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Psychic Pavilion R.P.G.  作者: 金島 宗治
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第4章:絶望の地

<第4章:絶望の地>


 剣士にはもはや歩く気力も残っていなかった。身体がやけに重かった。神殿の石段に腰をおろしてただうなだれていた。

「これからどうすればいいんだろう……」

 今までずっと一緒に旅を続けてきた庄左衛門は、自分のもとを離れ、半ば闇雲に山に登って行った。水晶玉がなければたぶん城は見つからないだろう。そしてその水晶玉が手に入る可能性もなくなった。剣士は自分の身体が、それまでの不幸な人間と同じように大地に吸い込まれて消えてしまえばいいとさえ思い始めた。するとその時、剣士の胸に下がったペンダントの輝きが次第に失われ始めた。しかし彼はそれに気づかなかった。

 一方、庄左衛門は廃虚を抜けて森に入った。ゆかりの言った通り細い獣道が登り坂を作っていた。そのくねくねとした暗い道をたどり、やがて森を抜けた。

 吹きすさぶ吹雪の中、庄左衛門は雪山への登山を試みた。道などない雪の原を歩いていると、容赦なく頬を打つ風が、心の中を吹く冷たい空気とともに彼の弱りきった神経を痛めつけた。何が彼の足を動かせるのか、彼自身にもわからなかった。山頂の城に陽子がいることすら忘れて、ただ何かに突き動かされるように彼は歩き続けた。頬を伝う汗なのか涙なのかわからない雫は、すぐに凍って宝石のように輝き、いくつも雪の上に落ちて行った。その代わり、庄左衛門のペンダントの赤い輝きが、一歩歩く度に薄れていっていた。彼もそのことに気づくことはなかった。


「剣ちゃん!」

 膝を抱え、うずくまって俯いていた剣士はその聴き馴れた声に思わず顔を上げた。

 息を切らしたその声がもう一度剣士を呼んだ。「剣ちゃん!」

「ゆかりさんっ!」剣士は思わず立ち上がった。「ゆかりさん! 無事だったんですね? 良かった、ああ、良かった……」剣士の目から涙がこぼれた。

「庄左衛門は?」

「……」

「剣ちゃん?」

「行ってしまいました」

「やっぱり! 罠よ! すぐに後を追うの!」

 ゆかりは剣士の手を引っ張って、廃虚の中を走り出した。

「一人で山に向かったってわけね?」

「そうだと……思います」

「あなた、彼に訳もなく罵られたでしょ? それに魔物扱いされたり、」

「な、なぜそれを?」

「やっぱりね。まんまと引っかかったってわけね」

「ゆかりさん」

「ここは『絶望の町』と言ってね、長く留まっていると人の心に絶望感を膨れ上がらせてしまうの」

「絶望? た、確かに僕もそんな気分になってた」

「この森ね?」

「そうです」

 ゆかりは濡れた髪を掻き上げて獣道に踏み込んだ。

「庄左衛門が全ての希望をなくす前に、見つけないと。急ぎましょう」

「はいっ!」剣士は威勢良く言った。


「あっ! あそこ!」剣士が叫んだ。森を抜けた所はもう白銀の世界だった。廃虚との標高差がそんなにあるとは思えないのに、ここはもう万年雪に閉ざされた死の世界としか言いようがなかった。

「庄左衛門!」

「庄左衛門さん!」

 二人は雪の中に倒れている庄左衛門に駆け寄った。

「目を開けるのよ!」ビシバシと容赦なくゆかりは庄左衛門に平手打ちを浴びせた。

「起きて! 起きてください! 庄左衛門さん!」

 庄左衛門の胸に下がった赤い石の輝きは僅かしか残っていない。

「目を開けて、これを見るのよ!」ゆかりが懐から水晶玉を取り出した。

「庄左衛門さん! 死なないで!」剣士がひときわ大きな声を振り絞ると、庄左衛門の瞳がほんの少し開いた。

「け、剣士……」

「庄左衛門さんっ!」

 水晶の輝きが庄左衛門の瞳に宿った。そして彼のペンダントにも再び鮮やかな光が戻った。

「お、俺は……」庄左衛門は上体を起こした。

「庄左衛門さん! ああ、よかった。助かって本当に良かった」剣士は庄左衛門に抱きついた。

「お、おい、剣士、やめろよ」そう言いながらも庄左衛門は剣士の腕を振りほどきはしなかった。

「も、もう大丈夫……」ふらふらっとゆかりがその場に倒れ込んだ。

「あっ! ゆかりさん! ゆかりさん!」剣士はゆかりの額に手を当ててみた。「す、すごい熱!」

「よし! 剣士、ゆかりは俺が背負って行く。手を貸せ」

「は、はい」剣士は目を赤くしておろおろした。庄左衛門はゆかりを背負いながらどやしつけた。

「ばかやろう! もたもたすんじゃねえ! 早くしねえと、こいつ肺炎を起こしちまうじゃねえか!」

「ご、ごめんなさい……」剣士は庄左衛門を立たせて、ゆかりをかばうように身を寄せた。

「とりあえず廃虚に戻って休ませようぜ」


「で? ゆかりはここが絶望の町だと?」

「ええ」

 神殿の裏の温泉のある庭園の柔らかい草の上にゆかりを寝かせて、庄左衛門は自分のケットを彼女の身体にかけてやった。額には藍染の手拭いが当てられている。

「確かにわかるような気がするぜ。にしても、なんでゆかりはそんなことを知ってたんだ?」

「湖の中で何かあったんでしょうか……」

「そうとしか考えられねえな」

「……湖の中で、」ゆかりが小さな声でぽつりと言った。

「お、おいゆかり、起きてたのか?」

「ドラゴンの姿を捜している時に、たくさんの醜悪な顔をした怨霊があたいを襲ったのよ」

「怨霊だと?」

「この湖で死んでいった人間の怨霊。口々に『邪魔してやる』とか『おまえらだけ先に行かせてたまるか』とか言ってたわ」

「おっそろしい所だな、まったく」

「あたいも泳ぎは得意だけど、こうも邪魔されるとね、ドラゴンを捜すどころじゃなくって」ゆかりは上体を起こしかけた。

「ばか、寝てろ。無理すんな」庄左衛門はあわててゆかりの身体に手を差し伸べ、再びゆっくりと彼女を横たえた。それを見て剣士は、庄左衛門がゆかりと自分にはなくてはならない、かけがえのない家族ような優しく頼もしい存在に思えた。

「だが、おめえ、長いこと水面に出てこなかったじゃねえか。俺たちはてっきり死んだとばっかり……」

「実際、湖上には出られなかった。でも、不思議なことに息は苦しくなかったわ」

「何だと?!」

「ゆ、ゆかりさんて、ま、まさかエラ呼吸を、」

「おめえは黙ってろ」

「あ、はい」剣士は赤面して言葉を引っ込めた。

「で、ゆかりは怨霊に捕り殺されることもなく水晶玉を見つけたってわけだな?」

「結果的にはね。でも、あの怨霊たちはあたいを殺すつもりはなかったみたい」

「何でだ?」

「だって、殺してしまえばそれっきり。でも生かしておけば、それも長く湖の中に監禁しておけば、あんたたちがあたいを死んだと思って絶望しちゃうでしょ?」

「そうか。ということはだ、俺たちだけじゃなく、ゆかりもそいつらに苦しめられてたわけだな?」

「焦ったわよ。あんたたちがあたいを待ってるだろうな、ってね」

「浮いてこなけりゃ死んだとしか思いませんよね。確かに」

「で、ドラゴンは?」

「怨霊たちを振り切ってドラゴンを見つけた時は、虫の息だった」

「そうか。やっぱり酸の水でなければ生きていけねえ身体だったんだな」

「ドラゴンは、いまわの際にあたいに言ったわ。『我の右目をくり抜け。』」

「め、目を?!」

「目がその水晶玉ってわけ」

「こ、これはドラゴンの目玉……」庄左衛門は水晶玉をしげしげと見た。

「そして『これによりて、仲間を絶望より解放せよ。この輝きを彼らの瞳に宿らせよ。』って言って息絶えたの」

「そうか。俺が回復したのも、ドラゴン様の御利益だったってわけか」

「絶望の町……きっと、町中の人々が絶望して滅びたんでしょうね。でも、どうしてこんなに美しい所なのに、人々は希望を失ってしまったんでしょう」

「さあな。ま、何か深い訳でもあったんだろうが、んなこた俺たちにゃ関係ねえよ。ところで、ゆかり、おめえの熱を下げたいんだが、何かいい薬草はねえのか? このあたりに」

「森に入ったところに、30cmぐらいの草丈の穂をつけた植物があったでしょ?」

「穂?」

「そう。それをそこに生えてるだけ。一抱えぐらいはあったと思うわ。みんなで食べましょ」

「ばか、薬草だよ薬草」

「なによ! あんたもお腹すいてるだろうと思って提案してんじゃないの」

「余計なお世話だ。人のこと心配してる場合じゃねえだろ?」

「わかったわよ、ほんっとにいちいちうるさいんだから」

「早く薬草の材料を言え」

「ちょ、ちょっと、庄左衛門さん、ゆかりさん、病人なんだから」剣士が間に入った。「ゆかりさん、僕らが採ってきてあげますから何なりと」

「こんな風に優しく言えないわけ? 庄左衛門」ゆかりは庄左衛門を睨みつけた。

「けっ!」そのサングラス男は思わずゆかりから目をそらした。

「赤い幹のスギに似た木、これも確か森にあったはずだけど、その葉をひとにぎり。それからお花畑に咲いてた黄色い花びらに紫色の縁どりがあるやつ、それを一株。根もつけてね。それだけあればなんとかなるわ」

 庄左衛門は立ち上がった。「よし、わかった。剣士、おめえはお花畑に行ってその花を採って来い。俺は森に行ってくらあ」

「わかりましたっ!」

 二人の男はその風呂の庭園を飛び出した。ゆかりは口元に少し微笑みを浮かべて、小さなため息をついた後、また目を閉じた。


「遅かったじゃねえか。剣士。ん?」

 剣士は袋を担いで戻ってきた。「よいしょっと」彼はその袋を床に置いた。

「なんだあ? その袋」

「ちょっとあちこち回って、他に食べられるものを捜してきました。結構ありましたよ」

「食いもん?」

「はい。庄左衛門さんもお腹すいたでしょ?」

「そう言われれば……」

「日陰麦が思ったよりたくさん集まったみたいよ、剣ちゃん」

「ああ、例の森の植物ですね? 庄左衛門さんが採ってきてくれた。でも、どうせならもっとスタミナをつけなきゃ」

「ほほう」庄左衛門は身を乗り出した。

「さっそく調理しましょう」

「ちょ、調理ったって、おめえ、ここにゃ鍋も何も……」

「任せてくださいよ。それより庄左衛門さん、まずはゆかりさんに解熱剤を投与しましょう。材料をください」

 剣士は庄左衛門から赤い幹の杉の葉を受け取り、自分で採ってきた花を取り出した。

「処方知ってるの? 剣ちゃん」

「この薬は有名ですもん」剣士はそう言って、花の根を外の水で洗い、花びらをむしり取った後、石の上でつぶした。それに杉の葉を混ぜてまたつぶした。細かくなったその緑色のものを布に包み、さっきむしり取った花びらにたらした。すると、黄色い花びらはみるみるうちに赤く変色した。

「げ! 黄色い花びらが赤くなりやがった!」

「さあ、できました。ゆかりさん。どうぞ」剣士が差し出したその赤く変色した花びらをゆかりは受け取ると、自分の眉間に張り付けた。

「な、なんでい、飲み薬じゃねえのか」

「よく効くんです。これ」

「へえ」

 庄左衛門は疑いの色を隠さなかった。だが、ゆかりが本当に身を起こして笑ったので彼はそれを信じなければならなくなってしまった。

「お、おい、ゆかり、おめえ本当に熱下がったのか?」

「触ってもいいわよ」

 ゆかりの額に手を置いた庄左衛門はびっくりして思わず手を引っ込めた。

「ほ、本当だ……」

「さて、それでは食事にしましょう」

 剣士は袋を逆さにして中の物をどさどさと広げた。

「おい、そのすっぱそうなみかんみたいなのは何だ?」

「アシルの実です。ビタミン補給用です」

「その葱みたいな黄色いのは?」

「滋養葱です。カルシウムとミネラルが豊富な栄養価の高い植物です」

「剣ちゃん、よく見つけたわね」

「で、その大豆みたいな豆は?」

「これは寒地豆。良質のタンパク質ですよ。この豆のタンパク質はアレルギーも出にくいっていう話です」

「そのでろでろしたのは何だ?」

「もしかして、と思って捜したらありました。湖の中にあった太平昆布です」

「酸の水で育ったのかね……」

「さあ、どうでしょう。でも、普通の太平昆布と全然変わりませんよ」

「で、その不細工な形のいかにもまずそうな茶色いものは……。そいつぁ、何かの実か?」

「これこそ天が我々に与えてくれた、素晴らしい恵みの木の実、スージャの実です」

「スージャの実? 何じゃそりゃ?」

「こいつは飲物です。うまいんだから」

「これが?」庄左衛門はその実を手に取って眺め回した。

「さてと、」剣士は寒地豆を布に包んで温泉に浸した。滋養葱も温泉の湯で洗った。するとその細い髭のような植物はすぐにしんなりとなった。次に彼は太平昆布の端を手に持っておもむろに背中の剣を抜くと、素早く縦に切り裂いた。

「おおっ! こりゃまるで、」

「人呼んで昆布そうめんです」

「何じゃそりゃ。しっかし、おめえの剣さばき、見事だな」

「ありがとうございます」

 剣士は今度はアシルの実を手に取り、空中に投げ上げると、剣を構えて素早い突きを繰り出した。「あちゃちゃちゃちゃっ!」

 その実が彼の手に落ちてきた後、ぱかっ! 見事に6等分の櫛形切りになっていた。

 思わずゆかりが拍手をした。「お見事っ!」

「……おめえ、その剣、実は闘うためのもんじゃなくて、包丁代わりだったんだな?」

「さあ、お召し上がりください」剣士はいびつなスージャの実の底の部分を平らに切り取って浴槽の縁に三つ並べ、気合いと共に上の部分をスパッと切り落とした。天然のカップの出来上りである。

「さあ、庄左衛門さん、飲んでみてください」

「あ、ああ」庄左衛門はその茶色い妙な形のカップを手に取った。中には乳白色の液体が入っていた。「うまいのか? これ……」

「ご心配なく。さ、どうぞ」

 庄左衛門は恐る恐るその白い液体を口にしてみた。ゆかりはおもしろそうにその様子を見ていた。

「おおっ! こ、これは!」

「お口に合いましたか?」

「な、なんだか、こう、甘くてなめらかで、ん? アルコールっぽいな」

「ご名答! アルコール入りよ」

「へえ」庄左衛門はにやにやした。

「そういうところは、さすがに大人って感じですね。庄左衛門さん」

「褒めてやろう。剣士」

「そういう時は褒めるんじゃなくて感謝するんでしょ? 普通は」

「いいんです。ゆかりさん。僕、庄左衛門さんの笑顔が久しぶりに見られて、うれしいな」

 それから三人は煮上がった寒地豆、滋養葱のぐるぐる、日陰麦のおかゆ、太平昆布そうめん、デザートのアシルの実を、風呂の脇で食べ始めた。

「おい、このぐるぐる、味がねえぞ」

「そうだった。忘れてた」剣士はポケットからどんぐりのような木の実を取り出した。

「何だ? そりゃ」

「これはソイの実」

「ソイ?」

「こうやって、」剣士が滋養葱のぐるぐるの上で、その実を指でつまむと、先端から黒い液体がほとばしり出た。

「いわゆる醤油の実です」

「へえ、そんなんもあるのか。自然の驚異だな」


「うー。久々に満足した。いい食事だったぜ」

「菜食も時にはいいでしょ?」

「確かに」

「さて、お腹もいっぱいになった所で、これからの行動の作戦をたてましょう」

「そうだな」

「ドラゴンの残した言葉によると、次に僕たちがしなければいけないことは……」

「④廃虚で門を開く。⑤聖水を手に入れる」ゆかりが言った。

「門? どこにあんだ? そんなの」

「この水晶玉で開くわけよね。呪文書には『不動の門』って書いてあったと思ったけど……」

「確かそうだったな」

「また捜しもんか。いいかげん嫌になってくんな。まったく」

「推理しましょう」剣士は腕組みをした。「『不動の門』ということは、動かないってこと」

「当り前だがその通りだな」

「でも、この遺跡に壊れていないドアのようなものはなかった」

「つまり、みんな不動の門とは言えないってことよね」

「でも、その門はこの廃虚にある」

「とすれば、」

「地面だ!」

「そうか、地下室があるんだな」

「どこが怪しい?」

「ううむ……」剣士は考え込んだ。「怪しいわけではないんですけど、ありがちなのは中央広場ですね」

「よし、行ってみよう」庄左衛門はすっくと立ち上がった。二人も後に続いた。


 彼らがこの廃虚に入って最初に立った場所である。

「異様に平らだと思いませんか?」

「石畳がぎっちり隙間なくはめ込んであるな。しかも真ん中あたりだけ雑草が生えてねえ」

「下が土の地面じゃないってことね」

「で、この水晶玉をどうするって?」庄左衛門がそう言って懐から水晶玉を取り出した途端! 何と、石畳の一部ががらがらと音をたてて崩れ始めた。ゆかりは素早く飛び退いたが、「うわわわわーっ!」男たちは瓦礫と共に地下室に落ちて行った。その時庄左衛門が放り出した水晶玉はゆかりがすかさず手にとった。

 四角い大穴が広場の中央に口を開けた。

「ちょっとお、大丈夫? 二人とも」

「だ、大丈夫です」

「ったく、なんちゅう仕掛けじゃ」庄左衛門は瓦礫をかき分けながらぶつぶつ言った。

「ずいぶんあっけなく開いたわね」

「まったくだぜ」

「不動の門って言う割には……」

「おい、ゆかりも早く降りて来いよ」

 ゆかりは身を翻して、相変わらず髪の鈴を鳴らすことなくその地下室に飛び降りた。

 彼らが落ちた所から、その穴と同じ幅で細長く地下室は続いていた。奥は暗くてよく見えない。

「行こうぜ」

「あ、ちょっと待って」剣士はランプに灯を灯した。

「やや? 壁がありますね」

「壁じゃねえ。鉄の扉だぜ」

 観音開きの重そうな金属製の大きな扉である。龍の紋章が彫られている。

「サビてるな。開けられっかな」庄左衛門はそのドアの把手を握って前後にゆすってみた。「やっぱり動かねえな」

「どうしましょう……」

「あたいに任せて」ゆかりはポケットから一枚の木の葉を取り出した。

「そんな葉っぱで何する気だ?」

「いいから黙って見てて」

 ゆかりはその葉を扉の隙間にはさんで何度かしごいた。それを数枚の葉で上から下まで根気よく繰り返した。そうして腰を伸ばすと、把手に手をかけて引いてみた。がこん、という大きな音がした。

「な、なんと!」

「開きましたね。ゆかりさん、その葉はいったい」

「バールの葉よ。鉄錆を分解する成分を持っているの。潤滑作用もあるわ」

「よくそんなん、持ってたな」

「入るわよ」

 三人はその部屋に足を踏み入れた。期待したほど広い部屋ではなかった。

「墓場ってわけでもなさそうだな」

「秘密の部屋には違いなさそうですね」

 きれいなものだった。うっすらと埃は積もっていたが、壁も天井も崩れていなかった。そんなことより、三人の目を引いたのは壁面から床、天井へと、一面に彫られた一匹の緑の龍の姿だった。ドアから入って正面の壁にその頭部が描かれている。極めてリアルな、今にも動き出しそうな浮き彫りである。

「こりゃ、間違いなくあの湖の主だぜ」

「そうみたいね」

「で、聖水はどこにあるんだ? ここが行き止まりだろ? それとも隠し扉か何かがあんのかね」庄左衛門は壁や床を調べ始めた。

「変ですね。ん?」剣士は何かに気づいたようにランプを目の高さまで持ち上げてみた。

「どうした? 剣士」

「龍の目が光ってる」

「本当か?」庄左衛門は剣士が言った龍の彫刻に近づいた。「お、本当だ! おい、ゆかり、」

「何?」

「その水晶玉とおんなじもんがここにもあるぜ」

 ゆかりもその彫られた龍の頭部に歩み寄った。「左の目だけに水晶玉が……。ということは右目にこれを」そう言いながらゆかりは持っていた水晶玉を龍の右目にはめ込んでみた。

 ゴゴゴゴゴゴゴ!

「お、おい、な、何だ? 地震か?」

「ゆ、床が揺れてますっ!」

「壁が崩れかけてるわ!」ゆかりが叫んだ。

「あっ!」剣士も叫んで壁を指さした。なんと! 絵の龍が実体化して動き出しているのだった。

「うわわわっ!」庄左衛門は尻餅をついた。剣士は壁に張り付いている。ゆかりだけがその場に立って龍の動きを目で追っていた。龍の身体は次第に鮮やかな緑色に変色していった。

 ガラガラガラ。天井の一部が崩れ落ちた。生命を得たその緑の龍は、そこにいる三人を一人ずつぐるりと見回すと、何かを決心したように翼を広げて外へと飛び出して行った。

 部屋の中は砂ぼこりがもうもうと立ちこめていた。唖然とした庄左衛門と剣士をゆかりは揺さぶった。「ちょっと、ちょっと、二人ともしっかりしなさいよ」

「え? あ、ああ」

「い、今のは、いったい……」

「聖水よ。石板も一緒に置いてあるわ」

「なにっ? 聖水?」

「石板もですって?」

 龍の頭部がはまっていた壁に開いた大きな穴の奥に小さな緑色の瓶とカコウ岩の板が納まっていた。

「これが、聖水……」庄左衛門は感慨深げにその瓶を手に取った。手のひらに納まってしまうほどの大きさで、よく見ると瓶自体ではなく、中の液体が緑色をしているのだった。

「こ、この聖水でファゲル城に行けるのか」

「ファヴェル城でしょ?」

「そ、そうだ。ファヴェル城だ」

「でも、ファヴェル城って、どこにあるんでしょう」

「陽子をさらったやつは雪山の山頂だって言ってたよな」

「そう言えば」

「湖のドラゴンは、城の姿を映し出す聖水なんて言ってたわよ」

「映し出す? 何のこっちゃ」

「さっぱりわかりませんねえ」

「とにかく、この石板を読んでみましょう」

「そうだな……っと、俺には読めねえんだった。湖に沈めた呪文書と同じ文字だぜ。ゆかりも無理だよな」

「ちょっと貸してください」剣士がその石板を手にした。「よ、読める!」

「な、何だと? お、おめえあの時読めなかったじゃねえか」

「でも、本当なんです」

 ゆかりが腰に手を当て、言った。「たぶん……剣ちゃんはあの龍に力を与えられているのよ。そうとしか思えないわ」

「確かに辻褄は合う。で、何て彫ってあるんだ? 剣士」

「『ファヴェルの城を見上げるこの町、城の邪悪なる力によりて完成を待たずして滅びぬ。町の建設に携わりし者、その怨念を湖に沈め、かの湖は死の世界となり果てぬ。ファヴェルの魔を葬り去らんと、一体の緑の龍、魔界より降り立ち、湖に身を潜め城を解放する者を待ち続けしものなり。かの龍……』」剣士は石板から目を離した。

「おい、剣士、どうした? 続きは?」

「見える、見えてきた、この町の過去が」

「み、見えるって……」

「この町は建設途中で放棄されたもの。そうか、だから生活に必要な物が全然なかったんだ。楽園を夢みて町を造り始めた人たちは、城の邪悪な想念に取り巻かれて建設を諦めた。それだけじゃない、人々は湖に次々に身を投じ、その時の人々の絶望と向け所のない怨みのエネルギーがここに残った。ゆかりさんが湖の中であった幾多の怨念がそれですよ」

「ど、どうしてそんなことがわかるんだ? 剣士」

「僕の頭の中に、誰かがこの知識を送り込んでいるんです」

「頭の中に?」

「あのドラゴンかしら」

「あの緑の龍は、もともと城にいた邪悪な者の分身だった。彼は、改心してこの廃虚に来て、町の建設に力を与えようとした。人々もその龍を崇め、そしてここに奉られた。でも城の悪の想念によって人が絶えると、龍もここにいられなくなり、邪悪な怨念に満ちた死の湖に住まざるを得なくなった」

「そうか、龍ももともとは邪悪な者だったわけだしな」

「でも、その時、城を封印した。人々の目に触れないように……」

「封印? どうやって?」

「それは僕にもわかりません。でもこの聖水が何かの働きをしたんだと思います」

「だろうな。なにしろ城を映し出す聖水って話だかんな」

「自分の中の善と悪の心に揺れながら、ドラゴンは城にいる悪の根源を討つために、あの湖で適任者を待ち続けたんだ。いや、適任者じゃない、彼自身を」

「彼自身?」

「もともと魔界の者であった緑の龍は、同じ境遇の勇者を待ち続けて、僕たちに会った。そうなんですよ、庄左衛門さん、ゆかりさん、僕らはあの緑の龍と同じ境遇なんだ。だから彼が僕たちに力を貸してくれるんだ」

「僕らって、ドラゴンが目をつけたのはおめえだけだぜ、剣士」

「きっと、最後の悪を倒すのが剣ちゃんなのよ」

「いや、そういうことじゃない。あのドラゴンの願いが僕だけに向けられたものならば、僕は本来庄左衛門さんが疑ったとおり魔界の者で、それ以外の者は排除されたはず。だけど、一緒に旅してきた庄左衛門さんとゆかりさんに僕は支えられたし、あなた方の命も保障された。それはあの龍の願いの一つだった。つまり、あなた方も僕と同じ境遇を持つ者なんだ」

「な、何だよその境遇ってのは」

「魔界を離れて改心した者……。そして悪の自分を倒す者……」

「あ、悪の自分だあ?」

「僕らを待っている本当の敵の正体がわかったような気がします」

「剣士……」


 三人はその地下室で一晩明かした後、廃虚を後にした。まるで彼らの行く手を阻むような吹雪の朝だった。お花畑も湖の向こうの火山も真っ白な雪に覆われている。

「これも、魔界の者の仕業か?」

「そうかも知れません」

「まったく、目も開けていられねえな」

「あたいらが本格的に行動を開始したから、邪魔を始めたってわけね」

 激しくざわめく森を抜け、彼らはオフホワイトの山道を登り始めた。道なき道だった。先頭に立った剣士は時折振り返りながら後の二人を励ました。ゆかりが廃虚の近くで見つけた温根菊の根を時折り口にいれて噛みながら、三人はしっかりした足取りで進んで行った。

「ゆかりのおかげで、」庄左衛門が口を開いた。「そんなに寒く感じねえな」

「ほんと、身体が温まりますね。この根」

「消化に悪いから飲み込んじゃだめよ。味がしなくなったら捨ててね」

 太陽がどこにあるのか、廃虚を出てどれくらいの時間が経ったのか、まるで見当もつかなかった。周囲の景色はただ白いだけである。お互いの姿を確認するのがやっとの状態がずっと続いた。

「少し休みましょう」剣士が言った。「寒地豆があります」剣士は懐からその豆を取り出して二人に分け与えた。

「凍ってやがら」じゃりぼり。庄左衛門はその小さな緑色の豆を頬張った。

「本当にこの上に城があんのかね」

 剣士が聖水を取り出した。「城の姿を映し出す……でしたよね」

「どうやってそんな小せえ瓶に映るのかね」

「でも、映ったところで、どうやって……」

 剣士が何気なくその小瓶を目に近づけた。「み、見えたっ!」

「な、なにっ?!」

「もう、すぐそこにある」

「貸してみろっ!」庄左衛門がその瓶を剣士から取り上げて同じように透かして見てみた。「で、でかい!」

「こうやって初めて、」ゆかりもやってみた。「見えるのね」

 彼らのもうほとんど目の前にその城はあった。石積みの極めて精緻な造りの巨大なものだった。

「これで透かして見ると、吹雪も見えなくなるのね」

「行きましょう、ゆかりさん、庄左衛門さん」

「よし」

 三人は立ち上がり、その城を目指した。剣士が聖水の瓶を通して、城門を確認しながら近づいた。

「これが、その、あれっ?!」

「どうした?」

「門があるのに触れない」

「なにい?!」庄左衛門もやってみた。「確かにここにあるのに、何もねえな。まるで幻の城だぜ、こりゃ」

「どうすんのよ。それじゃ中に入れやしないわ」

「ううむ……」庄左衛門がうなった。吹雪が容赦なく三人を襲う。瓶の中にしか、その城はない。彼らの普通の目にはどう見回してもただ白い世界が広がっているばかりである。

「中身は聖水……」剣士は考え込んだ。そしてしばらくして彼は顔を上げて叫んだ。「そうだ! 緑の聖水だ!」

 剣士は庄左衛門からその瓶を取り返すと、おもむろに空中に投げ上げた。

「お、おい、剣士」

 そうして剣士は背中の剣を抜くと、落ちてきたその瓶に斬りつけた。パキーン!

 ばっ!

 そういう音がしたように庄左衛門は思った。その瞬間、あたりの雪も吹雪も全て消え失せ、青々とした空がまぶしく広がった。そして、彼らの目の前に、威圧するように赤銅色の城門が姿を現わした。

「な、何が起こったんだ?」庄左衛門が目をしばたたかせた。

「信じられないわ。聖水にこんな力があったなんて」

 三人の足元の雑草の中にガラスのかけらが散らばっていた。

「吹雪の方が幻影だったのか」

「さあ、中に入りましょう」

「そうだな」庄左衛門はごくりと唾を呑み込んだ。

 城門は重かったが、わりとあっけなく手前に開いた。踏み込んだ所は赤い絨毯が敷き詰められた豪華な大広間だった。大理石の大きな柱が何本も立っている。そして彼らが入って正面にやはり赤い絨毯の敷かれた階段があった。

「こ、ここがバヴェル城……」庄左衛門はあっけにとられて城内を見回した。

「ファヴェル城だってば」

「そ、そうだったな」

「物覚えが悪いわね」

「うっせえ」

「まあまあ、喧嘩しないで」

「おい、剣士、俺たちが闘うべき敵ってのは、いったいどこにいるんだ?」

「たいてい、城の最上階ってことになってますけど」

「なんでだ?」

「さあ、」

「さあ、って、おめえ……」

「なんとなくそんな気がするだけです」

「どうせ、上に行くつもりなんでしょ?」ゆかりが言った。

「他に行く所ねえしな」

 三人はおっかなびっくりではあったが、その正面の階段を昇り始めた。

 ガコオン……。

 背後で城門の閉じる重い音がした。

「逃がさねえつもりだな?」

「覚悟の上です」

「そうだな、どうせ帰る所はねえんだ」庄左衛門は半ば自分に言い聞かせるように呟いた。

 やけに長い階段だった。途中何度も折れていて、しかもだんだんと幅が狭くなっている。それにつれて、あたりは次第に暗くなっていった。そして階段を昇りきった所から長い廊下が伸びている。両側の壁に燭台があり、蝋燭のかぼそい光が三人を不気味に包み込んだ。

「暗いな……」

「そりゃあね。グラサン取れば?」

「そうだな。また俺の特殊技能が役に立つ、」庄左衛門は自分のサングラスを外しながら、言いかけた言葉を呑み込んだ。「!」

「どうしたの?」

「赤外線が感知できねえ!」

「な、何ですって?!」剣士が立ち止まった。

「グラサン取っても、蝋燭の光しか見えねえ……」

「……どうやら、」剣士が陰気な声で言った。「ここはかなり物騒な所らしいですね。庄左衛門さんの目が効かないとなると……」

 剣士はそう言いながら、その場にしゃがんで担いでいた袋の中からランプを取り出した。そしてマッチをすって火を着け、立ち上がった時、

 ひゅっ! びしっ!

「痛っ!」ゆかりが叫んだ。

「どうしたんです?」

「何かが飛んできたわ。もしかしたら、トラップかも」ゆかりは左頬を押さえて言った。

「トラップ?」

「怪我したのか? ゆかり、おい!」ゆかりの指の間に血が滲んでいるのを見て庄左衛門は大声を出した。「血が出てるじゃねえか!」

「えっ!」剣士は動揺した。「だ、大丈夫ですか? ゆかりさん!」

「大丈夫。かすめただけ……」ゆかりはポケットから薬草を取り出すと、手のひらで自分の唾液と混ぜ、傷口に当てた。

「もしかすると、」庄左衛門だった。「ゆかりも普通の人間になっちまったのかも知れねえな」

「普通の?」

「そうさ。いつものゆかりなら軽くよけてたところだぜ」

「……」ゆかりの表情は曇っていた。

「だったら、僕のこの剣も役に立たないってことですね」

「心して進まねえとな」

 三人は一歩一歩、回りに神経質に気を配りながら進んだ。

 ひゅっ! びしっ!

「痛い!」今度は剣士だった。右腕を押さえている。

「剣士!」

「だ、大丈夫です」

「また何か飛んで……」

 剣士は腕を押さえたままで通路の壁に走り寄って、その床のあたりをランプで照らして調べ始めた。

「これだ!」

「ん? 何だそれは?」

「小さな矢のようなものですね」

「矢?」

 爪楊枝を少し長くしたような木の矢だった。

「ちょっと見せて、剣ちゃん」

 ゆかりは剣士からその矢を受け取り、剣士のランプのそばで調べてみた。

「ただの爪楊枝ってとこかしらね。毒が塗ってあるわけじゃ……ないみたい。たぶん」

「そうか、不幸中の幸いってとこだな」

「誰かが俺たちを狙ってんのかね」庄左衛門はあたりを見回した。

「あまり自信があるとは言えないけど、」ゆかりが口を開いた。「あたいたちの他に人の気配はない……と思うわ」

「そうか」庄左衛門はゆかりの肩を軽く叩いた。「元気出せよ。ゆかり」

「……」

「燭台です」剣士は今度は反対側の壁に取り付けられた燭台を調べている。「この燭台の下に仕掛けがあるようです」

「仕掛け?」庄左衛門も剣士の調べていた燭台に注意深く目を近づけた。蝋燭の立っている台の下に施された小さな獅子のレリーフの口に、さっきの矢が丁度通り抜けられるぐらいの穴が開いている。「どうやらそのようだな。ふっ、落ちぶれたもんだぜ。蝋燭一本一本に怯えて歩かなきゃなんねえとはよ」庄左衛門は半ば自嘲気味に言った。

 それから三人は、燭台のある場所を通り過ぎる時は身を低くして進んだ。そうして長い時間をかけて、やっと彼らは廊下の端までやってきた。

 また暗い階段があった。一段と狭い。無機質な石の表面がむき出しの冷たい階段だった。

 先頭の剣士が数段その階段を昇った時、突然彼らの足元を巨大なネズミがうろつき始めた。いや、うろついているのではない、三人を標的にして襲いかかってきたのである。

「くっそう! こんな時にネズミとはな!」

 案の定ゆかりは青い顔をして庄左衛門にしがみついている。庄左衛門はゆかりをかばいながら、一匹のネズミを蹴飛ばした。「あいたたっ!」

「どうしたんです? 庄左衛門さん!」

「脚に、か、噛みつきやがった」庄左衛門は左手の人差指と親指を立てて、なにやら呪文を唱えた。しかし何も起こらなかった。「だめだ! 魔法も封じられた!」

 剣士はそれでも果敢に剣を使ってネズミたちを追い払っていた。「け、剣が重い!」

「走れ! 剣士、ゆかり!」庄左衛門が叫んだのを合図に彼らはその階段を駆け上がった。


 ネズミは追って来なかった。

 階段を昇りきったフロアはまた赤い絨毯が敷き詰められた大部屋だった。大理石の柱も立っている。四方の壁にはいくつかの燭台があり、左右と正面にドアがあった。そのいずれの表面にも龍の彫刻が施してある。

 庄左衛門が正面のドアに近づこうとした時、その行く手を塞ぐかのようにモンスターが突然現われた。獣のようでもある、しかし、その凶暴な目付きと醜悪な姿は地上の獣の比ではなかった。

「ついにここまで来たか……」

「おめえは誰だ?!」

「我はこの聖なる魔の部屋を守る火の使者イフリートだ」

「イフリート?!」

「ここから先は行かせぬ」イフリートはそう言うが早いか庄左衛門に火を吹いた。

 ちりっ! 「あちっ!」庄左衛門は肩を押さえた。マントが黒く焼け焦げ、煙を上げた。

「魔の部屋とあれば、僕らはどうしても中に入らなければなりません!」剣士が剣を振り上げてそう叫んだ。

「ばかめ、剣術を忘れた剣士なぞ、恐くも何ともないわ!」イフリートは今度は剣士に向かって火を吹きかけた。

 ごおーっ!

「そう何度も同じ手に引っかかりません!」剣士はその炎を避けてイフリートに突進した。しかし、彼の剣は虚しく宙を斬っただけだった。

「えいっ!」ゆかりの声だ。彼女はその魔獣に向かって黒種草の種を投げつけた。

「まだわからんか?」イフリートは今度はゆかりの方を向いて不気味な笑みを浮かべた。「おまえらはもはやただの人間。いや普通以下かも知れぬな。今まで自分の能力に溺れていたのだからな。ふふ」

「あんたなんかに、あたいたちの希望を踏みつぶされてたまるもんですか!」

「ぐっ!」イフリートはにわかに怯んだ。「き、希望だと?! わ、我の最も憎むもの」

「おい、様子が変だぜ」

「あ、あたい、なんで『希望』なんて言葉を口走ったのかしら」

「んなこたどうでもいいからよ、相手は怯んでっぞ。今しかないようだぜ!」

「そうか、ここで諦めちゃいけないんだ! 希望が武器ですねっ!」

「かなりくせえ台詞だが、」庄左衛門はイフリートに突進した。「それがやつの弱点らしいな!」

 どしん! 庄左衛門の体当りを食らったイフリートは思わずよろめいた。

「きさまら!」

 振り返ったイフリートの目の前でしゃがみ込んだゆかりは、その両脚をわしっと掴むと思いきり引っ張った。

 ごろ!

 イフリートはぶざまな格好で床に転がった。

「けっこう間抜けじゃない? あんた」

「むむむっ!」イフリートは焦った。

「僕たちはどうしてもこの部屋に入らなければならないんです! 邪魔しないでください!」

「俺の性には合わねえが、希望とやらをおめえに教えてやらあ! その前に、その迷惑なガスの元栓を閉めさせてもらうぜ」庄左衛門は羽織っていたマントを脱ぎ、ぐしゃぐしゃっと丸めると、火を吹こうとしたイフリートの口にぐいっと押し込んだ。

「もがががっ!」

「ここで、おとなしくしてろってんだ!」

 ゆかりがすかさず、もがいているイフリートの両手と両脚をロープで縛り上げた。

「あ、あんまり強く締めないでください、ゆかりさん」

「わかってるわ」

「むががが!」

 そうして三人は部屋の真ん中に魔の番人を転がしたまま、三つのドアを調べ始めた。よく見ると、右のドアに彫られた龍の右目には赤い宝石が、左のドアのそれには黄色い宝石がはめ込まれていた。そして正面のドアには青い石の片目を持ったドラゴンが彫り込まれていた。

 どっすんばったん!

「うっせえ! 静かにしてろってんだ!」庄左衛門は振り返ってイフリートに罵声を浴びせた。

「どっから入る?」ゆかりが言った。

「もしかしたら……」

 剣士が二人に目を向けた。

「僕らの石と扉のドラゴンの目の色が、」

「なるほど」

「確かに。じゃああたいはこっちね」ゆかりは左のドアに近づいた。「先に入るわよ」

 ゆかりが把手に手をかける前に、かちゃりと軽い音を立ててドアが開き、彼女は吸い込まれるように中に入って行った。

「お、おい、ゆかり、中はいったいどうなって、」

 後を追おうとする庄左衛門の目の前でドアは閉じられた。そして剣士や庄左衛門がいくら押しても引いても、そのドアは開こうとしなかった。

「ゆかり!」ドンドンドン! 庄左衛門はドアを激しく叩いた。だが反応はなかった。

「中は絶対つながってるはずだ。剣士、青いドアを開けるぞ」

「はい、わかりました」

 剣士は中央の青い宝石のはめ込まれたドアに手をかけた。「開きました!」剣士が叫んだ。

「よし、中に」そしてドアは、やはり剣士を招き入れた後すぐにバタンと閉じた。

 庄左衛門はただ一人立ちすくんだ。

「二人は、」いつの間に口に詰められたマントを取ったのか、イフリートが縛られたまま、庄左衛門に顔を向けていた。「それぞれの敵と闘うために中に入ったのだ。きさまも入れ。もう止めはせぬ」

「そうするしかねえようだな」庄左衛門は決心したように息をつくと、イフリートの縄を解いてやった。

「我を解放するのか?」

「ああ。生き物は大切にしろってのが、俺の相棒の口癖なんだ」

 そして庄左衛門は赤い宝石のはめ込まれたドアを開けて、迷うことなく中に足を踏み入れた。

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