序幕 3
夜刀に仲裁してもらい、お膳立てしてもらった謝罪の機会。
さりげなく彼女の勘違いからデートの場まで設けてもらった。
ここまでしてもらった以上、仲直りできませんでしたなどという情けない結果を持ち帰るわけにはいかないだろう。
普段はあまり着飾らないが、さすがに外行きの私服ならばいくらか揃っている。
その中から日向の隣に立っても見劣りしないで済むような服を選択して、約束の時間の30分前に待ち合わせ場所であるバス停に来ていた。
日向は比較的時間にはルーズな生活をしている。
おそらく待ち合わせの5分前くらいにくるだろう。
予定しているバスの時刻を確認してから、空を見上げる。
しかし日の光がまぶしかったのですぐにやめた。
まだ20分以上あるが、待つのはそこまで苦手というわけでは無い。
まずは謝罪するとして、夜刀がすでに話をしている水族館にどう誘うべきかを考える時間になる。
シンプルに仲直りをしたいから、という口実で大丈夫だろう。
「…………」
思ったよりも早く片付いてしまった。
そもそも待ち合わせに早めに来てやることが無いからと、暇と認識して無益な思考を展開するのは時間を無為にしていると同義だろう。
そのようなことを考えるならば、帰りのバスの予定や水族館のホームページなどから見所やオススメのポイント等をあらかじめ調べるなど、やるべきことはある。
我ながらわずかな時間とはいえ余計なことに思考を割いたことに呆れ、ため息をこぼす。
そして本来やるべきだった行き先の水族館のホームページを調べるため、スマートフォンの画面を立ち上げる。
水族館の検索をして、まずは水族館のホームページから目を通していこうと検索結果の1番上に出たページを開こうとした時だった。
「お待たせしました」
普段ならばもう10分程度は遅くくるだろう待ち人の声が聞こえた。
予想よりも日向は早く到着した。
スマートフォンから目線を声の主である幼馴染に向ける。
俺と日向は男子生徒が9割を超える高校に通っているため、あまり同年代の女子を見る機会が少なく比較対象が夜刀くらいしかいない。
しかし、幼馴染の贔屓目というのもあるかもしれないが、日向の外見は美人の部類に入るだろう。
顎が短く顔のパーツ同士の間隔が全体的に狭いため実年齢より幼げな顔立ちだが、暗い茶色の瞳が特徴垂れ目とその小さく愛らしい容貌が優しげな雰囲気を出している。
身長は160cmに満たない。その小さな体が優しく幼なげな顔立ちと相成り、儚げな印象を与える美少女となっている。
同年代の中でも比較的小さい身長である日向本人は夜刀くらいの身長は欲しいというが、夜刀はむしろ小さい日向が羨ましいと言っている。
そんな日向の服装だが、服はクルーネックのTシャツに小柄な彼女が着ると大きく見えるコート、ズボンは裾が広いくなっている7分丈のいわゆるクロップドパンツというゆったりした服装だった。
俺はスマートフォンをしまうと、声をかけてきた、つまりこちらの話に耳を傾けてくれる状況に落ち着いていた彼女に向かって、深く頭を下げた。
バス停には誰もおらず、車は通るが歩行者もいない。多少大げさな動作も目立つことは無いだろう。
「昨日は気分を害するようなことを言って申し訳なかった。光聖……彼のことを侮ったわけでは無い、むしろ幼馴染を助けてくれたことに感謝している。だが語弊のある言い方をしてしまったことでいらぬ誤解を招き、不愉快な思いをさせてしまった」
「……うん、許します」
謝罪は受け入れてもらえたようである。
もう昨日の件については怒っていないことを伝える幼馴染の声を聞いて、下げていた頭を上げる。
人の評価できるほどファッションについて理解しているわけでは無いので、ここは外行きの私服姿でいる相手の服装に対する礼儀として褒め言葉を言っておく。
「それとその服装だが、とても似合っている」
「……本当にそう思っているの?」
「…………」
さすがに付き合いが長いだけあり、中身の無い褒め言葉には敏感のようである。
ここで反論すれば認めるも同じであり、せっかく修繕してもらった中に再び水を差すことになりかねない。
そのため、ここは返答をしない、つまり逃げの選択をとった。
「……逃げましたね」
「少しバスが来るまで時間があるな」
「……まあ良いでしょう」
幼馴染というだけあり、付き合いも長い。
逃げの選択をしたことは早々に看破されてしまったが、それほど悪い印象は与えずに済んだらしい。
水族館に行くことは、夜刀からすでに日向に話しているはずである。
俺はバッグから2枚の水族館のチケットを取り出し見せる。
「夜刀から話は聞いていると思うが、ここに付き合ってもらいたい。昨日の件はそれで終了とし、彼女がくれたこの機会をお互いに楽しむとしよう」
「分かりました。しっかりエスコートしてくださいね」
微笑みを浮かべた彼女の反応から、第一段階の和解はこれで解決したと見ていいだろう。
もしも昨日の喧嘩がなく、夜刀が当初考えていた通りに俺か日向を誘ったとしたら、もっと楽しい1日を楽しめたのかもしれない。
つまらない人間である自覚はあるが、そのような想像はチケットを譲ってくれた夜刀の好意を裏切る考えなので、早々に切り捨てて日向と楽しむことにした。
……後から考えたとき、この1日が違う方向に動いていれば2人は巻き込まれることがなかったのではと思うときがある。
だがたとえバスに乗らなかったにせよ、彼女が巻き込まれていたことを考えれば、俺がこのバスに日向と一緒に乗ったことは連れて帰る機会を得られた幸運だったかもしれない。
とにかく、この水族館に向かうバスが、あの非現実的な体験から召喚された世界での長い戦いの時を過ごすことになる、その始まりとなった。
日向は先に水族館を満喫してきた夜刀の話を聞いてから、一度は行ってみたいと期待を膨らませていたのだという。
バスを利用して、片道40分程度。
水族館のある隣町に向かう途中には、2つの街の境目にある山々を潜るトンネルがある。
週末ではあるが、バスの中は空いており、簡単に席に座ることができた。
しばらくバスに揺られていると、やがて目的地である水族館のある隣町との境目の山に通されたトンネルに差し掛かった。
「「…………」」
そして、ここに至るまでバスに乗り込んでから、2人がけ席に隣同士で座っている俺と日向の間には一切の会話がない。
俺はもともと口数は少ないほうだし、日向は俺ほどでは無いが基本的に他者との会話は聞き役に回るタイプである。お互い意味もなく会話を切り出すことはしないため、移動中は静かだ。
窓側の席に座る日向は外の流れる景色を見ており、俺はスマートフォンを開いて日向の到着により中断していた水族館の見どころやおすすめのポイントなどを調べている。
しかし、トンネルに差し掛かったことで電波が一時的に届かなくなった。
スマートフォンを閉じるて隣に目を向けると、外の景色が対向車線とトンネルの壁だけになったことで景色が楽しめなくなりこちらの方を向いた日向と目が合った。
おそらく、日向も俺が何をしていたのか気になったのだろう。
しかしお互いに眺めていた景色と見ていたスマートフォンが閉じたことで、相手の方を見たがそちらも閉じているという状況。
「……クス」
それが面白かったのか、日向が口元を片手で隠しながら笑った。
俺も個人的にはこのようなつまらない偶然も面白いとは思うし、幼馴染の少女が笑ってくれれば気分も晴れたものになる。
だが、客観的に見てみればトンネルに差し掛かったらこうなるだろうし、そもそもバスの中で突然2人揃って笑い出せばマナーが良いとは言い難いので、こういう場面では笑えない。
むしろ水を差す発言をしかねないところだが、このバスは空いており周囲に人はいないし、日向も他人の迷惑になりかねないような笑い方はしていないのだし、何よりさすがに昨日の件もあるしそれくらいは自重する。
結果、笑顔を浮かべる幼馴染を無表情で見下ろす形となる。
なるほど、第三者の視線から見ればこういう人間は物静かというよりつまらないという印象を与えがちだろう。
そんな俺を見上げて、何を思ったのか日向は俺の頬に手を伸ばし指で挟んだ。
「……今なら迷惑にもならないですし、少しくらい笑いましょうよ」
「ふまらにゃいいんえんいぇもゆしぃわけにゃい」
「つまらない人間で申し訳ない、ですか。言葉通りの意味で言っていると思いますけど、受け取り方によっては開き直っていると受け取られますよ」
「善処しよう」
日向から指摘を受けた。
彼女の冷たい指先が頰から離れていく。
難しいものだなと思いながら、時刻を確認する。
このトンネルは結構な長さだが、水族館前のバス停はトンネルを出てから10分程度で到着する場所にある。
もうしばらくことつまらない景色が続くだろう。
……そんなことを考えていた時、異変は起こった。
最初は違和感でしかなかった。
揺れるバスの中である。人によっては気付かないくらいの、バスによるものでは無い揺れ。
地面が揺れている?程度の違和感。
それを覚えた直後、突然バスが急ブレーキをかけた。
「–––––––キャッ!?」
突然の急ブレーキに俺たちを含めた数人しかいないバスの乗客たちは驚く。
運転手が何をしたのか。1人の客が状況を確認しようとした時だった。
「皆さん伏せて!」
切羽詰まった運転手の声が車内に響き渡る。
その直後、先ほどまでのバスの揺れや悪天候を進む飛行機の揺れなどとは比べ物にならない、立つどころか座りながらでも姿勢を維持することなど困難な、今まで感じたことも無い巨大な揺れが起こった。
「なっ!?」
運転手に状況を確認しようと立ち上がりかけていた乗客が短い悲鳴を発してバスの床に投げ出される。
そこからは、あまりの揺れにパニックになる人の悲鳴、車のクラクションの音、そしてトンネルが割れるような音が、巨大な揺れの音に全て飲み込まれた。
震度7クラスの大地震。
突然襲いかかったてきた未曾有の大災害。
俺は運転手の声と同時に隣にいた幼馴染をとっさに庇ったが、はっきり言ってそんなものは何の意味もなかった。
強い揺れが襲いかかってきてから、わずか30秒ほどの時間。
地面を揺らす音は、さらなる轟音にかき消される。
それは、トンネルが崩れる巨大な落盤の音だった。
巨大な岩が崩れ落ちてきて、大量の土砂が視界を完全に塞ぐ。
人の悲鳴など、瞬時にかき消された。
揺れながらもかろうじて見えた、トンネルが崩れていく姿。
一生を通しても、おそらく2度と見る機会は無いだろう自然が易々と人の作ったものを崩していく光景。
あれの前には、俺1人が何をやっても日向を守ることなど不可能だ。
その光景に、自分よりも彼女の生存を願ってかばった俺は、諦めの感情を抱くしかなかった。
せめて、日向だけでも生き残って欲しい。
ささやかだけどゆずれない願いも、大自然は無情に潰す。
まるで巨大な砂のカーテンのように易々と崩れていくトンネルは、バスにも襲いかかる。
巨大な衝撃が車体に響き、視界が完全に黒に塗りつぶされる。
……だが、視界がなくなり、音もかき消された中、その直前にこの大自然の猛威と比べとても静かだったが、とても不思議な光景を見た気がする。
隣に座っていた幼馴染の体が光ったと思うと、まるで最初から幻だったように消えたのだ。
突然庇っていた相手を失い、空洞になった座席に上半身を打ち付けた。
それが、最後。
その不思議な現象に目を向ける間も与えられず、バスは完全に潰され、全てが黒一色に飲み込まれた。