10.アップルパイと上機嫌
「なんかやけに機嫌がいいな。怪しい……」
「失礼がすぎると思う」
午後のお茶の時間。
クラウスの屋敷を訪ねてきたエレオノーラは応接室ではなく執務室に通されて、いつもとは違うソファに腰かけていた。
クラウス個人の屋敷は家具や壁紙に全体的に飴色の木と、緑や青にも黒の混じった落ち着いた配色がなされている。一番彼が長い時間を過ごす執務室は、南側の大きな窓のある広い部屋に配置されていて、伝統的な意匠で深い緑の配色の家具が揃えられていた。
歴史ある貴族の執務室に相応しい設えで、窓辺にエレオノーラが持参した庭で咲いた百合の花が瑞々しい香りとしっとりとした白の色を添える。
「クラウスの執務室久しぶりに来たわ」
「悪いな、今年の収支決算が少し立て込んでいてな」
サインをした書類を執事に預け、デスクから席を立ったクラウスは彼女の向かいのソファに座った。
彼は、侯爵家の嫡男であり、王城で勤める現侯爵の代わりに領地経営を一手に担っている。ウルドやエレオノーラの父のように出仕するわけではないので屋敷にいることは多いが、多忙な身なのだ。
「私の方こそ忙しい時に来てごめんなさい」
「こんなんでも人妻だからな、けじめとして応接室で対応するように心がけてたんだが……」
「前言撤回、私のお詫びの気持ちを返してちょうだい」
エレオノーラはぷりぷりと怒る。それを無視して、クラウスは出されたまま放置されていた所為で少し冷めた紅茶を啜った。
「で?」
「で、とは?」
「最近大人しくしてるようだが、裏で何をやっている?先に説明しておけ、どうせ私は巻き込まれるんだ。手間は少ない方が効率的だ」
ひらひらと手を振って言われて、エレオノーラは彼を睨む。そんな顔してもちっとも怖くないのだが、クラウスは黙っておいた。
「クラウスって見た目は素敵なのに、中身がすごく残念よね……」
「奇遇だな。俺もお前に対して昔からずっとそう思ってる」
「失礼な……!!」
小さく腕を振り回し始めたので彼女の口に小さな菓子を突っ込んで怒りの矛先を逸らし、クラウスは自分はサンドイッチを齧った。彼は昼食もまだだったのだ。
「あ、アップルパイ焼いてきたの!食べてね」
「もらう。なんだ、厨房解禁になったのか」
甘さ控えめのエレオノーラ作のアップルパイは、クラウスの好物だ。シナモンの嫌いな彼の為に、シナモン抜きなのも有難い。
さくさくとアップルパイのホールにナイフを入れながら、彼女はふふ、と可憐に笑う。可愛いけれど、相変わらず碌なことは言わないのだろう。
「料理長との協議の末、慈善活動に相当するお菓子等の制作は許可されました!」
「…………可哀相だな、料理長。こんなぶっ飛んだ奥さんが来て……」
「邪魔にならない場所でちょっと料理するぐらいいいじゃないー!!」
ナイフを振るのはダメだと判断したらしいエレオノーラは、律儀に皿にナイフを置いてからぶんぶんと肘から先の腕を振るう。
彼女の抗議の姿勢はバリエーションが極端に少なく、これ以外ではあとは泣くぐらいしかない。いかにも箱入りのお嬢様らしい、ダメさ加減だ。
「阿呆。その場の奴等の仕事を奪ってることになるんだぞ?ちゃんと反省しろ」
「それは……ごめんなさい……」
へにゃり、と眉を下げてしょげるものだから、クラウスもこれ以上強くは言えない。
しょぼしょぼとしょぼくれたエレオノーラは切ったアップルパイを皿に移し、立ち上がるとクラウスの前に置いた。
くい、とその腕を引っ張って、彼はエレオノーラを隣に座らせる。
「クラウス?」
ぽん、と軽い音をたててソファに座った彼女は、少し高いところにあるクラウスの顔を見遣った。
改めて見ると、エレオノーラの顔は本当に美しい。
結婚してからますます磨きがかかったように感じて、クラウスは雑念を振り払うようにくしゃくしゃと彼女の髪を乱暴に撫でた。
「しょげんな!分かったならいい。後でちゃんと料理長にも謝ってやれよ」
「うん……!」
ぱぁ、と笑顔になったエレオノーラはうふふ、と笑ってクラウスにくっつく。
「頭撫でられたの久しぶり!」
「犬か子供かお前は……ユベール伯に頼めばいいだろ」
言いながらも、クラウスも抱き寄せた腕でそのままエレオノーラの頭を撫で続けた。さらさらのプラチナブロンドは癖がなく、指で梳るとすとんと元の位置に戻る。
「旦那様にそんな我儘言ったらダメよ」
ぽ、と赤面してエレオノーラは首を横に振るので、クラウスは眉を顰めた。
「相変わらずお前の基準がよくわからんな……」
「い、いいのいいの!撫でて欲しかったらクラウスのところに来るから!大丈夫!」
「何理論だそれは……」
「あ、でも、クラウスが結婚したらダメだよね……きっと奥様は嫌がるわ……」
そっと距離を取ろうとするので、クラウスはついエレオノーラを睨む。
クラウスの仮想妻が嫌がるのならば、エレオノーラの実際の夫も嫌がるとは考えないだろうか?
とはいえ、まだウルドに止められていないのならば、クラウスとてこの幼馴染を愛でるのにいささかの躊躇もないのだ。黙っておこう。
「余計なことを考えるな。これぐらいいつでも撫でてやろう」
ぽす、と再び肩に抱き寄せられて、エレオノーラは撫でられる手の心地よさに瞼を閉じた。
クラウスは、彼女にとってもう一人の兄だ。実兄が七歳年上である為、ある意味実兄よりも近しい存在と言えるだろう。
ひとしきり互いにじゃれて満足し、エレオノーラがあまり仕事の邪魔になってはいけないから、等と遅まきながら殊勝なことを言いつつ、いつものようにクラウスの屋敷の執事にお土産の焼き菓子をもらって帰宅して行った。
それからしばらくして、執務室で書類にペンを走らせていたクラウスははたと顔を上げた。
「……上機嫌の理由を聞きそびれたな」
さすがの彼も疲れていたのだ。