第五話 エンゲージメント
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「うっ」
部屋を出ようとした瞬間だった。
一瞬、頭がふらつくのを感じる。
それとなんだか体に力が入らない。
と、同時にお腹がグルグルとなり出した。
あーこれはあれだ。いわゆる空腹ってやつだ。
もうずいぶんと食べ物を口にしていないことに気付く。
そういえばここ数日ほど、何も食べていない。
転生してから、もう三日も経っている。
これはヤバい。
食べることを忘れるなんて、相当気を張ってたってことだよな。
そして当然、この空腹は僕だけでなく、アルテシアも同様だろう。
「ヨースケさん。だ、大丈夫ですか?」
心配そうな表情で、僕に寄りそうアルテシア。
そんな彼女の顔色を窺うと、心なしかやつれてる感が。
彼女も僕と同じく、何も口にしていないのは確か。
そんな相談もないことに、ほんの少し、寂しさも感じつつ――、
「はは。お、お腹空き過ぎて……ちょっとめまいが」
「あっ。そ、そういえば私たち、昨日も食べてませんでしたね。ごめんなさい、気が付けずに……」
「あっ、いやあ……昨日……さ。僕がお金がないって言っちゃったから……言い出し辛いよ……ね」
「えっ? あっ……そ、そんなこと……あっ! でも何か食べないと体に悪いですっ。今からどこかで――」
後ろ向きな発言をする僕に、思わずハッとするアルテシア。
食事もまともに提供出来ない、情けない主だと思われても仕方がない。
もちろん、お金の理由だけでもないけれど。
ちょっと自嘲気味になるも、彼女はあわてて否定してくれる。
そんな彼女の優しさに少し胸を痛めるも、別の懸念が口をつく。
「うん。あぁ、でもこの宿屋で食べるのは、ちょっと……ね?」
「あ」
アルテシアも気付いたようだ。
お互いに小さく苦笑する。
もちろん昨日やらかした件を、あえて話題にはせず。
「では、大広場の朝市に行きませんか? せっかく昨日、お店で教えてもらったし」
「朝市……うん、良いね! じゃあ、そこで何か食べよう!」
昨日立ち寄った服飾店で、大広場で毎朝やっている市場の話を聞いていた。
アルテシアが口にしてくれたおかげで、僕もそれを思い出し同意する。
こうして朝食のめどが立った。
準備を済ませ、階段を下りる。
カウンターには誰もいなかった。
昨日のことを思い出し、少し複雑な気分になる。
だからといって、あの店主に悪いという気持ちはない。
散々な言われ方もしたし、何よりアルテシアまで見下した。
その代わりに彼女の威圧も、向こうには効いたみたいだし、お互いさまだ。
すでに前金で宿賃を払っているので、鍵だけ置いてさっさと立ち去ることに。
宿屋から出る間際、背後に店主らしき気配を感じるも、振り返りはしなかった。
もうここへは二度と戻ることはないと、決めたから。
北大通りの坂を下り、大広場へと向かう。
まだ登りかけの太陽のせいか、日陰はひんやりと冷たく感じる。
石畳で舗装された大通りの歩道を、アルテシアと無言で歩く。
冷気を帯びた朝の空気は、寝起きの僕らを程よく刺激し、身を引き締めてくれる。
そして、坂道を下る負担で足首に適度な疲れを感じたところで、僕らは目的の場所にたどり着いた。
「うわぁ……」
「今朝はお天気が良いので、広場も盛況ですね」
活気ある朝の景色に言葉を失う。
想像していた穏やかな朝の日常はなく、人で埋め尽くされた大広場だけがそこにあった。
各々、目当ての店の前に立ち、買い物や品定めに勤しむ姿。
家族のために買い出しに来たのだろう。目当ての品を手に入れ、足早に去って行く人々。
昨日の酒が抜けていないのか、数人で肩を組みながら露天商に絡む連中。
子供たちにせがまれ、必要のない商品まで買わされている優しそうな親たち。
みんなそれぞれが生計を立て、ここで暮らしている。
そんな空気が僕の心にも押し寄せるのを感じ、心躍る。
大広場の中心を囲むように店が立ち並ぶ。
その景色はとても昨日と同じものじゃない。
すっかり様変わりしたようすの広場に立つと、喧噪だけでなく匂いまが僕を包み込んだ。
この朝市は毎日ここで開催されるそうだ。
これだけの店があとで綺麗に撤収され、また明日の朝、同じように並ぶのだと思うと、商人の逞しさに頭が下がる。
まあ僕もその端くれなんだけど。
いやいや、さすがに奴隷たちを朝市で売るディーラーなんか居るわけないだろうと、自分に突っ込みを入れつつ、やはり奴隷ディーラーは、他と毛色が違うのだと感じる。
「ヨースケさん、どうします?」
無言のままだった僕に、アルテシアが声をかけてくれる。
その声で自分たちの目的を思い出し、ニコリと微笑む彼女に視線を向けた。
「うん、この何とも言えない良い香りがちょっと空腹にはきついね。早く何かお腹に入れないと。アルテシアは何か食べたい物とかある?」
「えっと、私ですか?」
まさか希望を聞かれると思わなかったのか、アルテシアのまばたきが早くなる。
彼女はあわてたようすで辺りを見渡しながらも、そのなかのある露店で目を止めた。
「あっ! あれなら食べたことあります」
そう言ってアルテシアが指差した先には、それなりに繁盛してそうな店が。
ずらりと並ぶ露店のなかで、ひときわ白煙が目立っている。
「ガーク鳥の串焼きです。あれは帝国でもよく食べられてますから」
「ガーク鳥……?」
初めて聞く名前の鳥だ。
少し不安を感じるも、アルテシアに導かれるまま露店へと向かう。
ただこうして近付くと、白煙が目に染みて痛い。
涙目で我慢しつつ、煙を手で払いながら店先を覗く。
するとちょうどタイミングよく、先客が買い終えたところに当たった。
「おぉ」
その景色に思わず声をあげる。
木材でくみ上げた屋台を布で覆って作られた露店に、大きな七輪が三台。
それぞれに金網が乗せられ、そこに串を通した適度な大きさの肉が並べられている。
時折、熱せられた肉汁がじわりと染み出し、炭火に落ちたときの音が何とも言えない。
ガーク鳥なんて初耳の鳥に最初は不安もあったけれど、こうしてよく見かける姿になれば、普通の焼き鳥となんら変りはないようだ。
それを証拠に、僕のお腹は正直に鳴ってくれる。
額にじんわりと汗を浮かべた店主が、串を丁寧に返しながら僕らをチラと見る。
どこか元世界の焼き鳥屋の店主のようないで立ちに、自然と親近感も湧いてくる。
そして、その既視感が偶然ではないことを、このあとすぐに知ることに。
「こ、この匂いって……」
店主がおもむろに手元にあった壺へと手を伸ばす。
そして、なかに刺していた刷毛のような道具を数回、壺のへりになすりつける。
引き上げた刷毛に沁みた黒い何かが、焼けたガーク鳥の肉に塗られると同時に、香ばしい香りと音が僕を襲う。
「おうよ、お客さん、醤油……知ってんのかい」
「――!!」
僕のなかに衝撃が走った。
熱で蒸発しながら焦げていく黒い液体。
それはどこへ転生しようとも、魂が覚えている香り。
そしてこれを肯定する店主の言葉――醤油の名を。
一緒に振りかけられた香草の香りを押しのけるように、それは激しく主張する。
店主の口から告げられたのは醤油。
誰が何と言おうと、これは醤油で間違いないんだ。
ただ、それを認めてしまうと、どうしてもある疑問が頭から離れなくなってしまう。
「なんで……醤油が?」
「ヨースケさん?」
僕の呟きにアルテシアが反応する。
といっても、醤油を知らないであろう彼女には、僕のこの疑問の真意までたどり着くことはないはず。
それを唯一立証できるのは、今、僕らの目の前でガーク鳥の串焼きを、職人技で仕上げている店主意外にない。
無言で忙しそうに串を返す店主。
串と肉。それらを見つめる眼差しは厳しく、時折愛を感じさせる。
最高の串焼きを提供するため、ときには客の存在を忘れるのも道理。
それが分かった以上、しばらくは店主の拘りに付き合わなくてはいけないと思ったのも束の間、それはすぐに終わりを迎える。
「あいよ、ちょうど次のが焼けたぜ」
そう言ってこちらを向き、白い歯を見せる店主。
どうやら僕の疑問は解消される方向に向かっているらしい。
「この醤油ってのは最近、帝国の向こうから伝わった味でね。世渡りびとの伝承らしいんでさ。そんで今回、この地域で初めて自分が店出したってわけだ」
「よ、世渡り……びと?」
醤油の伝来について語るのと同時に、聞き慣れない言葉に気を取られる。
まさかその世渡りびとなる人物が、この醤油を異世界で発明したのか。
困惑する僕のようすを見てニヤリとする店主が、さらに話を続けようとすると――、
「異世界人のことです。はるか昔からさまざまな知識を持つ人々が、ときどき次元を渡ってやって来るという言い伝えがありまして、いつしか世渡りびとと呼ばれるようになったそうです」
店主よりも先にアルテシアの解説が入る。
横やりを受けたのが悔しかったのか、話したがり屋な店主が少し口惜しそうに彼女を見た。
「そ、そっか。ありがとう、アルテシア。勉強になった」
「はい。これくらいなら、いつでも」
世渡りびとついては何となくだけれど理解はした。
要するに異世界転移者のことだろう。
そこが僕のいた世界なら、醤油の作り方を知っている人がいたって不思議じゃない。
むしろそんなに都合よく、醤油作りの職人が転移するのかが疑問だけれど。
まあ、とにかく元世界からの思わぬ贈り物に感謝だ。
「すみません。これ二本だと、いくらですか」
「あいよ、一本、銅貨六枚だけど、二本なら大銅貨一枚だ」
安っ。
前世の価格で言えば、銅貨一枚三十円の価値だ。
それが六枚だと一本で、百八十円。
二本だとオマケしてくれるのか、大銅貨一枚で、三百円になる。
そのうえ、この世界の串焼きは量が多いし、とにかくデカい。
一本でもけっこうな食べ応えがある。
これで二本、三百円は、僕のお財布に優しい価格だ。
アルテシアの分と合わせて、二本購入する。
銀貨一枚を支払い、お釣りが大銅貨九枚。
残りはあと銀貨四枚と大銅貨九枚になった。
近くのベンチに二人で腰かける。
それぞれ手に持ったガーク鳥の串焼きを、さっそく口に。
外側のパリッとした皮の食感を越えると、プリっとしたガーク鳥独特の風味と、じわっと染み出る肉汁が、口の中を満たしていく。
そのあとから鼻の奥を、香草のツンとした香りが駆け抜け、焦げた醤油の香ばしさが、肉汁と共に舌を喜ばせてくれる。
「ガーク鳥、うまっ!」
「この、おショウユ? というのが、すごく美味しいです。向こうでは香草のみの味付けでしたから」
帝国より向こうから伝わった醤油。
アルテシアの住んでいたところには、まだ広まっていないらしい。
帝国よりも敏い商人が、この国に居るのかもしれないな。
黙々とガーク鳥をほおばるふたり。
肉食系カップルに見えるのだろうか、前を通る人たちが、僕らを微笑ましそうに見ては通り過ぎていく。
ちょっと恥ずかしいので、なるべく急いで完食した。
そして、アルテシアも少し遅れて完食する。
「あ、ヨースケさん」
「えっ? あっ」
アルテシアが何かに気付き、僕の口元に指で触れた。
どうやら醤油のタレが付いていたらしい。
彼女はそれを指で拭い、自分でペロリと舐めた。
「ふふっ。綺麗になりましたよ」
「……あ、ありがと」
何この、至福の時間。
どうみても恋人同士のやり取りですよね。
そのままふたりは食後の甘いひとときを過ごしまし――
「さあ、ヨースケさん、武器屋に参りましょう」
「えっ、も、もう行くの?」
「はい。急がないと、このあと冒険者ギルドにも行く予定ですし」
「あーそうだね……行こうか」
うん、甘いひとときなんて、早々ありませんから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おや、お客さんかい」
古びた洋館の扉を開けると、老婆が出迎えてくれた。
銀髪のボブカットに、金縁の片眼鏡から覗くギョロりとした眼差し。
ぶ厚い化粧でニタリと笑う、赤い口紅の色。
奥のカウンターからこちらを見据えるその姿は、まるで女ボスのような貫禄だ。
辺りにくゆる白い煙は、焦げた草のような香り。
その手元には四角い箱。
そこから一枚の葉っぱを取り出し、それを奥歯で擦り潰す仕草をする。
老婆は口元から白い煙をふかせると、すぐに僕らから興味を失ったのか、手に持った古びた本に目を移した。
しばらく僕らは唖然としたまま、戸口に立っていた。
老婆は特に接客する気もないらしい。
自由に店内を見ていいのだと解釈する。
アルテシアと合図し、店内を見回ることにした。
所狭しと置かれた商品のせいか、中は案外と狭く、前世で祖母の家の近くにあった、昔懐かしい駄菓子屋のような錯覚を覚える。
もちろん、売っている品物は子供向けではなく、戦うための商品だけれど、店の醸す雰囲気はまさにそれだった。
途中、気になったので、傍にいたアルテシアを肘でつつく。
(なんか葉っぱ噛んでたけど、あれ何?)
(あれは葉噛みですね。奥歯で擦り潰しながら、煙と香りを楽しむ嗜好品です)
狭いので、奥の老婆に気付かれないよう小声で話しかける。
葉噛みというのは初めて見たけど、前世でいうところのタバコのようなものだろうか。
煙の出る葉っぱというのが、なんとも駄菓子屋の怪しい商品みたいで、思わず吹き出しそうになる。
「ンンッ!」
聞こえていたのか、わざとらしく咳込む老婆。
慌てて、その辺にあった商品を物色するフリをする。
ちょうど手に取った品は、あまり手入れされていない中古の剣だ。
握りの部分に巻いてある布はボロボロで、柄も錆びかけている。
試しに鞘から抜いてみると、刃こぼれの多い、くすんだ鉄の刃が姿を見せる。
素人の僕が見ても、これはちょっと――という品だ。
「それはお買い得だよ」
突然、奥の老婆が声をかけてきた。
思わず持っていた剣を、落しそうになった。
興味がないフリをしながらも、意外と客を見ている。
万引き防止に目を光らせる、駄菓子屋の店主のようだ。
ニタリとこちらを見る老婆に愛想笑いをしつつ、剣を元に戻す。
僕に言われても良し悪しなんてわからない。
ここはアルテシアに任せよう。
「これなら、何とか使えそうです」欠け
そう言って、アルテシアが持ち寄ってきた一振りの剣。
幸い握りの部分も綺麗で、刃先に錆びや欠けも少ない。
ただ、先ほど自分で抜いてみた剣よりも、多少はマシという程度。
それでも彼女は頑張って探してくれたようだ。
「ふむ。さすが騎士だね。そのなかで一番マシなやつだよ、それは」
「――っ!」
感心したような声で、老婆がアルテシアを称える。
すでに経験済みなので、先ほどよりも驚きはないけれど、別件で僕は老婆を警戒する。
なぜアルテシアが騎士だと知っているのか。
そして、僕の視線に気付いたのか、老婆が呆れた顔でため息をついた。
「何をそんなに驚くんだい。武器屋が【鑑定】のスキル使うのなんざ、当たり前じゃないか」
「か、鑑定!?」
たまらず、アルテシアの方を振り向くと、彼女も黙って頷いた。
どうやら知らないのは僕だけらしい。これも常識内ってことか。
当然、僕が奴隷ディーラーってこともバレてるだろう。
ただ、老婆に対し少し警戒心が増してしまった。
こうして知らない間に鑑定をかけられても、こちらが気付く術がないことがわかったからだ。
「くくく。それにしてもなんだね、坊や……」
「ぼ、坊!?」
アルテシアをほめる要素があるのは素直に認めるけれど、次はこっちが標的か。
ニタリ顔の老婆に、いきなり坊や呼ばわりされ、少しムッとくる。
「ひよっこ奴隷ディーラーのくせに、えらく上等な奴隷を連れてるじゃないか。ちょうど人手も必要だし、どうだい、その嬢ちゃんをあたしに譲るってのは。今なら坊やの言い値で買ってやってもいいさね」
「――っ!」
下卑た笑みを浮かべる老婆が、あろうことか、アルテシアを譲れとのたまう。
その言葉が彼女を貶めたことが、子供扱いされたこと以上にムカついた。
無意識にその手で彼女を庇い、老婆と対峙する。
「……たしかに彼女は僕の奴隷です。でも大切な人なんでお譲り出来ません!」
「ヨースケさん……」
「ふっひゃっひゃっ! よおーくある話だねえ! 駆け出し奴隷ディーラーが、つい奴隷に惚れ込んじまうってやつかい? やれやれ、嬢ちゃんも大変だねぇ」
「なにっ!」
ケケケと厭らしく笑う老婆。
まるで、僕が自分の立場を利用して、彼女を困らせる男だとでも言いたいのか。
その言葉にカッとなり声をあげてしまう。
「違う! 僕はそんな意味で言ったんじゃない! 彼女は大事な友達なんです! さっきの発言、取り消してくださいっ!」
「友達……」
後ろでアルテシアが何かを呟いてる。
僕はきちんと彼女との関係を説明したつもりだけれど、どこかおかしかったのか。
「はぁ、やれやれ……悪かったよ。傍で見てて、お前さんたちがえらく仲良さそうだから、ちょいとからかってみただけさ。まあ、どうでもいいことだけど、嬢ちゃんもかなり苦労しそうだねえ」
「いえ……お気遣い、ありがとうございます」
「アルテシア……?」
「……」
どうやら老婆のおふさげだったようだ。
謝罪された以上、こちらもこの話題を続ける気はない。
ただ、老婆とアルテシアが何か共感めいた言葉を交わしたことに疑問を感じるも、彼女はそっぽを向くだけだった。
「で、どうするんだい? その剣」
「えっ? ああ、そっか、剣の話の途中だったんだ。えっと……アルテシア?」
ふいに老婆に促され、買い物の途中だったことを思い出す。
すぐさまそっぽを向いたままのアルテシアに、少し緊張気味に声をかけた。
すると彼女は気持ちを切り替えたのか、手に取った剣をもう一度確かめたあと、僕に振り返る。
「はい。やはり中古の剣のなかでは、これしかないかと」
「そ、そっか。じゃあ、それを買おう」
アルテシアから鞘に納めた剣を預かると、そのままカウンターへと進む。
手にした剣をチラと見た老婆は、葉噛みの煙をひとつ吐くと、こう言った。
「銀貨五枚だ」
「えっ? 銀貨五枚!?」
思わず聞き返してしまう。
銀貨五枚と言う老婆の言葉に、自分の耳を疑った。
アルテシアからの情報では、中古でもだいたい銀貨ニ、三枚だと聞いていた。
それがなぜか二倍近くの値段を提示されたら、さすがに驚くしかない。
あわててアルテシアの方を振り返るも、彼女も困惑したのか、即座に僕と並んだ。
「そんな……これが銀貨五枚なんて、暴利では?」
険しい表情のアルテシアが、相手に詰め寄る。
だが、老婆とはいえ、向こうは老練な商売人、百戦錬磨のごとく気丈に構えたままだ。
そして、わざと再び葉噛みの煙をアルテシアの方へとふかすと、読みかけの本を勢いよく閉じた。
「フン。別に嫌なら買わなきゃいいさ」
「それは困ります。私たちにはこれが必要なんです」
尊大な態度の老婆に一蹴されるも、アルテシアも引き下がらない。
実際、この中古の剣にそれほどの価値はないのだろう。
暇な老婆の嫌がらせか、それとも立ちの悪いおふざけか。
正直、勘弁して欲しい。僕らはそんなことに構う余裕もないというのに。
しばらく睨み合いが続き、沈着状況のまま商談は決裂かと思われたとき、老婆がニヤリと嗤った。
「そうさねえ。これを今すぐ欲しいってのなら……」
その瞬間、老婆はそれまでのニヤケ面から一転、狡猾な表情へと変貌する。
あれは間違いなく、悪意や魂胆のある人間が見せる表情だ。
僕は老婆による次の言動を警戒しつつ、アルテシアの動きにも注目する。
また宿屋での出来事が起きないようにと。
「明日までに銀貨六枚支払うってんなら、今すぐ売ってやらなくもないさ」
「そんな! 金額が上がってるじゃないですか!」
そうきたか。
老婆はさらに値段を吊り上げてきた。
その代償に期限に猶予を設けて、僕らの判断を仰ごうという企みだ。
アルテシアが抗議するも、それさえ老婆の計算かもしれない。
敵は相当に僕らの足元を見ている。
「何言ってんだい! あんたたちは安く買いたい、こっちは高く売りたい、それのどこが悪いって言うんだい! それが交渉、それが商売ってもんだろう? 違うかい!」
「――っ!」
怒鳴る老婆に、戸惑うアルテシア。
彼女が怒って老婆に何かしないかという心配は、杞憂に終わった。
さすがの彼女も、正論を言われたら反論も出来ない。
黙って俯いたまま、老婆の言葉を噛みしめているようすだ。
それにしても困った状況になった。
軽い気持ちで武器屋に剣を買いにきたはずが、どうしてこうなった。
いや、ここは異世界の常識をちゃんと学んでから来れば良かったのかも。
まあ、今更そんなことを言っても仕方がないか。
そういえば、元世界も買い物って、こんなに難しかったのかな。
薄れていく過去を辿るも、それさえ思い出せなくなっている。
そんな一抹の寂しさを感じていると、いきなり何かに腕を掴まれた。
「ヨースケさん、他へ行きましょう。ここはダメです」
「えっ!? あ、でも……」
老婆との交渉を諦めたのか、アルテシアが僕を外へ連れ出そうとする。
仕方ない、今回は僕らの負けだ。ここは大人しく引き下がるのが賢明か。
彼女に促されるまま、僕は武器屋を出ようと入り口へ向かう。
しかし、そんな僕らに追い打ちをかけるように、またも老婆の声が。
「そりゃあ残念だあね。でも生憎だが、この街にうち以外の武器屋はないよ。ふひひ」
「そ、そんな……!」
さすがのアルテシアも、これには絶句したままだ。
そんな彼女の肩に手をやり、僕はカウンターにいる人物に振り返った。
残念だけれど、僕らはもう老婆の術中にハマっているらしい。
すべてを計算したうえで、相手も交渉に臨んでいるのだ。
何の準備や心構えもなく、この舞台に立った僕らの負けだ。
悔しいが、仕方がない。
「わかりました。それで売ってください」
「ヨースケさんっ!?」
老婆に降参した。
もう僕らに勝ち目はない。
このまま揉めても、あとはアルテシアが暴走するしか手は残されていない。
僕のためとはいえ、彼女にはそんな手段を使わせたくない。
僕らにとって、今回はいい勉強になったと思うことにする。
「おや? 意外とそっちのお嬢ちゃんよりも、あんたの方が状況判断に長けてるねえ。気に入ったよ」
「どうも」
老婆に褒められるが嬉しくない。
さっきまで子ども扱いしてたくせに、どの口がそれを言うんだ。
もういい。さっさと支払いの約束だけして店を出よう。
「おっと、そうそう。よく見りゃふたりとも余所者じゃないか。だったら念のため【エンゲージメント】を結ばせてもらうよ。ほら、坊や、さっさと手を出しな」
「へ?」
「店主! それはあんまりですっ!!」
突然、何か気が変わった老婆が、手を出せと急かす。
何のことかさっぱりな僕に代わり、アルテシアが激しく抗議している。
もしかして何か危険なことをするつもりか。
(ご、ごめん、アルテシア。その【エンゲージメント】って何?)
「……し、信用のない相手との取引に使う、太古からの契約魔法です……」
耳打ちで、アルテシアに【エンゲージメント】の説明を求める。
しかし、彼女は動揺したままなのか、小声で話さずに説明してくれた。
いや、耳打ちの立場よ。
「古い契約魔法――って、要するに奴隷契約みたいな?」
「はい。奴隷契約も元は【エンゲージメント】からの派生だとされています。ある条件で相手と契約を交わし、自分がそれを守れなかった場合、無条件で相手に自身の所有権を奪われます」
「えっ! じ、じゃあ僕がその【エンゲージメント】を交わして、約束を守れなかった場合って――」
「はい。この場合、ヨースケさんが、店主の奴隷になってしまいます」
ある意味、危険なこと以上にヤバい案件だった。
老婆はたかが中古の剣で、とんでもない条件を突き付けて来たようだ。
てか、そんな不利な条件なんて飲めるわけがない。
「いや、さすがにそんな条件、こちらに不利過ぎない?」
「そうですよ、ヨースケさん! だからもう剣は諦めましょう!」
「えっ? いやそれもちょっと問題が……」
「でも!!」
勢いでアルテシアが剣を諦めろと提案する。
とっさにそれは難しいと判断し、老婆への抗議も躊躇してしまう。
そんな僕らの葛藤をカウンター越しに眺める悪魔。
「なあに小難しいこと言い合ってんだい。別にあんたたちが明日までに、代金の都合をつければいいだけの話じゃないか。それくらい、そこの嬢ちゃんなら簡単だろうさ」
「うわぁ……悪魔のささやきが」
「ヨースケさん、聞いちゃダメですっ!」
したり顔で僕らを煽る老婆。
ただ、確かにアルテシアなら何とかしてくれる気がする。
剣を購入し、明日までに代金を冒険者ギルドで稼げば良いだけの話だ。
そう思うと、なんだかうまく行く気さえしてきた。
「聞いて欲しいんだ、アルテシア。剣があれば絶対安心だよね」
「えっ……そ、それは、あれば安心かと聞かれると、確かにそうですが……」
「じゃあ、買おう!」
「ヨ、ヨースケさんっ!」
考えは固まった。
僕は剣を買う。そして、アルテシアを信じる。
たとえうまく行かなくても、死んでしまうわけじゃないし、人生がちょっと違う方向へ向かうだけだ。
それに一度そう決めたら、あの老婆のニヤケ顔なんて気にもならない。
「ようやっと腹を決めたのかい。まあでも、坊や、意外と漢気があるじゃないか。ふっふっふ」
「そんなんじゃないです。僕は彼女を信じてるだけなんで」
「ヨースケさん……」
老婆の揶揄いを気にも留めず、僕は再び剣を持ち、カウンターの前に立つ。
もう迷いもない。それよりも今は、明日までに代金を用意するため、少しでも早く次の行動へと移りたい。ただそれだけだ。
「でもいいのかい? 坊やがもし【エンゲージメント】を守れなかった場合、当然、坊やはあたしの奴隷になるんだが、同時にあの嬢ちゃんも、あたしのモノになるってことをさ」
「えっ? えっ、あっ……ああぁ―っ!!」
「ふっひゃひゃひゃひゃひゃ―!」
老婆の笑い声がこだまする。
彼女の説明を聞き、一番重要なことに気付いた僕も、同じくらい叫んでしまった。
そうだった。僕は奴隷ディーラーだったんだ。
「ヨースケさん……」
心配そうに僕を見つめるアルテシア。
彼女は知っていたんだ。こうなることを。
僕の奴隷である彼女は、僕が老婆の奴隷になると同時に、老婆の所有物になってしまう。
そんなことも気付かないまま、僕は偉そうな態度で交渉に望んだということだ。
「そ、そうだった。そんな罠があったか」
「ヨースケさん、しっかり!」
ガクリと肩を落とす僕に、アルテシアが駆け寄る。
どうりで老婆が【エンゲージメント】を、さも簡単そうに勧めて来るはずだよ。
最初から僕ではなく、アルテシアのことを狙っていたんだ。
そんなことにも気付かない僕は、とんだ大馬鹿野郎だ。
「やっぱりダメです、ヨースケさん! もう諦めましょう。武器がなくても私が何とかしますから、もう――」
「アルテ……シア……」
落ち込んだ僕に涙目で訴えるアルテシア。
彼女の顔を見て、どうにもいたたまれなくなる。
自分だけならどうなってもいい。そう思っていた。
でも、彼女の涙をみれば、どうしようもなく自分に腹が立ってきた。
彼女を泣かす理由、それは当然、僕の未熟な行いが原因だからだ。
でも、ここで引き下がって良いのか?
このままおずおずと店を出て、いったいその先に何があるんだ。
どの道、路頭に迷えば、最悪、アルテシアを本当の奴隷として手放してしまうんじゃないのか。
そんなことは絶対にしたくない。
それなら今、自分と彼女の人生を賭けて、勝負したって同じだろう。
そう――今が決断する時だ。
「いいや、アルテシア。買うさ。買わせてもらうさ! さあ、店主! 僕と僕のアルテシアを賭けて、【エンゲージメント】を結んでください!」
「ヨースケ……さん?」
「心配ないよ、アルテシア。僕らはきっとうまくいく」
「よく言った! 坊や!!」
アルテシアの涙が、僕を前に進ませてくれた。
ここまで負けっぱなしじゃ、この先も堂々と彼女の顔を見続けることなんて出来ない。
【エンゲージメント】の条件を達成し、老婆から彼女を守って見せる。
そう決意し、契約を受け入れるために、僕はその手を差し出した。
「くくく。分かってるね? 明日のこの時刻までに払えなかったら、お前さんたちは、あたしの奴隷さあ」
「絶っ対に払いますから! ご心配なくっ!!」
「フン。生意気なガキだねぇ。でも……嫌いじゃないさ」
老婆による【エンゲージメント】が僕と結ばれた。
今、手の甲にはその契約の印がついている。
この紋様がある限り、僕はどこにいても老婆から筒抜けらしい。
そして、約束が守れなかった場合、自動的に老婆の奴隷に堕ちるのだ。
それは僕だけではなく、アルテシアも守れなかったという屈辱でもある。
「さあ行こう、アルテシア」
「はい。ヨースケさんっ」
アルテシアの手を取り、武器屋を出る。
彼女の手には購入したばかりの中古の剣が。
そのまま通りに出て、次の目的地へと向かう。
その途中、アルテシアが立ち止まった。
「アルテシア?」
「さっきのヨースケさん、すごくカッコ良かったです」
少し顔の赤いアルテシアが、俯いたままそう告げる。
そのようすに、僕もなんだか恥ずかしくなってくる。
武器屋で吐いた台詞の数々。これまでにこんな気恥ずかしいことを言った覚えもない。
いや、そんな言葉を、想いをぶつけられる相手が、今まで隣にいなかったんだと思う。
「勝手に決めてゴメン、アルテシア。でもあのとき、キミの涙を見て、僕はどうしても逃げたくなかったんだ。これからキミと一緒に笑うために」
「ヨースケ……さん。でも……正直、不安もあります。あと後悔も……。もしあなたに何かあれば、きっと私はこのことを――」
また涙ぐむアルテシア。
僕はその涙をそっと指で拭う。
僕は彼女に泣いてもらうために、あのとき頑張ったんじゃない。
笑顔で笑って安心してもらうために、あのとき決意したんだ。
「大丈夫だよ、きっと」
物事に絶対って保証はない。
でも、そこで諦めたら、僕は何のために新しい人生をやり直したか分からなくなる。
僕は絶対に彼女を老婆に渡したくない。
それだけが今の僕を突き動かす原動力だ。
アルテシアの不安も、後悔も。
そのすべてを解決出来る鍵は、この先で僕らを待つ冒険者ギルドにある。
「行こう、アルテシア。僕らの冒険が待ってるよ」
「……はい、ヨースケさん」
たった銀貨六枚のために、僕らの人生を狂わせてなるものか。
明日までにきっちり稼いで、あの店主の前にばら撒いてやる。
そう胸に誓い、僕らは冒険者ギルドへ向かった。
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