異色
普通だった。
可も無く不可も無く。それが僕という人間。
別に優等生になることを望んでいたわけでもない。別段、大きな会社に勤めることを目標としていたわけでもなかった。
普通に働いて、お金を稼いで、不安の無い生活を送りたい。ただそれだけを思ってやってきたのだが、ここにきて、如何ともしがたい過ちに気がついてしまった。
気づくのが遅かった。
「普通」というものがこんなにも難しいことだったなんて。「普通に生活したい」なんて、とんでもない。それなりに頑張らなければ、普通の生活なんてできないのだ。
学生時代、ランク的には「中ぐらい」だったと思う。それが気がつくと、いつの間にか「中より下」になっていた。なぜもっと早くに気づくことが出来なかったのか。そのときに自分の実力をしっかり認識していれば、早急に手を打つことだってできたかもしれなかったのに。
あの頃はなぜか、余裕だと思っていた。勘違いも甚だしい。なにを思って「なんとかなる」だなんて思考を抱いていたのだろう。
大学に進学して、就職して、普通の大人になるのだと信じて疑わなかった。
まさか。
まさか僕が、フリーター生活をする羽目になるなんて、夢にも思っていなかった。あの頃は。
あの頃を……、高校時代を思い返す。と言っても、今の僕は二十三歳。さほど昔のこととも言い難い。が、過去は過去。昔のことである。
学生生活を満喫していた……わけではない。
大学受験に向けて勉学に励んでいたつもりだった。思い返せば、それは「ちゃんと勉強をしています」という、自己満足や自己陶酔に近いものだったのかもしれないが。
友達は、部活をしながら勉強を頑張っていたけれど、僕にはそんな器用な真似はできそうになかった。中学の頃はサッカー部で部活動に励みながら勉学に勤しんでいた。……とは言っても、万年補欠で試合に出してもらったことはほとんど無いのだけれど。当時、仲の良かった友人に誘われて入った部活だ。途中で辞めるというのもなんだか気まずいと思ったので、結局三年の引退試合までサッカー部に所属してはいた。
高校では部活には入らず、塾に通って、第一志望の有名大学合格を目標に頑張っていた。
それが、蓋を開けてみればどうだ。
ほぼ勉強しかしていなかったにもかかわらず、本命の大学どころか、希望していたいくつかの大学のすべての合格点に達していなかった。それどころか、塾にも通うことなく、主に部活に熱を注いでいた友達が、僕の希望していた大学に合格したというではないか。
なぜだ。一体何が間違っていたのか。勉強法か? それとも僕の理解力が足りていなかったのか?
合格者と僕(不合格者)に一体どんな差があったのか。考えてみても、一向に理解できそうな気配は感じられなかった。……まぁ。つまりは、僕の頭が悪いということなのだろう。
考えることを諦めて、再び塾に通って勉学に励んだ。ひたすら。ただひたすらに。
しかし、二回目も落ちた。
三度目の正直だと言わんばかりにリベンジに燃えた。その熱意に負けた両親は、渋々、三度目の受験を許可してくれた。
もう後は無い。
最後のチャンス。これをものにしなければ、今までの頑張りが無駄になる。一浪、二浪で大学に入学する人もそれなりにいると聞く。それなら僕だって。
結果は、惨敗。
この三年間。三度目の大学入試。気持ちの良いまでの完敗である。
どこでもいいから大学へ、という気持ちは僕には無かった。希望する大学に行きたい。そんな気持ちから、三戦全敗という結果をなんとか受け止め、大学進学を諦めて就職活動へとシフトした。
親は「大学に行きたいのなら行けるところでいいんじゃないか?」と言ったが、そうじゃない。僕自身の将来を見据えての大学進学なのだから、それじゃあ意味が無いんだ、と頑なに譲ることは無かった。我ながら意固地である。
とは言え、就職活動も困難を極めた。
なかなか好印象を持ってもらえず、書類審査で落とされることも多々。とりあえずアルバイトでも、働き口が見つかるならと、バイトの面接にも行ってみた。
応募しては落ち……。それを何度繰り返したことか。正社員としてではなく、たかだかアルバイト採用だというのに。
そしてやっと採用されたのが、中古品を取り扱うお店のバイトとしてだった。こんな僕を拾ってくれるところもあったということに感謝した。挫けてニートになりそうな予感もあった。でも、ギリギリセーフ。
僕は特に頭が良いわけでもなく、体力も無いし、ひょろっとしていて覇気も無い。目立ちもしないし、コレといった取り柄も無い。
雇ってもらえたと喜んでばかりもいられない。ここでの仕事を覚えて上手く続けていけるかという問題もあるし、なにより本当は正社員として働きたいのだ。バイトをしながら職探しもしなくちゃいけない。
大学受験に失敗してから、不安ばかりが押し寄せてくる。
しばらく経つと、なんとか仕事にも慣れてきた。優しい従業員さん達の中だということもあり、上手くやっていけそうな気がしてきた。一応、時間があるときには就職活動もしている。
そんな日々を過ごしている今の僕だけれど、就活には苦戦を強いられている。できれば労働条件の良い会社を探しているのだが、これがまたなかなか見つからない。見つかったとしても、応募しては、一発で落とされる。
もしかしたら、このまま一生フリーター生活を送っていくことになってしまうのだろうか、という考えもよぎったが、その思考を振り払ってバイトと就活に精を出している。
そんな折、高校時代の友人とたまたま顔を合わせた。
「おっ。望夢じゃね? 久しぶり」
なんとも軽い挨拶をしてこちらに歩み寄ってきたのは、高校時代の友人の栄吾だった。「吾は栄える」という漢字を使って「栄吾」という。
僕は驚き、口を開いた。
「本当に久しぶりだなぁ。そういえば、大学も無事に卒業したんだって?」
「おう。つーか、どこで俺のこと聞いたんだよ」
彼は天然パーマのクルクルした、ちょっと長めの髪を赤茶色く染めていた。背の高い彼を見上げつつ、僕はレジ越しに彼に話しかけた。
「お前のウワサなんて、すぐ耳に入ってくるんだよ。帰ってきてたんなら連絡しろよ。それで、就職はこっちで?」
「まあな。それにしても、望夢はここで働いてたのか」
「……アルバイトだけどね」
言い辛かったので、間があいて小声での応答になってしまった。しかも苦笑い付きで。
「そうなのか。ま、ここで顔を合わせたのも何かの縁ってことで、今度メシでも食いに行こうぜ。色々と話したいこともあるし。それか、カラオケとかでストレス発散の方がいいか?」
「……食事で」
取り柄の無い僕は、もちろん歌うことも得意ではない。むしろ音痴だ。カラオケなんて行ったら、ストレス発散どころか逆に溜まりそうである。基本的に、体を動かすことも得意ではないし、これといって好きなことも無いので外出は控えたいところだ。食事だけで済ませたいというのが本音である。
「オッケー。じゃあまた連絡するわー」
そう言って彼は手を振り、爽やかに店を出て行った。「せめて何か買っていけよ」と声をかけたかったが、あまりに突然の再会に驚いていた僕は、彼の動きの早さについていけず、なにも出来ずにレジに突っ立っていた。
きっと彼は友人関係にしろ仕事の関係にしろ、忙しい日々を送っているんだろうな。そんなことを思いながら、彼の背中を呆然と見送った。
高校のクラスメイトだった彼は、バレーボール部に所属していた。背が高く、運動神経が良くて大概のスポーツだったらそれなりにこなせるし、頭も良い。そして愛想も良くて明るく、さらにはイケメンという、一緒にいる人が霞んで見えてしまうぐらいの輝きを放ち、大変にモテていた。逆に、モテない要素が見当たらない。
栄吾とは高校のクラスが一緒でよく話をしていたが、べったりといつでも一緒にくっついているような間柄でもなかった。互いに適度な距離を保ちつつ、仲良く高校生活を過ごした。
そして、僕が大学受験に失敗し、栄吾が大学に進学してからはあまり連絡を取らなくなった。僕が浪人して必死に勉強している中、彼が悠々と大学生活を送っていることなんて知りたくなくて、僕が連絡を返さないようにしていたからだけれど。そうしたら徐々に疎遠になってしまい、連絡を取るきっかけも無いまま今に至った。「帰ってきてたんなら連絡しろよ」などと偉そうに口にしたが、連絡を取らなくなった原因は僕の方にある。まったくもって、手前勝手な言い草だ。
ちなみに彼は、僕が志望していた大学の法学部に合格し、無事に卒業していたということなのだが、正直なところ、素直に喜べない。悔しい。恨めしい。そんな感情を栄吾に向けていた。
ところが、バイト中に姿を現した彼を目にして、そういった感情は薄れた気がした。僕の一方的な拒絶に自己嫌悪すら催した。僕の気持ちをなにも知らない彼は、なんとも憎めない空気を纏って現れ、そんな彼に謝りたいとすら思った。
とりあえず、本人に僕のこの気持ちを打ち明けるかどうかは別として、久しぶりに彼とゆっくり話をする時が来ることを待ち遠しく思ってもいる。早く栄吾から連絡が来ないかと、携帯電話を気にする時間が増えた。
連絡が来るまでの間。会う日時と場所が決まってから、当日になるまでの間。それらの時間がやたらと長く感じられた。恋人からの連絡を待つ人は、こんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか。僕は生まれてこのかた、恋人という存在がいた時期が無い。もしも、そんな僕に彼女ができたなら、連絡が来たらすぐに返してあげようと思った。
話が逸れてしまった。
さて。彼は一体、どんな武勇伝を聞かせてくれるのだろう。
栄吾の物語を、希望に満ち満ちた世界を話す彼の姿を楽しみに思い浮かべては、ニヤけそうになる顔を引きつらせ、心がふわふわと宙に浮かぶ気分で日々を過ごしていた。
「え? なんだって?」
僕は耳を疑った。
「だからぁ。〝ベルッド書店〟で働いてるんだって、俺」
再会から数日後。僕は栄吾とファミレスで食事をしていた。
過去の話やらなんやかんやと雑談を経て、今はどこに勤めているのか彼に聞いてみたところである。
「〝ベルッド書店〟って、あれだろ? うちの近所にある、すごい小さな本屋さん……」
「そうだよ。昔よく行ってたんだよなぁ」
「それが本業?」
「本業もなにも、そこが職場なんだって。副業なんてやったら確定申告とかめんどいし」
「……」
言葉を失った。
あれだけ、成績優秀、スポーツ万能、皆からも好かれ、イケメンでモテモテだった栄吾が。あんな小さな、妙な名前の本屋さんで働いているだなんて……。
信じたくなかったし、ショックだった。
「な、なんでそんなとこに就職したんだよ」
「そんなとこ、とは失礼な。俺は昔から、ベルッド書店で働きたいと思ってたんだよ。やりたいことがあるから」
「やりたいこと?」
「あぁ。その名も〝乗っ取り大作戦〟だ」
「は?」
僕は、不敵に笑う彼の顔をまじまじと見つめた。冗談……を言っているわけではなさそうだが、彼がなにを言いたいのか理解に苦しんだ。
「あそこさ、店長と奥さんの二人だけで切り盛りしてるじゃん? だから、店長の引退後は俺が後を継いで、好きなように経営すんの。本だけじゃなくて、雑貨とか家電とか置いてみたり」
「お前、本気で言ってるのか?」
「大真面目だよ」
「栄吾のやりたいことがそんなことなんて……、信じられないな。僕はてっきり、弁護士とか裁判官とか、法学部に行ったからこその職に就くのかと思ってたのに」
「そんなのは、俺のやりたいことじゃない」
彼の「そんなの」という発言に、僕は苛ついた。
「〝そんなの〟なんて……。お前の職業観がわかんないよ。そこよりも良い仕事なんていっぱいあるだろ? 栄吾だったらどこにでも就職できそうなのに。なんでもできるクセに、なんでよりによってあの書店なんだよ」
僕のぼやきに、彼は真剣な眼差しを向けるだけで、ぴくりとも反応しない。ぼそっと、「俺のやりたいことだから」と口にする以外は。
呼吸を整え、できるだけ心を落ち着かせて質問をする。
「その書店は、社会保険とか福利厚生っていったものはしっかりしてるのか?」
「んー……。入ってるのは雇用保険ぐらいなもんだし、ボーナスも無いようなもんだからなぁ。残業代は出してもらえるけど、サービス残業みたいなときもあるしな。ま、俺がやりたいことのためだからいいんだけどさ。でもやっぱ、国民健康保険と国民年金よりも、会社で入る健康保険と厚生年金のほうが従業員としては若干安上がりだからあったらよかったなぁとは思う。所得税とか住民税とかその他諸々の出費があるとホント厳しいわ」
彼は、苦笑いなのかただの笑みなのか、微妙な笑顔を見せた。
「そんなんでよく我慢して働いてられるな。そんなの、アルバイトとさして変わらないじゃないか。むしろ、栄吾ならフリーターのほうが稼げそうな気がするし」
僕は大きく溜息をついて言ったが、彼はあっけらかんとして応える。
「ん? ちょっとした不満があるだけで、そんなに我慢はしてねぇぞ? 店長も奥さんも良い人だし、気楽にやれてるからそれでいいかなって」
優しいような、安らぐような、そんな空気を醸し出す表情だった。だが、彼のその笑みとは裏腹に、僕の苛々は増していく。そしてついに、
「……栄吾はいいよな。なんでもできるから、そうやって余裕でいられて」
と、悪態をついてしまった。眉間にしわを寄せ、睨みつけるようにして彼を見、感じの悪い口調で言う。
その様子を目にした彼の表情は、さっきの柔らかで穏やかな雰囲気のものから、少し固くなった表情に変わっていった。
「できることとやりたいことは違う。できたって、やらなきゃ無意味だ」
彼も反論し、嫌なムードに包まれる。
「できることがいっぱいあるから、選びたい放題だろ? まったく、羨ましいことで」
「選ぶもんもねぇよ。俺のやりたいことは決まってたんだから」
「贅沢言いやがって。僕なんか、選べる選択肢も無いってのに」
「人それぞれだ。ワガママ言うんじゃないよ」
彼は雰囲気を紛らわそうとしたのか、軽く笑って言ったが、それが僕の気持ちを逆撫でした。
「我儘とか、そういう問題じゃない。栄吾なんて、あの書店を辞めたって、すぐ他の仕事に就けるだろうさ。でも僕には拾ってもらえるところすら無い。お前は贅沢極まりないね」
「俺は別に、贅沢してるつもりはないよ。アルバイト採用だったとしてもベルッド書店で働いただろうし、面白そうなことはどんどんやっていくつもりだから」
「あんな書店のなにが面白いんだか」
僕のその言葉に、栄吾もついに腹を立てたようだ。怒りを堪えているような顔をして僕に聞く。
「じゃあ、望夢のやりたいことってなんだよ。もし、なんでもできるとしたら、一体なにがやりたいってんだ?」
「ぼ、僕は……」
言葉に詰まる。だが、負けていられないとばかりに口を開いた。
「ふ、普通な生活がしたい」
「普通?」
「そうだ。普通の会社に勤めたいんだよ、僕は。保険も完備されていて、ボーナスはもちろん、交通費も支給されて、退職金制度もあるような普通の会社に。収入も、基本給が高めで安定してもらえる、そんな会社で働いて、お金を稼いで、浮き沈みが無い、静かな生活を送りたい」
「はっ。それができねぇから望夢は今、フリーターなんだろ? ちゃんと現実を見つめろよ」
栄吾は鼻で笑って僕に言った。
「つまんねぇ奴だな」
そんな態度をとられて我慢できるほど、僕は大人ではない。流すこともできず、真っ向から彼の言葉を受け止めてしまった。
「なんでもできるお前に、僕の気持ちなんかわからないだろうな!」
言った後に、はっとした。だがもう遅い。
八つ当たりなんて、みっともない。
恥ずかしくなって、僕は財布の中からお金を取り出し、食事代をテーブルに叩きつけるようにして置いた。お釣りが出るぐらいには出したはずだ。そして、さっと立ち上がり、足早に店を出る。僕を呼び止める声が聞こえたような気もしたが、振り返らずに、進む足も止めない。
栄吾になんか、僕の気持ちがわかるわけない。
そう何度も心の中で繰り返しながら、後悔と自己嫌悪と怒りという、様々な感情に翻弄されつつ、複雑な心境で帰路についた。
あんなことで怒ってしまうなんて、僕らしくなかった。
というか、ここまで立ち入った話をするのは初めてだ。
高校で仲が良かったというのも、表面上の付き合いであって、「心の友」と呼べるまでには程遠かったのだろう。今にして思えばそんな気がする。
これまで立ち入ることのなかった領域に、僕は踏み込んでしまった。そして、勝手に踏み込んだ挙句、栄吾への嫉妬心からこんなことになってしまって、解決策も見つかりそうになくて……。
こんなことなら、高校生のときにもっと深い関わりを持っておけばよかった。互いのことにあまり干渉することの無かったあの頃。過干渉なぐらい構ってみてもよかったのだ。そして喧嘩して、仲直りの方法を学んで、今に活かせたらよかったのだ。
と、今さら考えても仕方のないことなのだけれど、切実にそう思う自分がここにいた。
どうしよう。
謝ろうにも謝れないこの状況。
僕は、昨日の出来事に思い悩みながらバイトに勤しんでいた。
「望夢君、時間だよー」
「あっ、はいっ!」
気がつけば、退勤時間となっていた。考え事をしながらだったためか、いつもより早く時間が過ぎたような気がする。また、なにか失敗をしたり問題を起こしたりしていないか不安になったが、声をかけてくれた先輩の様子から察するに、何事も無かったようだ。この先輩は、誰かがミスをすると翌日まで機嫌が悪いままなのである。つまりは大概イライラしている。悪い人ではないのだけれど……。
僕はほっとして、先輩に挨拶をする。
「じゃ、じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ様」
それからロッカールームに行き、タイムカードを押す。本日の勤務終了。あぁ、これがアルバイトじゃなくて正社員として働いていたら、こんなにモヤモヤした気持ちで帰らずに済むんだろうなぁ。なんて考えながら、自分のロッカーを開けて荷物を取り出した。さらにそこから携帯電話を取り出して、画面をチェック。
メールが一件。栄吾からだ。緊張が走る。
恐る恐る本文を開くと、内容は、
『昨日は悪かった。今日の夕方、時間があったら話したいんだけど』
というものだった。
僕は少し躊躇ったが、返信メールを作成する。
『僕は今バイトが終わったから、これからなら何時でも大丈夫だよ。栄吾に任せる』
送信。
……どんな顔ををして、どんな声で、どんなふうに彼と接したらいいのだろうか。
彼と会う前にシミュレーションを。と思って、様々なシチュエーションを思い浮かべ、最も丸く収まる言動を考える。
これまで、栄吾とケンカすることなんて無かったからなぁ。どうしたものやら。
あれやこれやと思い悩んでいるうちに、彼からメールが返ってきた。
「いやー、ホントにすまなかった。なんか最近イライラしてたってのもあって。悪かった!」
「あ、あぁ、いいよ別に」
出鼻を挫かれ、おろおろする僕であった。
『六時に公園で』ということだったので、僕は六時ちょっと前に公園のベンチに座って、栄吾を待っていた。
彼は公園に着いて僕の近くに来るなり、そんな様子で話しかけてきたのである。
あざといとしか言いようのない軽い口調で話しかけてきた栄吾に、会話の主導権を握られた。
「俺もさ、正直言うと不安なんだよ。この先、上手くやっていけるかなぁとか思うこともあって。あ、昨日の話の続きなんだけどさ。後を継いでどーのこーのとか偉そうに言ったけど、あれ、まったくもって自信が無いから。俺、あんまり考えてしゃべってないから気にしないでくれ」
彼は素直な気持ちを話した。
「じゃあなんで栄吾は安全な道を選ばなかったんだ? 大企業とか狙えただろうに」
「うーん……。俺はさ、大きな会社だからって完全に安心して働けるとは思ってないんだよね。いつどこで何が起きるかわからないっていうか……」
「そんなに心配性なのに、よくあの書店で働こうと思ったな」
僕は苦笑いを浮かべて言った。
「ま、自信は無くてもやりたいことには変わりないし、折角なら挑戦してみたいと思ってね」
心配性の割には積極的なチャレンジャーである。内心、僕は彼に感心していた。
「やれること、やりたいことがあるならやってみる。それが俺のモットーだから」
満面の笑みを浮かべて、彼は言った。
栄吾は笑顔でいることが多い。高校時代に僕は、その笑顔に幾度と救われてきた。そんな彼を怒らせてしまったことを深く反省する。
「栄吾……。ごめん」
「え?」
「僕も謝ろうと思ってたんだけど、先に謝らせちゃったな。本当に申し訳ない」
「いやいや、望夢は謝ることないって! 俺が言い過ぎたんだし、現実を見なきゃいけないのは俺の方だし」
互いに苦笑いを浮かべた。
「現実……か。栄吾ならなんとかなりそうな気がするよ。僕こそ現実を見てなかった。受け止めようとしてなかった」
溜息をついて、僕は話を続ける。
「自分に見合う、というか、僕にでもできそうな仕事を探すべきだったんだろうけど高過ぎる理想ばかり追いかけてて……。それで、図星を指されて腹が立って。それに……」
「それに?」
「その……。羨ましかったんだ。栄吾は僕ができないことも軽々とやってのけるから、僕がやりたいと思ったこともできるはずなのに、なんでやらないのかって思って。僕が栄吾だったら……って考えたら、あれもこれもやりたいし、なんでもできるのに、なんでお前はやらないんだって、一方的に自分の気持ちを押し付けてた」
彼は黙って、僕の話に耳を傾けてくれている。
「だから、本当にごめん。今後はちゃんと、自分の力を見極めて仕事を探すよ。好条件でなくても、雇ってもらえるだけでも有り難いことだと思うしね。……というか、栄吾と話をしてたらそんなふうに思うようになっただけなんだけど」
正直、情けなくも思うけれど、これまで理想を持ってやってきた職探しも、条件のハードルを下げなくてはならない時がやって来たようだ。
逃げだとか諦めじゃない。これは決断……、いや、英断だ。
「あ、そうそう。僕さ、いつも思ってたんだけど」
ちょっと話を変える。
「僕、栄吾みたいな人になりたいと思ってたんだよね。クラスの人気者みたいな?」
「いやいやいや。俺、全然そんなんじゃねぇから」
「おいおい、高校の頃の自分を忘れたか? 超モテモテだったじゃんか。僕も一度はモテてみたいって憧れてたんだよ」
「そんなに憧れられてもなぁ。高校に入学する前まではダメ人間って言われてたんだけど」
「は?」
彼の発言に、僕は驚きを隠せなかった。
誰が「ダメ人間」だって?
自分の耳を疑いながら、彼の顔をまじまじと見つめて話を聞く。
「望夢は高校からの俺しか知らないだろうけど、俺は元々、根暗な奴だったんだよ」
「え? お前が?」
「そ。周りとコミュニケーションはとれねぇわ、勉強もなにがわからないのかすらわからない。そんな奴だったよ。はっきり意見は言えないし、気も利かない。そんでバレー部の先輩達にめちゃくちゃ怒られてたっけな。中学の最初の頃はそんな感じだったわ」
「……信じられない。今の栄吾からじゃ想像がつかないよ」
「高校からはそれなりに頑張ってたしな。勉強も部活も。中学は部活しか頑張ってなかったけど、そのときのバレー部の顧問の先生の影響が強く出たのかもな」
ケラケラと楽しげに笑って言う。
「影響?」
「中学校のバレー部の顧問が、見事な熱血教師でさ。他のみんなはすごくウザがってたけど、俺にはその先生の言葉が見事に突き刺さった感じだったんだ」
「へぇ。例えば、どんな言葉?」
「そうだなぁ。例えば、〝ツラいときでも笑顔でいられる、カッコイイ奴になれ〟とか熱く語ってたな」
「……はぁ」
熱血教師って感じだな。台詞がクサい。
「周りのみんなは〝熱血教師の名ゼリフいただきましたー〟とかって馬鹿にしてたけど、俺には響いちゃったね。個人的に先生のとこに話をしにも行ったこともある」
その場にいたら、僕もきっと栄吾の周りの人達と同じように、先生を茶化したことだろう。「なにクサい台詞吐いてんだか」と呆れて言ったかもしれない。
「その先生の言葉が、見事に俺のツボにはまったよ。なんでもいいから、やれることがあるならやってみたいって思ってたから。〝ダメ人間〟なんて周りから言われて笑っていられる程、大人じゃなかったから。今でもそうだけど、中学のときの俺は特にな。自分を変えたいってガムシャラだった」
栄吾にも、そんなふうに悩んでいた時期があったということに驚いた。知られざる彼の過去だ。そんな話は誰からも耳にしたことが無かった。僕は彼を〝生まれながらにしての超人〟だと勝手に思い込んでいたし。
「その先生はこうも言ってた。〝負の連鎖を断ち切るには、笑うのが一番。悲しいとき、寂しいとき、困ったとき、腹が立ったとき……、全ての負の力を笑顔に変える。そうすれば自然と負の感情を祓うことができる。すると、自分も周囲も負の空気から解き放たれるんだよ〟ってさ」
長い台詞だし、栄吾もよくそんな言葉を覚えていたものだ……。
「そ、そうなのか」
「胡散臭い話だろ? でも、そのときの俺には自分にやれることもわからなかったし、どう動いていいのかもわからなくなってたから、とりあえず騙されたと思って、先生の言葉を信じてみようかなって。それからはできるだけ笑顔でいるように努めた」
栄吾は変わらない笑顔を見せている。その表情を見ていると、なんとも言えない「癒し」のような空気に包まれる気がした。
「それからかもね。俺も周りの雰囲気も変わり始めたのは。いや、俺の受け取り方、考え方が変わっただけなのかもしれないけど」
「先生の影響、お前はまともに浴びたんだな」
笑っていいのか真面目に聞いたらいいのかわからず、僕は半笑いのような表情になってしまった。その表情を気にも留めず、彼は話を続けた。
「あぁ。あとこんなことも言ってたな。〝期待はしないけど希望は捨てない〟って。期待したところで、現実は結果が全て。期待する暇があるなら自分で努力するほうがいい。希望は道しるべにもなるし、やる気の元にもなる。希望を捨てちゃったら、気持ち良く先へは進めない。希望と現実は一緒になるとは限らないけど、目標があることで頑張れるなら、希望は持っていても損はない。そんなようなことも熱く語ってたなぁ」
今のお前も十分熱いがな、という突っ込みはさておいて。
「希望ねぇ……」
と、僕は苦い顔をして呟いた。
「望夢は賢いから理解できると思う。現実はそう甘くはないんだってこと。ま、実体験も踏まえて、痛感してるんじゃない? 自分の思い通りに事が運ぶ人なんて滅多にいないってことをさ。その現実の中で、自分はどうやって進んでいくか……、それもなんとなく察してるんだろ?」
微笑みながら問いかける彼の顔を見て、視線を合わせ、僕は僕自身を認めた。
「そう……だね。まぁ、賢いかどうかはわかんないけど、僕も希望は捨てないように頑張ってみるよ。挑戦はしてみるけど過度に期待はしない。多分それは、自分を……それに相手も傷つけることになっちゃうかもしれないから」
辺りは暗くなってきていたが、公園の電灯のお蔭もあって、隣に座っている栄吾の顔もよく見えた。笑顔でうんうんと頷いている彼に話しかける。
「あのさ、栄吾のモットーを僕も借りていいか?」
「うん?」
「やれること、やりたいことがあったらやってみる、っていうやつ」
「あぁ、もちろん。ってか、そんなのはみんなの自由だからな。どう考えて、どう動くかなんてさ」
かかっと軽快に笑って、彼は答えた。
「あと」
「あと?」
「その笑顔も、僕はいただくよ」
そう言って僕は、慣れない笑顔を彼に見せた。
少しずつ変わってきたのかもしれない。ほんの少しずつだけど。
まずは自分を認識するところから始めた。
なにが好きでなにが苦手で、何がやりたいことなのか、何ならできるのか。長所を伸ばして短所を補うためにはどうしたら良いか。色々と考えて、自己認識どころか余計にわからなくなっては栄吾との会話を思い出す。
そこで行き着いて、始まったのが「笑顔」である。
そういえば、これまであまり笑顔で人と接してこなかったかもなぁ、と思い返しながら、自分なりの、自然な微笑み方を身に付ける努力をすることにした。
最初は意識し過ぎてぎこちなかった笑顔も、自然と出すことができるようになってきたし、極力、笑顔で過ごすように心がけてから、それ以前よりもバイト先で話しかけられることも多くなってきたように思う。
就職活動にも手ごたえを感じ始めていた。
多くの会社の採用方法は、書類審査を経ての面接。これまでの僕は、カチコチに固まってしまって、表情も硬く、相手の顔も怖く見えてしまい、目を合わせて話すこともできなかった。相手を見るときは、せいぜい鼻や口、もしくは首とかネクタイしか見ることができなかったのである。
それが笑顔になって行くと、見える景色が違った。気のせいかもしれないけれど、相手の表情も朗らかに見えるようになってきて、恐怖心も薄れた。そのため、心にも若干の余裕が生まれて、思考を巡らすことも容易くなって……。結果、スムーズな会話のやり取りができるようになった。以前と比べて、大変な変わり様である。就活も、人との言葉のキャッチボールの練習だと思えば充実感も得られるし、いろんな人と話すことが楽しく、興味深いものだと感じるようにもなってきた。
ただ、今も相変わらず書類審査で落とされることが大半だが。けれど、正社員への道の合流地点まであとちょっと。そんな気もしている。
フリーター生活もどのくらい経っただろうか。そんなことを考えていたら、突然バイト先の店長から呼び出された。なんの前触れも無かったので少々不安気味で事務室へ。
事務室へ行くと、店長にこんな話をされた。
「望夢君、最近明るくなったような気がするんだけど、なにか良い事でもあったのかい?」
「えーと……。あったような、特に無いような……」
「なんだか以前よりも笑顔が増えたし、ハキハキと話せるようにもなってて、ちょっと驚いてるんだ。就職活動が上手くいってるのかなぁなんて思ったんだけど」
「いやぁ。就活のほうは全然駄目ですよ。相変わらず落ちまくりです」
苦笑いを浮かべて言いたいところだけど、変に気を遣われるのも嫌だったので、快活に笑って言った。
「そっか。じゃあ、ここからが本題ね」
「はい」
「望夢君、ここで正社員として働く気はないかい?」
「へっ?」
寝耳に水とはこういうことか? 予想だにしていなかった店長の発言に、僕はドッキリ的な大作戦でも仕掛けられているのかと警戒してしまった。
「あぁ。もし他にやりたいことというか、目指しているところがあれば話は別なんだけど、君は接客態度も良いし、仕事も慣れてきたみたいで手際も良いし、頼れるようになってきてるし。これからもどんどん成長していく見込みがあると僕は思っているんだ」
「そ、そんな。買い被り過ぎですよ」
「僕の目がそう言っているんだ。間違いない」
店長は、普段からもよくナルシストっぽい雰囲気を醸し出す。それで従業員一同、若干引いてしまうこともある。言動が常にそんな感じなので、僕は無神経に聞き流すことが多いのだが、今の言葉は嬉しく受け取った。
「だからぜひ、このお店の正社員になって皆を引っ張っていく存在になってほしいと思っているんだ。どうだろう?」
こんな僕に、ここまで熱烈に誘いをかけてくる人なんてそうそういない。それどころか初めてかもしれない。いや、初めてだ。
そしてこれは「やりたいこと」でなくても「やれること」ではあるということ。店長の発言を信じれば。
期待に添えるかどうかは別として、今の僕にやれることであれば、積極的にやってみたい。
「店長。正社員の件ですがぜひ……」
「なに!? やってくれるの!?」
人の話は最後まで聞きましょう。
「そうじゃなくて。まずは労働条件に関して詳しい話を聞かせてください」
「あ、はい……」
店長は先走ってしまったことを恥ずかしく思ったのか、顔が真っ赤になっていた。
今日の出来事を早速、栄吾にメールした。すると、
『よかったじゃん! で、望夢はどうするつもり?』
と返ってきた。
僕は迷うことなくメールを打つ。
『やってみようと思ってる。条件はともかく、正社員として働かせてもらえるなんて、ここぞとないチャンスだから』
送信すると、返信はすぐに返ってきた。
『そうだよな。ま、お互い頑張ろうぜ』
そのメールには続きがあった。
本文を下へとスクロールすると、こんなことが書いてあった。
『……ところでさ、ベルッド書店の名前の由来、知ってるか?』
店の名前の由来? 考えたこともなかったな。「ベルッド」なんて聞き慣れない言葉、どこぞかの国の言語からでも拾ってきたのではなかろうか。
『いや、知らないな』
『それがさ、俺も今日知ったんだけど、「ベル」と「ウッド」を繋げただけなんだってさ。そういえば店長、鈴木って名字だなって(笑)』
ベル(鈴)とウッド(木)。鈴木。ベルウッド。ベルッド。
……僕は一人静かに腹を抱えた。
笑いを堪えながらメールを打った。
『安易だな。でも普通じゃないとこがイイ』
『な。安易だけど、でもそれを堂々と店名にしちゃうところがすげぇよ。店長、異彩を放ってるぜ』
ふと思ったが、僕の周りには異彩を放つ人が多い気がする。……いや、やはりそんなに大勢はいないかもしれないが。
しかし、彼らが集まったら異彩とは言えなくなってしまう。そこに僕が入って初めて、僕が異色ということになるのだろう。
異色。
一人一人にそれぞれの色はあるが、似たような毛色の人はいたとしても全く同じということは無い。彩度や明度が違ったり、柄だって入っていたりするかもしれない。
その中の少数派で目立つ人が異彩と言われるのかもしれないけれど、それはそういう個性であり、なにも特別なことではないのだろう。
僕にとっては異彩を放っているように見える栄吾だが、彼からすれば僕も異なる色を放っているらしい。
類は友を呼ぶ。似たような者が集まりやすいとも聞くが、やはり、自分と似た感覚を持つ人と一緒にいたほうが、そりゃあ楽だろう。僕は僕でおとなしい部類だし、彼は騒がしい部類であると分類できる。そんな僕等が仲良しだった高校時代を不思議に思った。まぁ、所詮は上辺だけの仲良しだったということなのだけれど。
でも、今は違う。腹を割って話をして、互いのことを深く知った。まだまだ知らない部分は多いだろうけど、それでも互いを受け入れて、今後も長い付き合いになりそうな予感がしている。
そんな話を車中でしていた。
異色の組み合わせとなる二人で、なぜかドライブをしているが、こうして一緒にいると、異なる色が混ざり合っていくような感覚に陥った。それでも、彼のように明るくて元気の良い性格にはなれないだろうけど、なんとなく、これまでとは違った自分が見えてくる。
「山歩きなら平気っしょ?」
彼は車を運転しながら、突然言った。
「な、なんで山?」
「だって、望夢がスポーツはダメとか言うから」
「だからって……」
「そうそう、山の上に神社があってさぁ」
人の話を聞け!
と、いまさら栄吾に言ったところで無駄だろうから口にはしない。彼の奔放さには参ったものである。
あの仲直りのあと、なにげに二人で外出することが多くなった。……といっても、僕が一方的に連れ出されるだけなのだが。
ショッピングに行っても僕と彼のセンスは違い過ぎるし、本屋に行っても彼はファッション雑誌やスポーツ雑誌、漫画の方へ。僕は文芸書や小説という絵や写真よりも文字の多いものを好む。
だけど、それもまた刺激になって、興味が広がったり話のネタになったりする。そしてなにより、栄吾と一緒にいることが、これまで以上に楽しく感じられるようになってきた。
で、山のほうはというと……。
「え!? ここから歩いて登るの!?」
「そりゃそうだよ。山歩きって言ったじゃん」
そうは言っても、神社のある頂上付近まで一体どのくらいの距離があるのだろうか。気が重くなる。
「栄吾……。もう、ここまででいいんじゃないか? わざわざ神社まで歩かなくても……」
「なーに言ってんだよ。望夢もたまには運動しなきゃ体に悪いだろ?」
「僕は別に、健康を意識してるつもりもないんだけど」
「うだうだ言わずに歩けよ。さぁ行くぞ」
「ちょっ……、待てよ!」
僕の話に耳を貸さず、彼はさっさと歩いていく。待っているわけにも、ましてや帰るわけにもいかないので、渋々彼の後をついて歩いた。
「ちなみに、神社まではどのくらい歩くんだ?」
「まぁ、二、三十分ってとこかな」
「に……」
言葉を失った。
普段、散歩や買い物などの外出もしない僕が、山を十分以上歩くなんて考えられなかった。果たして無事に帰ることができるのだろうか。
栄吾は楽しそうに、僕に話しかけながら歩く。僕は息を切らしながら相槌を打つことだけで精一杯だった。考えを巡らす余裕も無かったし、なにを質問されたかもわからない。
そんな感じで、意識も朦朧とし始め、ふらふらになりながらも歩く。必死に。彼の背中だけを見て。
「お。あの木、すげぇ太くね? 周りの木と比べもんにならないな」
僕にはそんな、周りを見る元気も無い。
ついには返事をすることさえできず、彼の一方的な話しかけとなっていた。もはや独り言である。
と、そのとき。
「うわあぁぁぁっ!」
叫び声で、僕の遠ざかりつつあった意識が呼び戻された。
一体なにかと思って顔を上げると、栄吾が駄々をこねる少年のように暴れ回っているではないか。
「ど、どうした!?」
声をかけると、彼は自分のシャツを手で伸ばしながら、僕の元に駆け寄ってきた。
「望夢! これ! 取って! 早く!」
カタコトのような話し口調で僕にせがんできた。
なにかと思えば、彼のシャツにクワガタムシがくっついていた。
「なんだ。ただのクワガタじゃないか」
その辺りから飛んできて、たまたま彼のシャツにしがみついたのだろう。それほど大きくもなく、ぱんっと叩けば落ちそうなものなのだが。
「ただの、じゃないよ! いから早く!」
彼は大変に怯えていた。
僕は、栄吾のシャツにしがみついているクワガタを掴んで引っぺがし、草むらの中に放り投げた。
「はい、取ったよ」
「あ、ありがとう……」
今にも泣き出しそうな彼の顔を見て、僕は笑った。
「お前にも苦手なものがあったんだな」
「あるよ! 人間だもん!」
すっかり脱力した彼は、とぼとぼと歩きながら呟く。
「やっぱ、こんなとこ来なきゃよかったかも」
「なに言ってんだ。お前が言い出したんだろ」
「だって、よく考えたら山の中なんて虫がいっぱいいるじゃん」
「そりゃそうだろ」
「望夢は、虫、平気なの?」
「別に、苦手ではないかな。栄吾はクワガタだけじゃなくて、他の虫も嫌いなのか?」
黙って頷く。
「……は。はははっ!」
僕は声を大にして笑ってしまった。
「笑い事じゃないだろ! だって奴ら、足が六本とかそれ以上あるんだぜ!? 意味わかんねぇじゃん!」
「意味がわかんないのは、お前の理屈だ。屁理屈をこねるんじゃない」
栄吾にも苦手なものがあったということを知って、安心したというか、さらなる親しみが沸いたというか。なんだか笑いが込み上げてくる。
笑いと共に力も込み上げてきた僕は、栄吾の前を歩き、笑顔で元気よく進んだ。
久しぶりに大笑いをした気がする。
落ち込むことは多くても、楽しいことや喜ばしいことを感じるときはあまり無い。ただ、辛いことのほうが記憶に残りやすいだけなのかもしれないが。それでも、今日という日は忘れることは無いだろう。僕の心に深く刻み込まれたこの記憶は、彼にとっては不名誉だろうが、良い笑い話となった。そしてそれは、これから先も語られていくことになると思う。僕によって。
楽しいことは、これから先もきっとある。
そんなことを思わせる山歩きだった。
無事に神社へと辿り着き、これからも良いことがありますようにという無難なことを祈り、来た道を通って帰った。
帰りの車の中でも僕の笑いが止むことは無かった。筋肉痛になるかもしれない、と思うぐらい笑った。ふて腐れる栄吾を見ても笑えたが、やはりあの慌てっぷりだろう。あんな彼の姿を見たのは初めてだったからか、衝撃も半端じゃない。
最後には、二人して笑っていた。
本当に良い一日だったと心から思う。こんな日々が続けばいいのになぁ、とも。
こういった楽しさを味わうために生きていくのも悪くない。
なにをしたいとか、具体的なことはなにも考えていないけど、栄吾と関わることが多くなって、より一層、そんなことを強く思うようになった。
「普通の生活がしたい」と思っていた僕だけれど、「普通」なんてものは人によって違うし、もしかしたら普通なんて存在しないんじゃなかろうか。
波の無い、落ち着いた生活だって、波が無いなんてことは無いだろう。自分だけじゃなくて、皆で生活しているのだから。誰かが揺れれば、こちらも揺れる。
現実を見るということは、自分を見ることもそうだけど、周囲の関係も見ることになる。
栄吾が良い例だ。
彼のお蔭で、僕は動き始めた。伝導した。彼の熱が僕の心に伝わった。今なら僕も、周りに引かれるぐらいの熱い語りを披露できるかもしれない。
夢も希望もありゃしない、なんて口にするもんじゃない。と、今の僕なら昔の僕に言えるだろう。
考えたところでどうにもならないことは多々ある。でもそれも無駄ではない。現実的なことを考えた上で夢や希望を抱くのならば、向上心、動機、やる気、推進力などの様々な力に変換される。ただし、現実離れし過ぎた誘惑には要注意。世の中、思いどおりにいかないことのほうが多いのだから。と、このぐらいで考えを留めておくことにしよう。
夢や希望を抱くのは、それぞれの自由。