁して応えた。
少しの間沈黙が辺りを包み、列車のカタンコトンと断続的な音が車内に響いた。
「私は妻と死別しましてね。」男は唐突に話し始めた。
「妻は植物が好きで、育てては部屋によく飾ってました。植木鉢やスコップやら私にはよく分からん道具まで色々揃えて部屋は妻の趣味で一杯でしたよ。」
男は話している間私と目を合わせない。ただ窓の外をぼんやりと眺めている。
「妻は脳卒中で逝ってしまったんです。私が仕事から帰ると、趣味の部屋で倒れてました。もう息はありませんでした。」
「それは、何と言いますか。すみません。辛い事を思い出させてしまったようで。」
「いえ、いいんです。私は誰かに話したかっただけです。私の人生に関係ない誰かに。」
男は尚も続けた。
「面白いものでね、妻がいなくなった後、妻の趣味の物に何も興味を持てなかった。あんなに妻が大切にしていた物なのに。植物なんて私にはどうでもいいんです。私にとって、それは妻と一緒になって初めて意味を持ったんです。植物を愛した妻が可愛くて愛しかった。そんな妻を見るのが好きだった。でもね、植物だけじゃ空っぽも同じなんです。」
「それで、植物やその道具はどうなされたんですか?」
「全部捨てたんですよ。」
私はその時初めてテーブルの上に置かれた男の手が震えているのに気がついた。私はこの男はもう長くないと悟った。
「私はもうあの部屋にはいられない。モスクワに引っ越して新しい生活を始めるんです。」
窓の外には道沿いに古いアパートがいくつか見える。そのアパートの一室からは紫の光が漏れていた。
列車はスピードを緩めながらモスクワのレニングラード駅に着こうとしている。
自分がロシアで見て感じた事を脚色しながら文にしました。