Darjeeling Earl Grey
なんか違うんだよなぁ…。
圭一朗はパソコンのデリートキーを押して、今書いていた一文を消去する。もう、何度同じことをしているかわからない。傍らに置いたマグの中のコーヒーも、いつの間にかなくなって、底に乾ききったこげ茶色の輪ができている。
ギシッ、と音を立てて椅子にもたれかかって伸びをする。横目でちらりと壁の時計を見ると、午前十時になろうとしているところだった。
パソコンの前に座ってプロットをたて始めたのが、まだ夜も明けきっていない午前四時前。…ということはかれこれ六時間以上も同じことをしているのか。
ふーう、長いため息をついて立ち上がる。と、ぐるぐるぐるぐる〜とお腹が派手に鳴った。
…そら、腹も減るわな。
圭一朗はキッチンの冷蔵庫を開けて、何か食べられるのもはないかと物色するが、あいにくわさびのチューブと岩海苔、マヨネーズしか見当たらない。
…仕方ない。気分転換に、外に行くか。
もう一度伸びをして、ジャージからジーパンに履きかえる。Tシャツもよれよれだけど…まぁいいか。携帯と鍵、メモ帳とボールペンをジーパンのポケットに無造作に突っ込んで、ビーチサンダルをつっかけて、アパートを出る。
行き先は決まっている。気分転換は、もっぱらあそこだ。
まだ十時とはいえ、夏の日差しは容赦なく照りつけてくる。半ば引きこもりの圭一朗の青白い肌をジリジリと音を立てるように焦がすのがわかる。
街路樹の影をかいくぐって、緑の多い公園に入る。コンクリートの歩道よりは幾分足元の照り返しが和らいで、涼しく感じる。…が、セミの鳴き声はハンパない。
空を見上げると、気持ちの良い青い空と、眩しすぎる白い雲。
公園のベンチに、同年代と思われるスーツ姿の営業マンが座って懸命に携帯で話をしている。…暑そうだ。
ふと、三年前の自分を思い出す。この営業マンと同じように、真夏に長袖のスーツを着て、ネクタイをして、がむしゃらに頑張っていた時の自分。取引先に頭を下げて、上司に怒鳴られて、会社のためにだけ頑張っていた時の自分。
作家になる夢をどうしても諦められなくて、一大決心をして会社を辞めて、バイトをしながら創作活動をしている今の自分。収入はがくんと減り、何とかなけなしの貯金とバイトの給料で食いつないではいるが、ちっとも作家としては成功していない自分。
今日みたいに行き詰っていると、どっちの自分が幸せなのか、わからなくなってくる。夢なんか追わずにスーツを着て頑張って働いて、社内結婚でもして、円満な家庭を築くほうが、親も安心するだろうし収入も安定するし、幸せなのかもしれない…。
ぼーっとそんなことを考えながら、足を進ませる。
公園を抜けて、駅に向かう大通りを少し歩くと、そこにたどり着く。
夏の花々に囲まれた、マンションの一階部分のログハウス調のテナント。写真屋と音楽教室の間にあるその店のドアには、流木を使ったドアノブと、さりげないプレートが掛かっている。
Tea Room * LUPINUS。
圭一朗は迷うことなくそのドアを開ける。シャラシャラシャラン…と涼しげなウィンドベルの音と同時に、「いらっしゃいませー」と明るい男女の声。カウンターの中ではいつものようにこの店のオーナーである女性、多嘉子が圭一朗を笑顔で出迎える。
このティールームでお気に入りの席に座り、サンドウィッチと紅茶を楽しみながら、BGMのピアノ曲を聴いていると、いいアイディアが浮かぶことが多いのだ。たまたま初めて来た時にそうだったので、行き詰ったときの気分転換には必ずここに来るようになった。
が、今日はいつもと少し違うようだ。
カウンターの中から多嘉子が申し訳なさそうに圭一朗に言う。
「ごめんなさい、今日は見てのとおりテーブル席は満席で…。カウンター席でもよろしいですか?」
言われて圭一朗は店内を見渡す。開店して間もない時間帯なのに、三組のテーブル席、圭一朗お気に入りの奥のテーブルも、全て埋まっている。どうやら若いママさんグループが、赤ちゃん連れで占拠しているようだ。もう一人の店員のバイト君が、ベビーカーを避けつつわたわたしながらオーダーをとっている。
…まぁ、たまにはカウンターもいいか。圭一朗は仕方なくカウンター席に座る。ここに座るのは初めてだ。
さすがにカウンター席だけあって、普段見れないカウンターの中の様子が一望できる。そういえば、このオーナーも自分と同年代と思われる。…女性一人で店構えて、切り盛りして…夢を実現させて、すごいな。こうして自分の好きなことで成功している人もいるのに…自分は、何をやっているんだろう。
多嘉子を眺めながらそんなことを考えていると、多嘉子がお水の入ったグラスを圭一朗の目の前に出しながら、首をすくめる。
「ここじゃお仕事に集中できないかもしれないけど…。」
「え?」
圭一朗は戸惑って聞き返す。オーダーのとき以外で多嘉子に声を掛けられるのは、初めてだった。
すると多嘉子が微笑む。
「だって、いつもあそこのお席で何か書いていらっしゃるから…作家さんとか、ライターさんとか、そういう“書く”お仕事の方だと思って。」
「えぇ、まぁ…。でも、いいですよ。」
圭一朗は苦笑する。仕事に集中できないから、ここへ来ているのだが。
「いつものでいいですか?」
多嘉子にそう尋ねられる。いつもの。…初めて来た時にいいアイディアがやってきた“ゲン”をかついで、いつも同じものしか頼んでいなかった。何か書いていることといい、覚えられているんだなぁ。
ちょっと赤面しつつ、圭一朗は頷く。
「ええ、いつもの、アボカドサーモンサンドとダージリン・アールグレイで。」
オーダーすると、多嘉子はにっこり笑ってカウンターの奥で調理を始める。
圭一朗はテーブル席で賑やかに子育て談義に花を咲かせるママさんたちを横目でちらりと見てから、窓の外に視線を移す。
…何やってんだろうなぁ…。
自然とため息が出る。
てか、いつまでこんなことを続けているんだろう。
そう思って、またため息をつく。不調な時に必ず出てくるマイナス思考。自分の中のもう一人の自分が囁いて、心の中をかき乱す。
こんなことをやっていても、無駄じゃないか? いつまでたっても無名の作家のまま…こんなんだったらあのまま会社を辞めずに、取引先に頭下げまくって、上司にも怒鳴られまくって、普通の人生歩んでいたほうが良かったんじゃないか?
…って言ってもこの不況の昨今、どこにも再就職なんかできるわけないし…。
いつもならこのティールームでは作品のプロットのことを考えているはずなのに、今日はそれどころではないようだ。…席が違うからか? プロットを考える余裕なんて、全くなくなっている。
グラスの水を一気に飲み干す。ふうぅ、と長い息を吐いて、目を閉じる。
…落ち着け、自分。
首を振って、思考をリセットしようと試みる。
カウンターの奥から多嘉子が戻ってくる。ママさんグループのアイスティーを作っていたバイト君に何か二言三言指示をしてから、圭一朗の空になったグラスに水を注ぐ。
「アールグレイ、お好きなんですか?」
不意に多嘉子が圭一朗に尋ねる。圭一朗が顔を上げると、多嘉子がティーポットに茶葉を入れながらにっこり微笑んでいた。
つられて圭一朗も笑う。営業の時に培った、自分の感情を誤魔化すような微笑み方になってしまうことに、内心苦笑いも混じる。
「ええ、何だか頭が冴える気がするので…。」
多嘉子はティーポットに熱湯を注ぎながら、嬉しそうな顔をする。
「そうですね、特にダージリンのアールグレイは…なんていうか、キリッ、としてますものね。このダージリン・アールグレイは、セカンドの最高級茶葉を使っているから、なおさらそう感じられるかも…。紅茶、お詳しいんですね。」
「いや、それほどは…。アールグレイといったら、イギリスのグレイ伯爵が中国で飲んだお茶を再現させたのが始まり、っていうことくらいしか。」
仕事柄、雑学だけは営業マン時代よりもはるかに増えた。
すると多嘉子は驚いて、ますます嬉しそうな顔をして、言う。
「すごい、それ知ってたら充分ですよ。」
そうして出来上がったアボカドサーモンサンドを圭一朗に前に差し出す。
「お待たせいたしました、アボカドサーモンサンドです。紅茶ももうすぐお出しできますので、もうしばらくお待ちくださいね。」
にっこり。いつも愛想の良い多嘉子だが、今日はより一層笑顔に魅力が増している気がする。圭一朗の知識がよほど嬉しかったのだろう。無意味にすら思えていた自分の雑学も、人様の幸せに役立てたように思えて、圭一朗のネガティブな感情がほんの少し和らいだ。
自然な微笑みを浮かべた圭一朗に気づいたのか、多嘉子はティーカップに出来上がったばかりのダージリン・アールグレイを注ぎ、圭一朗の前に出しながら、話を続ける。
「アールグレイって…今のフレーバーに落ち着くまで、相当の苦労があったと思うんです。グレイ伯爵が中国で飲んだのは、恐らく正山小種だったんですよね…。正山小種って、ラプサンスーチョンのことなんですけど…ご存知ですか? あ、ごめんなさい。」
アボカドサーモンサンドにかぶりついた矢先に多嘉子に聞かれたので、ほおばりながら頷く。きちんと胃に収めてから、圭一朗は答える。
「ええ、ラプサンスーチョン…中国の紅茶ですよね。かなり強烈にスモーキーな。」
そう言ってから目の前に出されたダージリン・アールグレイをひとくち飲む。今日も、絶妙なダージリン独特の深い渋みに、ベルガモットの爽やかなフレーバーが絡み合い、煮詰まった頭の中がシャッキリと覚醒するような快感に包まれる。アールグレイもかなり個性的な香りで、苦手な人にとっては勘弁してほしい味なのだろうが、圭一朗はこのエキゾチックな香りが大好きだ。ラプサンスーチョンは一度しか飲んだことはないが、アールグレイに輪をかけて個性的だが、これもわりと好きだった。
「ラプサンスーチョンは、龍眼っていう中国の果物をドライフルーツにしたものの香りによく似ているんです。でも、イギリスには龍眼がなかった。それでどうにかして似た香りを作ろう…ってことで、いろんな試行錯誤の結果、今の、ベルガモットのフレーバーになったんです。」
「伯爵のワガママで作らせた紅茶ってことですね…。ブレンダー、って言うんでしたっけ? その人たちの苦労は計り知れないんだろうなぁ…。」
きっと、飲んだこともない未知の味と香りを求められて、作ってはボツ、作ってはボツ…過酷な作業だったことだろう。思わず自分と重ねてしまう。未知の作品のために、書いてはボツ、書いてはボツ…ゴールの見えない、試行錯誤の日々。
「でもわたし思うんです。その試行錯誤があったからこそ、ブレンダーさんたちがああでもないこうでもないって研究を重ねたからこそ、今世界中で愛され、親しまれている“アールグレイ”というフレーバーが確立したんだなぁ…って。その研究の中で、きっと今他のフレーバーを作るのに活用されている技術や手法なんかもあるかもしれない。ブレンダーさんたちの苦労は、きっと無駄にはなってない。むしろその苦労が今の紅茶の世界を作っているんだろうなぁ、って。」
多嘉子はそう言って目をキラキラさせた。
…目から、ウロコ、だった。
というか、確かに、多嘉子の言うとおりだと思った。試行錯誤の日々は、まるで停滞しているか、あるいはひょっとしたら後退しているかのように感じられる、苦しい日々。でも、そんな日々を乗り越えて出来上がった作品は、必ず満足のいくものとなる。誰に評価されなくても、自分自身にとっては最高傑作だ。その時振り返ってみると、停滞しているかのように見えた日々も、実は常に自分は成長していたのだ。そんな経験を、圭一朗も今までにたくさんしてきた。
「それに、」
多嘉子の声に我に返る。多嘉子は圭一朗に笑いかけて、続ける。
「きっとブレンダーさんたちは、紅茶が好きで好きでたまらなかったんだと思うんです。でないとこんな、フレーバードティーの代表とも言える、世界中の紅茶ファンを魅了してやまない紅茶、作れませんよ。最初はグレイ伯爵の期待に応じようと必死だったかもしれない。だけどだんだんそんなこと忘れて、夢中になって、出来上がったときには、本当に口では言い表せないほどの達成感というか…幸福感だったんじゃないかなぁ。」
…そうだ、好きで好きで、たまらないんだ、結局。苦しくても、決して諦めることなんかできない。諦めることのほうが、よっぽど苦痛なのだ。
圭一朗は再びダージリン・アールグレイを口にする。その水色はキラキラ金色に輝いて、まるで試行錯誤の日々を乗り越えて完成した珠玉の作品と、それを作り出した作り手の達成感、安堵感、満足感…そして何よりも誇らしげな笑顔を思わせた。
「試行錯誤の日々は、決して無駄にはならない…か。」
圭一朗が呟くと、多嘉子が頷いた。
「ええ、必ずその日々に中に、数え切れないたくさんのプレゼントが隠れている。ひょっとしたら、心のどこかでブレンダーさんたちはそれを知っていたのかもしれませんね。」
圭一朗はアボカドサーモンサンドを黙々と食べて考える。
…好きで好きで、たまらない世界に身をおいて、試行錯誤で苦しい日々でも…そうだ、下げたくもない頭を下げて、やりたくもない営業をやって苦しんでいた日々に比べたら…。今の生活は苦しいけれど、その中にはたくさんの、営業時代には得がたい贈り物を毎日受け取っている。麻痺して忘れてしまっていた。
いつものアボカドサーモンサンドとダージリン・アールグレイ。このセットは、やはり圭一朗にとって行き詰ったときの特効薬だった。もう、不毛なマイナス思考はどこかへ行ってしまっていた。
アボカドサーモンサンドを食べ終え、ダージリン・アールグレイを飲みながら、カウンターの中で洗い物をはじめた多嘉子に声を掛ける。
「この紅茶、やっぱり頭がスッキリしました。ありがとう。」
多嘉子は笑って頭を下げる。ちょうどその時、テーブル席のママさんたちが賑やかにお店を出ようとしていた。バイト君がレジでまたてんてこ舞いだ。
「テーブル席すぐに片付けますので、いつものお席に、移りますか?」
多嘉子が微笑んだまま圭一朗に問う。圭一朗は頷いて微笑み返す。
…今なら煮詰まっていたプロットも、出てきそうな気がする。
圭一朗の頭の中には、ダージリン・アールグレイの水色のようにキラキラと金色に輝く、たくさんのプレゼントに囲まれたその場所が、今はっきりと見えていた。