20.掌中の珠(クラウス視点)
18話直後の話です。
一通り話が済むと、ウルドはクラウスに向き直った。
「……あ?」
「クラウス卿。先程殴ったこと、まことに申し訳ない」
ウルドは躊躇いもなく頭を下げたので、周囲の方が慌てる。
自分よりも少し背の高い彼が頭を下げているのを面白そうに見ていたクラウスは、にやりと笑った。
「謝らないんじゃなかったのか?」
「妻が泣いていたのも、ここに駆け込ませてしまったのも俺の所為。だとしたらエレオノーラを大切に思っているあなたに殴られる理由こそあれ、俺が殴ってよいものではなかった。非礼を詫びるは当然のことだ」
「ほう。本当にあなたは真っ当だな」
感心してクラウスは自分の顎に手を当てる。
「罪のない者に騎士ともあろう者が暴力を振るったのだ、いかようにも処罰は受けよう」
「だ、だめ!クラウス、旦那様があなたを叩いたのは私が原因だもの、罰は私が受けます!」
もたもたとクラウスとウルドの間に飛び込んできたエレオノーラは、両手を突っぱねてウルドを庇う。
けれど長身の男二人にとっては何の妨げにもならず、彼らは目を見合わせた。
「こら、エレオノーラ。どきなさい」
「お前が出張っても何の障害にもならんぞ……」
ウルドとクラウスの両方に止められて、それでも足に力を入れてエレオノーラは踏ん張る。
「ダメです!旦那様、クラウスは頭がいいからこういう時絶対にチャンスを逃さないんです、クラウスに弱みを見せちゃダメなんです!」
ぎゅっ!とウルドに抱き着いて、エレオノーラは叫ぶ。
彼女は夢中で、自分がどれほど大胆なことをしているのか、どれだけ失言をしてしまっているのか分かっていない。
「ほーぉ?」
にっこりと微笑んだクラウスの声に、ハッ!とした頃には時すでに遅し。
「よかろう。お前の要望に応えて、この罪お前に贖ってもらおう」
「クラウス卿!」
ウルドが焦って声を荒らげるが、エレオノーラは受けて立つ!とばかりに顔をあげる。無駄にキリッとしているのが本当に無駄だ。
ハラハラとシャーロットは三人の顔を順番に見るが、オルガと執事は静観している。脅すようなことを言ってみたものの、クラウスがエレオノーラに何かひどいことを出来るわけがないのだ。
「そうだな……じゃあ……」
クラウスはにやにやしつつ、勿体ぶって思案するように視線を彷徨わせる。
なんとか事態を引き戻せないかと焦るウルドとは逆に、エレオノーラは覚悟の決まった顔でクラウスの言葉を待つ。矢でも鉄砲でも持ってこい!という気概だ。無駄に。
「アップルパイだ」
「……は?」
ウルドが目を瞬く。けれど、クラウスは死刑宣告をするかのような真面目な顔でエレオノーラに告げた。
「俺が持ってこいと言ったら必ずお前が作って持ってくること。そうだな…10回分で許してやろう」
「……そんなのでいいの?」
きょとん、とエレオノーラはクラウスを見上げる。
窓からの光が差し込み、彼女の紺碧の瞳の奥が薄く透けた。この光景はいつ見てもたまらなく美しいのだ。
本当は、クラウスが永遠に手に入れる筈だった、美しい宝石。
フン、と彼は鼻で笑う。
「そんなこととは余裕だな?20回に増やしておくか」
「任せて!いつだって、クラウスが食べたい時に焼いてあげるよ!マドレーヌもつけちゃう!!」
ぱぁ!と弾かれたように笑顔になったエレオノーラは、クラウスに抱き着いて宣言する。慌ててウルドが彼女を引きはがした。
「あれは甘いからいらん」
「辛辣!!」
ショック!とばかりに非難の声をあげた後、エレオノーラは改めてクラウスを見上げる。
あ?と彼が視線で返事をすると、彼女は幸福そうに微笑んだ。クラウスが気に入っている、へにゃりとした子供みたいな笑顔だ。
「……ありがとう、クラウス。たくさん、ありがとう」
珍しく殊勝な様子に、わざとクラウスは殊更馬鹿にするように笑い飛ばす。
「……今更だ。お前の持ち込む厄介事を捌くのは慣れてる」
「えへへ……これからもよろしくお願いします」
「少しは遠慮しろ、馬鹿者」
一つ吐息をついて周囲を見渡すと、クラウスは満足して幕引きの為に二度、手を打つ。
「さあ、見世物は終わりだ!以上で今回の騒動は仕舞いとする。皆、私は忙しいのでそろそろお暇いただこうか」
屋敷の主の彼にそう言われては、ここに留まる理由がない。
シャーロットが仕事に戻るべく真っ先に挨拶を述べてその場を去り、お騒がせ夫婦と侍女もそれぞれに暇を告げて帰宅の途に就いた。
相変わらず執事に焼き菓子をもらい、来た時とは全く違う幸せそうな笑顔で夫と侍女と共に馬車に乗って帰ったエレオノーラを、クラウスは執務室の窓から見送る。
「……クラウス様、よろしかったのですか。その、エレオノーラ様は……」
部屋に戻ってきた執事が新しく茶を淹れて、クラウスの前に置きながらそっと呟く。
この執事は、クラウスが実家の侯爵家から独り立ちして屋敷を持つ時に付いてきてくれた優秀な男で、侯爵家本邸にいた頃からクラウスとエレオノーラの仲の良さをよく知っているのだ。
「なんだ?」
クラウスが窓から離れ、執務机の豪奢な椅子に座るのを見てから執事は思い切って口を開く。
「……クラウス様は、エレオノーラ様のことを……!」
「それ以上は口にするな」
ぴしゃりと言うと、彼は口を噤む。それを見て、クラウスは柔らかく笑った。やりかけの書類を手に面白がるように執事の顔を見遣る。
「……私がいつまでも妻を娶らぬ所為で侯爵家から色々言われてもいるのだろう?世話をかけて悪いな」
「いいえ……クラウス様の素晴らしさは、この屋敷に働く者全てが尊敬しております、そのようなことで世話などと……」
そこで執事は少し顔を顰めた。
「……恐れながらユベール伯爵様にはエレオノーラ様を十全にお幸せにすることは難しいのでないかと、愚考いたします……クラウス様ならば、あのようにお嬢様を悲しませることなどありえません……!」
さすがにそこで言葉を止めた執事に、クラウスは苦笑する。
「本当に不遜だな。この部屋以外でそれを口にするなよ?」
「差し出がましいことを申しました……」
頭を下げる執事に、クラウスは鷹揚に頷く。己の元で働く者にこんな風に言われて嬉しくない主などいないだろう。
「……まぁ、致し方あるまい。エリィ自身があの男を選んだのだ」
クラウスはため息を吐くようにして、微笑む。
幼い頃から共に育った、可愛らしくてちょっと…いや、相当心配な、幼馴染。
クラウス自身は幼い頃から侯爵家の後継者としての期待を背負って過ごし、他の子供よりもかなり冷めた子供だった。同じような境遇で育った筈なのに、エレオノーラは無邪気で無防備で、その内取り返しのつかない詐欺にでも遭うんじゃないかとクラウスすら心配にさせる程の天衣無縫さを発揮していた。クラウスは男兄弟しかおらず、妹がいればこのようなカンジだろうか?と思っていたのだが。
家格も年齢もつり合いが取れていて、両家とも政治的なしがらみもなく母親同士が親友、という縁もあり、周囲は正式な取り決めはないものの二人を婚約者同士のように扱った。
両家の親がそう考えているのであれば、もはやそれは決定事項のようなものだ。クラウス自身も自然とエレオノーラをそう遇し、恐らく彼女もそのつもりでいたのだろう。
燃え上がるような熱情や、胸を掻きむしるような恋情はなかった。
けれど、クラウスにとって誰よりも大切で近しい女性は、間違いなくエレオノーラだった。このまま穏やかに結婚し、彼女を守り彼女に支えられて互いに幸福でよい家庭を築けることを確信していた。
そこに降って湧いたウルドの求婚。
国王は悩んだ末に、エレオノーラに決定権を一任した。
それというのも彼女は、国王の母…王太后の大のお気に入りの遠縁の令嬢であり、年頃の合う王籍がいればすぐに婚姻させたいと虎視眈々と願われている程だったのだ。
ぽっと出のウルドに奪われるぐらいならば、こちらもまた王家と縁戚のクラウスと結婚する方がまだマシ。無理を言っていいならばまだ生まれたばかりの幼い王子と結婚して欲しいという、王太后の思惑、ひいては王家の思惑に全て気づくことなく、エレオノーラは火の玉ストレートでウルドに恋に落ちた。
エレオノーラ自身の決定ならば、彼女に甘い王太后も文句は言えない。国母が言えないものをクラウスが言える筈もなく、元より言うつもりもない。
エレオノーラが幸せであることは、クラウスの幸せでもあるのだから。
「クラウス様……まだ奥様をお迎えにならないのはやはり、お嬢様のことを……!」
「少し落ち着け」
うっ…!と執事が感極まったように言葉を濁すが、クラウスはそこまで情熱的な思いではないのだ。
一次的な熱情や恋情ではなく、何かもっと大きな枠組みの中心にエレオノーラがいる。最も大切な人。
彼女が幸せであるならば、自分が側にいなくてもいいのだ。これは言葉にして人に納得してもらうのは難しい感情なのかもしれない。恐らく後にも先にも彼女にだけ抱く思い。
それ故に珍しく何と言ったものか、とクラウスは悩む。けれど執事はすっかり主とエレオノーラの禁断の恋にどう手助けすべきが悩んでいそうだったので、この考えは問題になる前にまず早いめに摘んでおこうと決めた。
「勘違いするなよ。エリィが幸せならば、私に不満はない」
「……クラウス様」
もはや泣き出しそうな様子の執事に、わずかにクラウスは笑う。まぁ、でも、そうは言っても。
「……今後このようなことが続くようならば、私もただ指を咥えて静観してはおれんがな」
微笑むと、クラウスはひどく美しい。
けれど何故か背筋の凍るような思いがして、執事はぴゃっ!と姿勢を正した。
「……その際は、何なりとお申し付けください」
「頼りにしている」
クラウスの言葉に、執事は平身低頭でひたすらに感じ入る。
そう。
一度は無抵抗で手放した宝石だが、相応の扱いを受けていないようならば彼とて手練手管を使って奪い返す気概もなくてどうして侯爵家の跡取りといえようか。
美しいかんばせににっこりと罠のように完璧な笑顔を貼り付けて、クラウスは紅茶のカップを捧げ持った。
今はまだ、
「ユベール伯爵夫妻の幸福に」
乾杯。
これで本当に終わりです!読んでいただいてありがとうございました!