第5章:夢のあとに
<第5章:夢のあとに>
部屋の中は真っ暗だった。遥か遠くの方に黄色い光が見える。ゆかりは自分の足が床を踏んでいるのかどうかさえ感じられなくなっていた。それだけではない、どっちが上でどっちが下か、まるでそこだけ重力がなくなったような感覚が彼女を翻弄した。
「ここは……」
「魔界よ」突然、もう一人のゆかりの声がした。
「あ、あんたは誰?!」
「私は本物の小川ゆかり」
「嘘っ!」
「あなたは偽物よ。私は本当はそんなに無鉄砲じゃないわ。それに身体を動かすのなんて大嫌い。人助けもね。ただ私は自分の頭脳を磨くだけ。それだけのために生まれてきたのよ」
「姿を見せなさいよ!」
「そうね、それでようやく対等に話ができるってものよね」
ゆかりは床を確認した。足がついた。ぽうっ。女の姿が浮かび上がった。白い長袖のブラウスに赤いリボン。それに青地のチェックのスカートを身につけている。
「あ、あんたは!」ゆかりは驚いた。自分自身の姿をそこに見たからである。
「私は、本当の自分を取り戻すために、あなたのその石をいただく」もう一人のゆかりは音もなく近づいてきた。ゆかりは身構えた。
「あたいはあたいよ! 他の誰でもないわ!」
「あなたはこのペンダントを私に譲って、ここで死ぬの。それが運命」
「だ、誰が渡すもんですか! 取れるものなら取ってみなさいよ!」
「ふん! なんて野蛮な口のきき方。そんなあなたが私は大嫌い!」もう一人のゆかりの目がつり上がった。そして腕がゆかりの襟首を掴み、締め上げてきた。「くっ! 苦しい!」ゆかりはもがいた。
「さあ、渡すのよ。その石を。ふふ」
ゆかりはとっさに右足を大振りした。
ばしっ!
「あうっ!」もう一人のゆかりは倒れた。「野蛮だわ! 野蛮よ!」
「何とでも言うがいいわ! あたいはあんたを倒してこの石を守り抜く!」
もう一人のゆかりがまるで血に飢えた猛獣のように牙を剥いて身を翻し、ゆかりに飛びかかってきた。ゆかりはさっと身を屈め、懐からヒイラギの葉を取り出し、敵の目をめがけて投げつけた。
ひゅん!
「ぎゃああっ!」もう一人のゆかりは両目を押さえてのたうち回った。
「き、きさまー!」
目から血の混じった涙を流しながらその女は立ち上がりゆかりに突進した。ゆかりは素早く相手の身体の下に屈み込んで、相手の胸をめがけて右手を思いきり突き出した。
ぐさっ!
「ぎ、ぎいいいっ! ぎゃあああ!」
ゆかりの中指と薬指は、その女の心臓を突き刺していた。ゆかりは返り血を浴びながら、もう一人のゆかりがどう、と床に倒れるのを見下ろした。ゆかりの右手から真っ赤な血が滴り落ちた。
ふっ。またあたりが真っ暗になった。そして遠くにあった黄色い光がゆかりに静かに近づいてきた。だんだんとその光は強くなり、やがて目も開けていられないほどにまでなった。
「私に何か用かね?」
「お、おめえは誰だっ!」
「まったく、呆れますね。そういう下品な口のききよう。だから私は君が好きじゃないのだ」
声の主が姿を現わした。庄左衛門の足が床を捉えた。
「やっとまともに立てるぜ。おめえは……!」
庄左衛門は目の前にいる、おそらく今から闘うであろう男を見て息を呑んだ。そこには度の強そうな縁なし眼鏡をかけ、グレーのスーツにチェックのネクタイをした庄左衛門自身がいた。髪はムースで固めた短髪である。
「お、おめえは……誰だ?」
「私は本物の筑前屋庄左衛門。君は偽物だね?」
「ば、ばっけやろう! 俺が筑前屋庄左衛門でいっ! 世界でたった一人のな!」
「何だね、そのペンダントは。そんな不似合いなもの、外したらどうかね?」
「あほかっ! これ外したら死んでしまうんだぞ!」
慇懃無礼な物言いのもう一人の庄左衛門は、片頬でにやりと笑った。
「ほほう。それではここで私がそれをいただくことにしよう。そうすれば本物だけが生き残れるというわけだ。ふっふっふ」
「黙れ! 気障野郎!」
「私だけが生き残るのだよ。君のような下品な男は私の名を汚す者だ。消えたまえ」そう言うと、その男は両手を庄左衛門の首にかけた。
「ぐぐっ!」手の指に力が込められ、庄左衛門は危うく気を失うところだった。だが勝気な庄左衛門は、何を思ったか、相手に思いきって息を吹きかけた。
ぼっ!
「熱いっ!」
「な、なんと、火を吹いたぜ。俺」
「君はそんな卑怯な手を使うのかね?」もう一人の庄左衛門は左耳を押さえてわなわなと震えている。
「そーかそーか、耳を火傷したんだな、おめえ。ざまあみろっ!」
「私のように勤勉で、紳士的で、将来を約束された者だけが民衆の上に立てるのだ。金と権力を持ち、女の愛情すら思いのままだ」
「あっ!」
「こんな時になんだが、私のフィアンセを紹介しよう」
陽子が俯いて男の横に立っていた。
「や、やろう! 陽子に何をしやがった!」
「この女は私の物だ。君には何の関係もなかろう」その馬鹿にしたような口調に、とうとう庄左衛門は切れてしまった。
「こっ! 殺してやる!」
今度は庄左衛門がもう一人の庄左衛門に突進した。「陽子を離せっ! 今すぐにだ!」
「君とて私と同じではないか。この女をモノにするために私を倒そうというのならば、この女にとって何も変わりはしない。相手の男が入れ替わっただけだ。ま、下品で低俗な君にこの女がなつくかどうかは疑問だがね」
「な、何を言いやがる! 陽子は犬猫じゃねえんだぞ! なつくとかそういう問題じゃねえっ!」庄左衛門は自分がイフリートから授かった火を吹く能力を手に入れたことをすっかり忘れて、もう一人の庄左衛門につかみかかった。
「俺は! 陽子を縛りつけたりしねえ! おめえみたいに、陽子の心を弄びやしねえ!」庄左衛門の右手のパンチがもう一人の庄左衛門の顔面に炸裂した。男は鼻血を飛び散らせてよろめいた。
「そうですか。そちらが本気ならこちらも本気で行きますよ!」もう一人の庄左衛門はポケットから細い鎖を取り出した。
そして庄左衛門に襲いかかった。隙を突かれた庄左衛門は自分の首にその鎖が食い込むのを感じた。激痛が身体中に走った。声も出せず、ただじたばたしていると、丁度左手の拳が男の眉間に命中した。
「ぐっ!」男の力が緩んだ。
パリーン!
眼鏡のガラスが割れる音が響いた。あっけない幕切れだった。もう一人の庄左衛門はその時すでに息絶えていた。荒い息をしながら庄左衛門はもう一人の自分の姿を見下ろした。いつの間にか陽子の姿は消えていた。
「……陽子」
庄左衛門が力なく彼女の名を呟くと、遠くの赤い光がこちらにどんどん近づいてきた。庄左衛門は真っ赤な血の海の中を漂っているように錯覚した。彼はそのまま気を失った。
「ここは、いったい……」剣士はあたりが真っ暗なのと、自分の身体が空中に浮いているのに当惑した。
「来やがったな? この青くさいボンボンめ!」
口汚く罵られて、剣士はその声のする方を見た。唐突に彼の身体に重力が働き、剣士は床に尻餅をついてしまった。
「あーあ、まったく情けないぜ。運動神経あんのか? おまえ」
「あっ! き、君は!」
声の主が姿を現わした。着崩したワイシャツに黒いズボンをはいた剣士自身である。
「『君』ときたか。なよなよしてんな、おまえ」その男は軽蔑したように笑った。
「誰なんだ?」
「俺は馬飼野剣士。覚えときな」
「な、なんですって? 馬飼野剣士?!」
「そうよ。何か文句あっか?」
「違う!」剣士が立ち上がった。「馬飼野剣士は僕だ!」
「ばっかじゃねえのか? 剣士ってのはな、こういうワイルドで喧嘩には無敵のヤツなんだよ。おまえみてえなぴよぴよボンボンが剣士なわけあるか」
「……」
「それよかよ、俺、いいこと聞いたんだ、おまえのそのペンダント、首にかければ強くなれるって本当か?」
「……」剣士はそのもう一人の剣士と名乗る男を無言で睨みつけていた。
「おい、なんとか言えよ! とうとう口もきけなくなっちまったのか? へん! ザマねえな」
「言わせておけば……」
「喧嘩すっか? せっかくだからよ、殺し合いってのはどうだ? どうせ馬飼野剣士は二人もいらねえだろ?」
「僕が馬飼野剣士だ!」
「おーし、決着着けようぜ。俺はよ、素手で行くぜ。ハンデつけてやらあ。おまえその剣でかかって来い。剣士が剣で身を滅ぼすってのもおもしれえじゃねえか」
もう一人の剣士は不敵な笑いを浮かべて斜に構えた。「俺より強いやつはいねえんだよ。この世にな。俺は剣の道を極めてんだ。だから剣はいらねえ。人間みんな俺の手下にしてやる」
「君のような下劣な人は、」
「下劣だあ? へっ、俺はちっとも構わんね。おまえは猫より弱いんじゃねえか? 簡単に殺れそうだぜ」
「ね、猫を殺したんですか? 君は!」
「ちょっとした暇つぶしにな。動物なんてただのクズよ。俺以外の人間もな」
「ゆ、許さない!」剣士は背中の剣を抜いた。
「やっと始めてくれるってわけだ。いつ始まるかって退屈してた所だぜ」
「やあーっ!」剣士はもう一人の剣士に突進した。しかしあっけなく剣先はかわされた。その代わり剣士は相手の強力なケリを食らうことになった。
「ぐっ!」
「止めとけ止めとけ。所詮おまえには無理なんだよ」
「だあーっ!」剣を拾い上げて再び剣士は敵に挑んだ。
「おーお、振り回すのもやっとじゃねえか。やっぱりおまえには剣士って名は似合わねえな」
ガラン……。
剣士は剣を投げ捨てた。そしてもう一人の剣士を睨みつけた。
「な、なんだよ、その目は」
脂汗にまみれ、荒い息を繰り返し吐き出しながら、剣士はぎっと相手を見据えた。あまりの気迫にもう一人の剣士は一歩後ずさりをした。その瞬間! 剣士は床を這うように相手に迫り、首を下から締め上げた。「くっ! 苦しいっ!」油断したもう一人の剣士は喉を押さえてもがき始めた。しかし、剣士は力を緩めなかった。もう一人の剣士の足が床から離れた。そしてその身体が痙攣をし始めた時、
どさりと剣士は相手の身体を床に投げ落とした。そして落ちていた剣を拾い上げると倒れた相手の喉を、えいっというかけ声とともに貫いた。
「ぐええっ!」
間もなく血にまみれたもう一人の剣士の身体は動かなくなった。
「……」
真っ赤な血の滴る剣を取り落として、剣士は力なくその場に座り込んだ。遠くから青い光が近づいてきて、剣士はやがて昔潜ったことのある南国の海の底を思い出しながら気を失った。
ただ白い空間だった。地面も空気も空も一面に白い霧に包まれているような場所だと剣士は思った。遥か彼方からオルゴールのような音が聞こえてくる。
「あっ! 庄左衛門さん!」
彼の横に倒れていた長髪の男が起き上がった。
「よ、よお、剣士か」
「ゆかりさんも!」
二人から少し離れた場所にゆかりは倒れていた。剣士が駆け寄り彼女の身体を抱き起こした。彼女はゆっくりと目を開けた。
「剣ちゃん……庄左衛門も無事でよかった……」
「ここはいったいどこなんだ?」庄左衛門が言った。
「さあ、まだ城の中なのでしょうか……」
「あんたたちも自分自身との闘いに勝ってここに来たの?」
「びっくらこいたぜ。まったく。むちゃくちゃ性格の悪い俺がいきなり現れやがってよお」
「庄左衛門さんもですか。ゆかりさんも?」
「ええ。そりゃあもう、あれ程のいやな女は他にはいないわね」
「でも、それって……」
「ほっほっほ」
「誰でいっ!」庄左衛門が振り向いた。そこには白い髭の老人が立っていた。「あっ! おめえは!」
「よくぞここまで参った。褒めてやろう」老人は満面の笑みを絶やさない。
「おめえが最後のボスか?」
「あわてるでない。もう闘う必要などありはせん。おぬしたちは見事エンディングを迎えたのじゃ」
「エンディング?」
「さよう。おぬしたちがこの世界で初めての違いなく本物の真の勇者じゃ」
「そろそろその勇者の本当の意味を教えていただきませんか?」
「よかろう」老人は三人に近づいた。「言っておくが、わしは導きの神じゃ」
「それは何度も聞いた」
「庄左衛門、おぬし信じるか?」
「何を?」
「神の存在をじゃよ」
「おめえが神なんだろ?」
「この世界ではな。じゃが、わしにもおぬしたちの行く先や本当の目的を決めることなどできはせん。神などというものはその程度のものじゃ」
「何が言いたいんだ?」
「緑の龍に遭ったじゃろ?」
「はい遭いました。彼は僕らの分身と言ってもいいのでは?」
「剣士君は気づいたようじゃの。恐れ入った。その通り。あれはおぬしの心が造り出したと言っても過言ではない。やつはおぬしの『希望』というプラスの思考の化身」
「プラスの思考?」
「ここに来るまでに、もしマイナスの思考や感情が強く働きすぎると、首にかけられた宝石の光が失われ、この世界から出て行ってもらうことになる。つまりその者に訪れるのは死じゃ」
「死?」
「この世界では死は終焉を意味する」
庄左衛門が呆れた様に言った。「どの世界でもたいていそんなもんだぜ」
「旅の途中で何人もの勇者が命を落とし、消えていったじゃろう?」
「確かに……」剣士は俯いた。そしてぼそりと言った。「神様なら救えたのではないですか?」
「おい、剣士、じじいに食い下がるなよ。こいつにどうすることができるってんだ?」
「わしが彼らを消し去ったのじゃ。この世界には必要ないと判断したからな」
剣士は思わず顔を上げた。「そ、そんな! ひどいじゃないですか。人間誰だって生きる権利と価値があるはず、」
「最後まで話させてくれんか? 剣士君」
「……」剣士は黙り込んだ。
「暁 次郎は『快楽的殺意』という感情、明智三郎は『強欲』、湖で石にされた男は『排他優越』、呪文書を奪おうとした女は『絶望』というマイナス感情によって身を滅ぼした。勇者にはふさわしくなかったのじゃ」
「あたいたちがここまで来られたのは、プラスの感情が働いたからなの?」
「そうじゃ。『信頼』、『正義』、『博愛』、『勇気』、『友愛』、『希望』……くさい台詞と思うとるじゃろ? 庄左衛門」
庄左衛門はそっぽを向いたまま少し赤面して言った。「ま、まあな」
「それらのプラスの感情がおぬしたちをここまで導いた。そしてこの後素晴らしい世界がおぬしたちを待っておる」
「まだ先があんのかよ!」庄左衛門が思いきりうんざりしたように言った。
「一つ聞いていい?」
「ん? なんじゃ? ゆかり嬢」
「あたいたちが最後に闘った自分自身、あれはいったい……」
「ここを出て元の世界に戻ればわかることじゃ」
「元の世界って……。何ですか? それ」
「おい、じじい、こっから出たらまた別の世界が待ってるって言うのかよ。まだ俺たちを振り回す気か?」
「ほっほっほ。まあそう怒るな。庄左衛門。わしの役目はここまでじゃよ。後は自分自身の力で生きて行くのじゃ」
「今までだって、俺たちは自分の力で生きてきたんでいっ!」
「そうだったな」導きの神は笑った。「とにかくこの世界から出してやろう」
「またごまかしやがったな」
「おっと、忘れておった。最後に、神としてわしはおぬしたちの願いを聴き届けてやろう。一つだけ叶えて欲しい願いを言うてみるがよい」
「おめえが叶えてくれるのか?」
「神を信じろ。どれ、剣士君、言うてみなさい」
剣士は即座に言った。
「亡くなった人たちを生き返らせてください」
「わかった」
「で、できるんですか?!」
「わしは神じゃ。次はゆかり嬢」
「あたいは……今のままで十分」
「よし、わかった。それを叶えてしんぜよう。どれ、庄左衛門、おぬしは何じゃ?」
「俺は……」庄左衛門は珍しく口ごもった。
「言うてみ」
「陽子にもう一度だけ会いたい」
「陽子さん……。そう言えば、陽子さんて、庄左衛門さんにとっての……」
「わからねえんだ。それがどうしても知りてえんだ。もし、あんたが本当に神なら、あいつが俺にとっての何なのかを知るために、もう一度だけ陽子に会わせてくれねえかな」庄左衛門は少し赤くなった。
「それも叶えてやろう。さらば、間違いなく本物の真の勇者たちよ、達者で暮らすがよい。縁があったらまた会おう」老人は右手を振り上げた。すると、三人の首にかけられたペンダントの紐が切れて、同時に石の輝きもなくなった。
『お疲れさまでした。係の者が参りますまで、そのままお待ちください』女性アナウンサーの声が反響した。突然灯りがついて、剣士は目をぱちぱちさせた。と、目の前の小さなドアが開いてピンク色のスーツとベレー帽を身につけた若い愛想のいい女性が中に入ってきた。きょろきょろと見回すと、剣士はほとんど身動きできないような狭い個室に座っていた。女性は剣士の頭からヘッドギアを取り外した。そのヘッドギアには何本ものコードがつなげられている。剣士は、この女性にどこかで会ったような気がする、と思った。
「少し記憶が混乱するかも知れませんが、すぐに元に戻ります。ご安心ください」その右の目元に小さなホクロのある女性は笑顔でそう言った後、剣士をドアから外に連れ出した。
「出口はあちらでございます。お気をつけてお帰りくださいませ」
剣士は女性が案内した「EXIT」と書かれたプレートの下のドアから外に足を踏み出した。
そこにはたくさんの人が行き来していた。近くにアイスクリーム屋、その隣にクレープの店がある。白い円柱形の建物の向こうには大きな観覧車が回っている。
「思い出したっ!」剣士は大声を出した。近くを歩いていた、ソフトクリームを手に持った少女がびっくりして彼を見た。剣士は少し赤面した。
「ここは国際未来科学博覧会の会場! ぼ、僕はここで超バーチャルリアリティの体験をしたんだ!」
剣士は半ば夢みるような瞳で放心したようにしばらくその場に佇んでいた。「そうか、さっきの女の人は、プリマの村で会った宿屋の若い女将さんだ」
剣士はふと我に返って腕時計を見た。「このパビリオンに入った時からたったの三〇分しか経っていない。信じられない……」
その時、すっと彼の隣に近づいてきた若い女性が口を開いた。「もしかして、あなた剣ちゃん?」
剣士は声の主を見た。
「ゆ、ゆかりさんですか? な、懐かしい……と言うべきか……」
「剣ちゃん、そうしているとただの中学生なのね」
「ゆかりさんこそ。それ、高校の制服ですか?」
ゆかりは白いブラウスに赤いリボン、青地のチェックのスカートを身につけている。
「そうなの。今考えると、なんでこんな格好でここに来てるのか……。恥ずかしいわね」
「僕たち、修学旅行でここに来てるんです」
「そうなの。じゃあ、友達もたくさんここに入ったんじゃない?」
「僕は単独行動してたんです。だから友達なんて誰も中には……」剣士は言葉を濁して俯いた。
「おい、お二人さんよ」
「そ、その声は!」
「庄左衛門? もしかして? うっそー!」
ゆかりは自分の目を疑った。そこには度の強そうな縁なし眼鏡をかけ、グレーのスーツにチェックのネクタイをした男が立っていた。髪はムースで固めた短髪である。
「あ、あんたロンゲじゃなかったの?」
「そういうおめえも、髪はショートじゃねえか。あの鈴はどうしたんだ? あん?」
「え?」ゆかりは思わず自分の頭の後ろに手をやった。
三人は大笑いした。
「俺は落ちこぼれのサラリーマンさ。営業の途中で息抜きだよ。剣士はやっぱり剣なんか持ってない方がいいぜ」
「僕もそう思います。でも僕、学校では剣道部の部員なんです」
「剣道部?」
「全然上手にならなくて……。だいたい型を守るなんてことができなんですよ。先生からもいっつも怒られてるし……。ただ、喧嘩は大好きで、小さい頃からむちゃくちゃ暴れてた。僕、いじめっ子なんです」
「おめえが?」
「……だから誰も相手にしてくれなくて。それで単独行動を」剣士はまた俯いた。「自分を変えたくて変えたくてしょうがなかった」
「で、変えられたってわけだ」
「ありがとう、あなたたちのおかげです。僕は、なんだか生まれ変わったような気がします」
「何言ってんのよ。剣ちゃん自身の力よ。自分を変えられるのは自分だけよ」
「その通りじゃ」
「あっ! じじい!」
「おもしろかったじゃろう? わしのアトラクション」
「あなたは?」
「ここでは神ではないぞ」
「ナリを見りゃわかる」
白い髭の老人は灰色のツナギの作業服を着て、白い野球帽をかぶっている。
「わしはここのオーナーじゃ。あの世界の秘密を教えてやろう」
「わかるの?」
「わしが発明したのじゃからな」
「本当か?」
「簡単に言えば、入場者の脳の働きを総てシンクロさせて、その人間の深層心理を体験させる装置じゃ。体験者はまるで自分がそこにいるかのように動き、見、しゃべり、触り、聴く。入場者同士が出会い、触れ合い、別れたりするのも、ほとんど本物と変わりない」
「そうか、だから現実の記憶が一時的になくなってたんだ」
「そうじゃ。そこが一番難しいところじゃった。過去の記憶というものは時として人を束縛するからのう」
「難しい話ですね」
「ほっほっほ。剣士君にはわかっとるはずじゃ。おお、そうじゃ。わしがわざわざ君たちに会いに来たのは他でもない。最後の導きをするためじゃ」
「いいかげんにしろ。おめえはもう神じゃねえんだから、俺たちを指図すんのはやめてくんねえか?」
「そうはいかん。君たちとの約束じゃから、守らぬわけにはいかん」
「思ったより律儀モンだな」
「まずは剣士君、中の世界で死んだ人間は全て生き返っておるぞ」
「はい。わかってます」
「じゃが、彼らが死んだ後、別のプログラムでお茶を濁したから、もしこの後再会したとしても君たちの話とは食い違うぞ」
「別のプログラム? 何ですかそれ?」ゆかりが尋ねた。
「彼らは死んだ後、奇跡的に生き返り、典型的なロールプレイングゲームの主人公になって最後のボス、こいつはドラゴンなのだが、を倒してエンディングを迎えた」
「ドラゴンを?」
「ただの張りぼてじゃ。中身などありゃあせん。遊びのつもりでここに来た連中は所詮その程度じゃよ。おぬしらのように自分を変えたいなどと奇特なことを考えておる者はなかなかいるものではない」
「へえ。それじゃあ、あいつら、俺たちみてえにあんまり苦労は、」
「しとらんじゃろうな。自分が最強の勇者だ、と錯覚してこの世界に戻ってきておるかも知れん。ま、それはそれで結構なことじゃ。アミューズメント施設としてはな」
「複雑なシステムだこと」
「ゆかり嬢の願いも、」
「はい、叶ってます。どうもありがとう」
「ゆかりさんの願いって、確か今のままで、ってことでしたよね」
「ここに入る前のあたいは、ガリ勉で、冷徹な学者肌の女子高校生だったのよ。友達はあたいのこと『科学者』って呼んだわ。親しみじゃなく皮肉を込めてね」
「……そうか」
「将来は植物学者になろうって思ってた。あ、でもこれは今でもそう思ってる。だけどアプローチの仕方が一八〇度変わったわ。この中の世界のあたいが本当のあたいだって思ってる」
「さて、筑前屋庄左衛門」
「おめえ、最後まで俺を呼び捨てにしやがったな」
「観覧車のふもとに陽子さんは待っておる」
「な、なに?」
「ねえねえ、聞いていいですか? 陽子さんって、庄左衛門さんの、」
「フィアンセだよ」庄左衛門はぼそりと言った。
「フィ、フィアンセ!」
「なんだよゆかり、その驚きようは」
「だ、だって信じられないもの、あんたみたいないいかげんで大ざっぱで、」
ゆかりの言葉を庄左衛門は遮った。
「俺はな、さっきも言ったが、生きがいも何もない社会の歯車のサラリーマンだったんだ。親の決めたフィアンセをただ、結婚後の召使いのように考えてた。煩わしかったんだよ、そんなのがな。俺はただ、家業を継ぐのがいやで今の会社に入ったが、結局自分を見つけられなくて、ふいっと逃げてきたのがここってわけだ」
「家業?」
「俺んちは『筑前屋』っていう米問屋さ」
「時代劇みたい」
「しょうがねえだろ? 本当のことなんだから」
「で? どうするの?」
「彼女を自由にしてやるのさ。俺からな」
「だ、だって、陽子さんだってあなたのことが好きなんでしょ?」
「錯覚さ。俺の。あの世界の陽子は、俺の願望が創り出した幻なんだよ」庄左衛門はため息をついた。「早い方がいいな。俺、行ってくるわ」庄左衛門は駆け出した。
「あ、庄左衛門さん! こ、これからどうするんですか?」
往来越しに庄左衛門は振り返って言った。「俺『筑前屋』を継ぐことに決めた。じゃあな」
「おじいさん、どうなの? そこんとこ」
老人はにこにこ笑っていた。「陽子さんもちゃんと中にいたんじゃよ」
「やっぱり!」
「庄左衛門のやつ、彼女と一緒にここに入ったことをすっかり忘れておるわい」
「じゃあ、二人は、」
「興味あるかの?」
「当然」
「では、追っかけるか?」
「そうするわ! 行きましょ、剣ちゃん」
「はいっ!」
白い髭の老人は手を振って二人を見送った。それからやれやれと腰を伸ばした。
「さて、わしの『サイキック・パビリオン・R.P.G.』には、今度はどんな人間が集まるかの。さ、仕事じゃ」そして彼はその黒い四角錐の建物の中に姿を消した。
The End
最後までお読みいただき、心から感謝します。かなり古典的なRPG展開の話でしたが、超能力を持っていても人間くささを失わないキャラクターを描いたつもりです。感想などお寄せ頂ければ嬉しいです。 金島 宗治




