5.真珠の耳飾り
そんなことがあってから数日。
ウルドはエレオノーラに対して更に優しく接してくれるようになったが、夜に寝室に来ることはなくなった。
何故泣いたのかもきちんと伝えていない所為で、行為が怖くて泣いたのだと判断されたらしく腫れものに触るかのように手厚くされている。
そして今朝。
これまでならばエレオノーラが起きる頃には既に王城に向かって出掛けていた筈のウルドが夫婦の居間で新聞を読んでいて、彼女は慌てた。
「お、おはようございます、旦那様……」
戸口に立ち尽くして、エレオノーラは小さな声で挨拶をする。紙面から顔を上げたウルドは僅かに目を細めたが、すぐに視線を伏せた。
「ああ、おはよう」
目を見て挨拶もしてもらえないのか、と彼女はしょげる。
愛されて育ったエレオノーラは無関心にひどく弱い。それが好きな相手ならばなおさら、こちらを見て、名を呼んで欲しかった。
「……きょ、今日は……お休みなのですか……?」
ウルドの座る1人掛けのソファから一番離れた場所、向かいの二人掛けソファの端にちょこん、と座ったエレオノーラは果敢に夫に話しかける。
今朝の彼女のドレスは若草色の生地に装飾の少ないシンプルなもので、結婚前にウルドにプレゼントされたパールの首飾りと揃いの耳飾りをつけていた。
柔らかな真珠の輝きは、エレオノーラを優しく励ましてくれるようで彼女のお気に入りで、朝の寛いだ時間などによくつけているのだ。
「……朝の訓練が中止になっただけだ、そろそろ出る」
「そう、なのですね……」
朝の訓練は本来下級の騎士が行うものだ。
小隊の隊長であるウルドは騎士の位で言えばかなり高位なので毎朝参加する必要はないのだが、後進の教育と自身が鈍らない為の訓練を兼ねて、よほどのことがない限りは毎朝参加している。
熱心で真面目なウルドの姿勢に、エレオノーラは日々尊敬が募る思いだ。やはり彼の妻として、誇れるような夫人にならなくては、と気を引き締める。
どうすればそうなれるのか、はまだ模索中なのだが。
「出掛ける」
す、と音もなくウルドが立ち上がったので、エレオノーラも席を立つ。戸口で待ってくれている彼に駆け寄ると、ウルドはまた目を細めた。
「旦那様?」
エレオノーラが首を傾げると、ふいにウルドの手が伸びてきてそっと彼女の首元、真珠の首飾りに触れる。
「んっ……!」
かさついた指の表面が鎖骨の上を掠めて、彼女は小さく声をもらした。すると素早く手が離れていってしまう。
「あ……」
残念な気持ちで指を視線で追い、それから彼女が顔を上げると、夫はなんとも複雑そうな表情を浮かべていた。はしたなかっただろうか、とエレオノーラが焦っていると、彼は小さく呟く。
「……まだ使ってくれているんだな、それ」
「!……旦那様に最初にいただいたものですもの、お気に入りです!」
慌てた所為で、彼女は大声を出してしまった。口元に手をやって、顔を赤くする。
「大きな声を出してしまって、ごめんなさい……」
「いや……」
少し迷ったが、ウルドがそっとエレオノーラの頬に掌で触れると、彼女は素直にそれに懐いた。顔を真っ赤にして、でもとろけそうな笑顔を浮かべる。
彼が指先で耳の真珠にも触れると、その指先の感触をもっと味わおうとエレオノーラはそっと瞼を閉じた。久しぶりに触れてくれる夫の体温に、彼女はうっとりと感じ入る。
そうしていると、ピンク色の唇に柔らかくウルドのそれが重なった。僅かに音を立てて吸い付かれ、エレオノーラが驚いて目を開く頃にはもう唇も掌も離れてしまっている。
「行ってくる」
「……行ってらっしゃいませ、旦那様」
呆然としたままエレオノーラが言うと、心なしかぎくしゃくとした動きでウルドは居間を出て行った。
扉が閉まると、彼女はへなへなとその場に崩れ落ちる。
「奥様!いかがなさいました!」
慌ててオルガが駆け寄り、主をソファに導く。エレオノーラはソファに座ると、両手で赤くなった頬に触れた。
「……オルガ、どうして私の旦那様はあんなに素敵なのかしら……」
恋する乙女の表情で溜息をつく主は非常に可愛らしかったが、オルガの基準で言うとウルドは言葉足らずの朴念仁だ。
うちのお嬢様は天に二物も三物も与えられてお生まれになったので、バランスを取る為に男の趣味が悪いのだな、とオルガは心の中で納得して、笑顔を浮かべた。
「さぁ奥様、惚気を仰ってないでお仕度に取り掛かりましょう。今日は大切な日なのでしょう?」
耳があったらピン!と立っただろうな、という程にしゃきっ、としたエレオノーラはオルガを見上げて元気よく頷いた。
「ええ、オルガ。初出勤よ!」