3.晩餐と準備
その日の晩餐は、ウルドが先に席に着いていたのでエレオノーラはボロが出ないように少し緊張しつつカトラリーに触れる。
スプーンに白い指先が触れ、ポタージュを掬いピンク色の唇に触れる様をウルドが見ていた。何故見られているのかが分からず、エレオノーラはどぎまぎとする。
「……今日は何か変わったことはなかったか」
低く深みのある声が、彼女の耳朶を打つ。
内心慌てつつ、その動揺を納めるべくゆっくりと顔をあげたエレオノーラは夫の顔を見た。まさかバレてはいないと思うが、嘘をつく時は視線をうろうろさせてはいけない。真っ直ぐにウルドの琥珀色の瞳を見つめて、微笑んでみせた。
「いいえ。何も」
「……バッファ侯爵子息の屋敷を訪ねたと聞いたが?」
あ、そっちね!それはセーフ!
エレオノーラは首を傾げて動揺を誤魔化す。クラウスの屋敷に遊びに行くことはウルドには許可をもらっているし、前日に訪問の旨も知らせてあった。
「ええ。そちらもいつもと変りなく、クラウスとお茶を飲んでお互いの近況などをお話ししました」
「…………そうか」
沈黙が痛い。
ウルドは代々騎士の家系の嫡男に相応しく、すらりとした長身にしっかりとした筋肉のついたしなやかな体をしている。髪は闇のように黒く、瞳は猛獣を思わせる琥珀色。顔立ちは整ってはいるが寡黙で、必要最低限のことしか話すことはない為少し怖い印象がある。
先の戦で奇襲にあった本隊を、自身の率いる小隊で見事に救いだし結果的に勝利へと導いた英雄だ。
国王は彼の功績にいたく感じ入り、そして得難い騎士と国とのさらなる深い結びつきを求めて、王族とも縁故も深い宰相家の末娘・エレオノーラを嫁がせることを決めた。
エレオノーラは、自分はただ侯爵家に生まれただけで苦労らしい苦労もなく育ち、周囲の人々に助けられて生きてきた自覚があったので、国と英雄双方にとってよい縁になれるのなら、と抵抗なく彼に嫁いだ。
ウルドは彼女には少し窮屈な考えをしていたが、基本的には優しいしエレオノーラに何かを強要するようなこともない。
むしろ、我儘に育てられた侯爵家の姫を妻にさせられた所為か遠慮すら感じるほどだった。
その為、エレオノーラの方も彼を煩わせることのないように、となるべく気をつけてはいるのだ。今日クラウスやオルガに言ったような我儘を言って困らせては申し訳ない。
ウルドは日々国の為に奉公している身なのだ、内向きのことで迷惑はかけたくなかった。
決して働きたい、などと言って伯爵夫人に相応しくない振る舞いを叱られるのが嫌、というのが理由ではない。ないったらないのだ。
「……エレオノーラ」
「はい?」
また自分の思考に気を取られていたエレオノーラは、突然名を呼ばれてきょとん、として夫を見た。衒いのない紺碧の瞳に見つめられて、ウルドが僅かに目を細める。
その様子に、エレオノーラはびく、と震えた。
何か話かけられていたかな?でもさすがに話しかけられてて気づかないことはない、筈、たぶん。
「……旦那様?」
恐る恐る彼女が声を掛けると、ウルドはふい、と目を逸らした。それだけで何かうすら寒くなり、エレオノーラは悲しくなる。
こういうリアクションをとられる時は多く、あまり考えないようにしているものの、どうしてもエレオノーラの心に不安が降り積もる。
ウルドはエレオノーラを妻に欲しくはなかったのではないだろうか?
好いた女性がいたのかもしれないし、そういう相手がいないにしても侯爵家の末娘だなんていかにも面倒くさそうな女、嫁にしたくなかったのかもしれない。
ウルドは今のところ何も言ってこないし、エレオノーラにとても親切で優しくしてくれているが、その内愛人を囲いたい、と言い出すかもしれない。
王命でもあるこの結婚は、ウルドにもエレオノーラにも離縁するという選択肢はない。ならば、せめてウルドに真に好いた相手が出来た場合は快く迎えられるようにしよう、と考えていた。
そういうぶっ飛んだ思考がダメなのだと、クラウスが聞いていれば指摘してくれただろうが、ここにはクラウスはいないし、エレオノーラは夫の名誉の為にこの考えを誰かに言うつもりはない。
もしもウルドに愛人を囲いたい、と言われたら屋敷も何もかもその相手に譲り、エレオノーラはどこか王都の隅の目立たないところに住居を構えて暮らそうと思っている。
本来は田舎にでも引っ越すべきなのだろうが、国王陛下から夫婦揃って呼ばれた時には何でもない顔をして妻役をこなさなければならない。
そんな時に備えて、出来ればエレオノーラは仕事を得ていたいのだった。
ウルドが心配しないように。
その為に、今から出来ることを準備しておこうと思っていた。
「……今夜、そちらに行く」
「あ、はい」
ようやく言われた言葉に、エレオノーラはぽっ、と顔を赤くする。
仕事で夜勤も多いウルドは、普段は書斎の隣に設えた寝室で寝る。夫婦の寝室はエレオノーラ一人が使っていて、こうしてウルドが訪ねてくる夜だけを共に過ごすのだ。