4.英雄の妻
食事を終え、また書斎に向かうウルドを見送ったエレオノーラは風呂場に向かう。メイド達に時間をかけてぴかぴかに磨かれて、最後はオルガに長い髪を梳られていた。
ドレッサーの鏡に映るぼんやりとした表情の自分を見て、彼女はむむ、と唇を噛む。
「ねぇ、オルガ。なんかこう……もっとセクシーなカンジとかってどうやったらなれるかしら?」
「お嬢様は天使のように愛らしく、女神のようにお綺麗です。これ以上魅力的になってしまっては神様が嫉妬なさるのでは?」
間髪入れずに返ってきた返事に、エレオノーラは笑ってしまう。優しいオルガの過大評価は嬉しいが、エレオノーラが妻として務めを果たす間はウルドにとってなるべく好ましい女性でありたいのだ。
「旦那様はセクシーな方がお好きかもしれないし……」
「お嬢様の魅力のわからない殿方なんていませんわ、ご心配は杞憂だと思います」
「んんんーオルガは本当に私に甘いんだから……」
エレオノーラにとって女神のように美しいと言えば母や姉が浮かぶし、天使のように愛らしいといえば兄の娘であり、彼女にとっては姪の姿が浮かぶ。
エレオノーラはどれにも当てはまらないと思うのだが。
「お嬢様は本当に自己評価が低くていらっしゃる……」
オルガは歯がゆい思いで主を見つめた。愛らしくて美しい、オルガ自慢のお嬢様は、この上もなくお優しいので政略結婚の相手にさえ彼の意に沿うように自分を変えようとしている。
そんなこと意識せずともまだ17歳になったばかりのエレオノーラだ、母親と姉を見るに、いずれセクシーさとやらも兼ね備えるようになるだろうに。
「ある意味旦那様が不憫ですわ」
オルガは不敬にも当たる言葉を唇の中で押し殺した。
主寝室にエレオノーラが入り侍女やメイドが全て下がると、辺りはシン、と静まる。
屋敷の中でさえ一人でいることが滅多にない彼女は、心細くてベッドに上ると上掛けを抱きしめた。普段はこの部屋で一人で眠るので、心が華やぐような小物やお気にいりの本をサイドボードに置いてあるのだが、さすがに夫と過ごす夜には置いていてはいけないだろう、と向こうの妻用の部屋に移してあった。
「まだかなぁ……」
膝を抱えて、エレオノールはころりとベッドの上で丸くなる。
ウルドと話すのはまだ緊張するが、一人で薄暗い部屋にいることの方がなんとなく気詰まりだ。いつもならば眠ってしまえばいいものだが、今夜はそうはいかない。
こんな子供のような奥方では、さぞかしウルドも退屈だろう、とは思うのだが、今の彼女に為す術はない。
寝転がっているとやがて睡魔がやってきて、うとうとと微睡んでしまう。眠ってはいけない、と起き上がった彼女はふるふると首を振って眠気を払おうと試みる。
と、そこにがちゃりと夫側の部屋の扉が開き、ウルドが姿を現した。彼はエレオノーラの奇妙な動きを眺めて、目を細める。
「……どうかしたか」
「い、いえ……なんでもないです……」
変な動きを見られたことに恥ずかしくなり、彼女は顔を伏せて小声で返す。消えるものなら消えたい。私を見ないで。
俯いたままどうしたものか、と悩んでいたエレオノーラはきし、とベッドが音を立てたのでそちらを見遣った。そこには質素な寝間着を脱ぎ、裸の上半身を晒す夫がいて、彼女は硬直する。
「具合が悪いわけではないのならば、いいか?」
「…………は、はひ……」
セクシーな大人の男の裸体を見た所為で、動揺したエレオノーラは返事を噛み、穴があったら入りたい思いでまた顔を伏せてぎゅっと目を閉じた。
こんな状態でセクシー系を目指そうだなどと生意気を言いました!すみません!!と内心で誰にもなく謝りつつ項垂れる。
ウルドの固い掌がエレオノーラの華奢な肩に触れ、そっと押し倒された。
プラチナブロンドの長い髪がシーツに広がり、彼女は自分を見下ろしてくる夫を見つめる。
ウルドもしばらく無言でエレオノーラの紺碧の瞳を見ていたが、やがて視線を逸らすとおもむろに彼女の夜着を剥ぎだした。露出した肌が寒くて、エレオノーラはぶるりと震える。
それを受けて、ぴたりと一度ウルドの手は止まったがすぐに動きは再開された。覆い被さってくる体は、大きくて温かい。
「……旦那様?」
けれど、彼は何もエレオノーラに言わないので、とてもとても寂しい。
体が繋がっても、心はずっと離れているかのようだ。
彼女の官能を引き出す掌は、丁寧で優しいけれど、ウルドはエレオノーラをちっとも見ない。
わざと視線を避けているかのようで、彼女は思わず瞳を潤ませた。
「……旦那様……」
もう一度そっと彼を呼ぶと、ちらりとこちらを見たがすぐに視線は逸らされる。エレオノーラはもう悲しくて、涙を耐えることが出来なかった。
愛人が出来たら距離を取るなんて嘘だ。
この温かい掌の男の人が、こうして触れるのは自分だけであって欲しい。
でも上手くいかない。
義務みたいに触れるのならば、いっそ二度と触れないで欲しい。
「……エレオノーラ、大丈夫か」
「旦那様……ごめんなさい……」
体を起こしたウルドは、眉を寄せてエレオノーラを抱き起こす。険しい顔の夫に、仮初の妻の役目さえこなせない自分が恥ずかしく、情けなくて、彼女は子供のように泣き続けた。
初めて会った時から、エレオノーラはウルドのことが好きなのだ。
彼女の、人に敷かれた人生という名のレールを、人の望むように進んでいくものだと思っていた世界を一変させた人。
戦勝後、国王陛下に召喚されて向かった王城にて、案内された部屋にいた騎士を見てエレオノーラはとても驚いたのだ。
片手は包帯がグルグルに巻かれ、顔にも大きな傷痕やガーゼがあてられていた。戦で功労をあげた騎士だと聞いていたので、その傷は全て国と民を守った結果なのだと知れた。
「……傷は、痛みますか」
名乗ることも忘れて、思わず恐る恐るエレオノーラが聞くと彼…ウルドはほんの少し笑ったようだった。
「痛みません、名誉の負傷ですから」
なんてすごい人だろう、と思った。死ぬかもしれない傷を、そんな風に言えるなんてとてもかっこいいと思ったし、何より笑った顔がとても可愛らしいと思った。
こんなにも眩しく輝く人は、他にいないのではないか、と彼女はその時感じ入った。
ウルドは、エレオノーラの憧れのヒーローなのだ。
だというのに、夫婦となった後、ウルドは過ぎるほど優しくエレオノーラを遇してくれた。憧れの人に、見合う自分でいたかった。
そうでいられないのならば、邪魔にだけはなりたくなかったのだ。
「ごめんなさい……」
自分が情けなくて泣き続ける妻を、夫はずっと背中を撫でてくれていた。