序幕 2
その日は夜刀から説得はしているという連絡はあったが、聞く耳を持ってくれるまでは時間がかかりそうとのことだった。
苦労をかけていることに対する謝罪を返信する。
翌朝。
薄暗く外も冷え込んでいる早朝に、中庭にて素振り用に用いている通常よりも重い木刀を振る。
祖父の教えにより毎朝欠かさず行ってきた素振りを終え、日の光で明るくなりつつある空を見上げる。
「…………」
素振りの間は余計なことを考えないようにしている。
そして、素振りを終えれば祖父の言う『余計なこと』をすぐに考え始める。
日向があの様子では、夜刀の説得を受けて頭が冷えるまでは俺の言葉に聞く耳を持つことは無いだろう。その状態で謝罪をしても何も解決しない。むしろ顔を見せれば悪化する。
考えても夜刀が仲裁してくれるまでは俺にできることは無い。
木刀を片付け胴着に着替えてから、祖父の所有している道場へと向かった。
一礼し足を踏み入れる。
道場には誰もいない。
道場の師範である祖父は、脳溢血で半年前に倒れてしまい、一命は取り留めたものの後遺症で車椅子生活を余儀なくされており、この道場を利用する機会はほとんど無い。
祖父が倒れてからは夜刀以外の門下生が去ったことで閉鎖することになったのだが、祖父が反対することが目に見えていたこと、夜刀が残っていたことから、せめて祖父が存命中は残しておこうということになっていた。
師範代は俺が勤めているが、正直なところ剣では夜刀の方が実力は上である。
力押しすればどうにかなるものの、純粋な技量では敵わない。
祖父が倒れてからは俺と夜刀しか使っていないため、道場はいつも閑散としている。竹刀か木刀がかち合う音も、最大でも一組しか聞こえない。
祖父の容体はこの4ヶ月間安定しているが、いつ倒れてしまうかわからない。
道場に来るたびに、今まで多くの事を教えてもらった師のことを思う。
正座で少しの間道場の中を眺めていると、突然背後から害意を感じ、すかさず右側においていた木刀で振り下ろされてきた木刀を受け止めた。
「さすが師範代。音は立てなかったつもりだけど、やるね」
「……問答無用で音もなく背後から斬りかかっていいのは道場破りか暗殺者であって、門下生では無いだろう」
この悪戯を仕掛けてくる人物は決まっている。
振り向くことなく反論すると、脳天を狙って振り下ろされていた木刀が上がる。
そこでようやく振り向くと、声を聞いた時点で確信していたが、案の定最後の門下生となっていた師範代よりも強い同い年の、幼馴染の親友がいた。
自分で言っておいてアレだが、道場破りでも暗殺者でも襲いかかっていいというわけでは無い。
法律上は暴行、場合によっては殺人未遂になるだろう。
彼女も殺す気は無いだろうし、防げず怪我をしても俺は人より怪我が治るのが早い頑丈な肉体が数少ない取り柄なのだからあまり関係無いが。
俺の隣に座った夜刀は、悪戯を仕掛けた際の表情から、申し訳なさそうな沈んだ表情になり先日の成果を伝える。
「その……あの子、なんだけどさ……」
「……結論だけ言ってくれればいい。面倒ごとを押し付けた分も含め、非は俺にある」
その表情から、まだ日向はこちらの言葉に耳を傾けずへそを曲げたまま夜刀の説得にも応じていないのだと推測する。
悪いのは俺であり、夜刀には迷惑こそかけているが八つ当たりするつもりは無いので遠慮なく結果を伝えてもらえればいい。
そう思い、思わず聞き方によっては急かすような言い方をしてしまう。
「……それ、逆に苛立っているように見えるから」
すかさず夜刀から指摘が入った。
そんなつもりは無いのだが……
「気分を害したのならば謝ろう」
「私も怒っているわけじゃ無いし、そのくらい分かっているから」
ため息を挟んでから、夜刀は沈んでいたはずの表情から苦笑いを浮かべて俺の推測を裏切る成果を言った。
「ま、説得は成功したよ。昼に会ってくれるって言ってから、ちゃんと謝っておきなさいよね」
「……そうか。てっきり、その表情から今日も無理だと思っていたが、驚かされた。感謝する」
隣に座る夜刀の方に向き直り、その場で頭をさげる。
すると夜刀はため息をついた。
「ドッキリ失敗。あんた、やっぱり反応がつまらないわ……」
顔を上げると、興が冷めたというようなつまらなそうな表情になっている夜刀がいた。
どうやら、あれは演技だったらしい。俺を騙して反応を面白がる魂胆があったのだろう。
しかし、自分で言うのもあれだが、彼女がつまらないといったように主観的な立場による言動はなるべく無いようにしている俺では、反応はつまらないものになる。
ドッキリを仕掛けるには面白い相手とは言い難いはずだが。
「面白い反応を期待するなら、別の相手を探したほうが賢明だ」
「それさ、『お前のドッキリなんぞに引っかかるかバーカ』って言っているのと同じだからね。悔しいんだけど」
「……助言のつもりだったのだが。いや、気をつけよう」
面白い反応を引き出す相手は選んでドッキリを仕掛けたほうがいいというアドバイスのつもりだったが、夜刀からそうは受け取ってもらえないという指摘を受けた。
やはり何かを言うたびに別の意味で受け取られる物言いをしがちになるらしい。
「あんたはさぁ……顔はいいんだから、もう少し自分とちゃんと向き合いなよ。その一歩引いてる姿勢もいいけどさ、仲良くなること拒絶されてるみたいに見えるんだけど。こう、ちゃんと一対一で向き合ってくれない感じがするから」
「善処しよう」
夜刀からのダメ出しに、反論する余地の無い正論なので頷く。
確かに、俺は欠点が多い。
自分に向き合え、相手を見ろ、か……
一度試してみよう。
夜刀の方を向いて、相手の目を見て、客観的な立場を取らず一対一で向き合う。
「……正面から向かい合うことから、ね」
「夜刀。好きだ、付き合ってほしい」
「私より強ければ考えないことも無い」
そして、速攻で切り捨てられた。
一応本気ではあるのだが、夜刀の方は自分より弱い男は嫌いらしく、剣の技量で劣っている俺ではふさわしく無いと思っているらしい。
告白したのはこれが初めてでは無いのだが、今のところ全て同じ文言で断られている。向こうが本気で受け止めているかどうかは不明だが。
「……一対一で、か」
正面に向き直り、道場にある神棚の斜め下に飾られている掛け軸に目を向ける。
そこはかつて祖父がこの道場の門下生全てに向けて書いた標語があったが、脳溢血で倒れた時に破いてしまい、以来空となっている。
はたから見れば、俺の応答はあの掛け軸のようなまともに向き合っていない中身の無いものかもしれない。
「さっさと稽古始めるよ。私がお膳立てしたんだから、ちゃんとしなさいよね、お昼のデート」
「……承知している」
確信した。
夜刀は俺の告白を冗談と受け取っているようだ。
とはいえ、彼女が自分より弱い男の告白は受け付けないことにしているのもまた事実である。
冗談で切り捨てられるのではなく本気で聞いてもらえるように、まずは彼女を剣技で越えることから始めるとしよう。
……俺の思い違いかもしれないが、時折俺が日向に好意を抱いていると勘違いしているらしき言動が夜刀に見受けられる気がする。
俺の主観だと、日向は幼馴染であり、それ以上でもそれ以下でも無い。彼女に対しては、恋愛感情の類は欠片も抱いていないのだが。
彼女が告白を受けるかどうか考えてくれる段階、剣技において上回った時、それについて確認してみるとしよう。
それから3時間ほど稽古をしてから、いつもより早い段階で午前の稽古を切り上げようと夜刀から提案された。
確かに、謝罪に行くのに汗臭い状態でいくわけにもいかない。
異論はなく、普段より短い時間で午前の稽古を切り上げる。
道場の掃除を済ませ、夜刀に詳しい待ち合わせの場所、彼女の言うデートの詳細について聞く。
すると、夜刀は自身の荷物から水族館のチケットを二枚取り出した。
たしか、先週に夜刀が家族で向かったと話してくれていた水族館のチケットである。あの時はたしか、夜刀の兄が仕事で急用が入り1人だけいけなかったことを嘆いていた悲話を笑いながら自慢していた。
水族館で謝れということなのだろうか。
いや、行く前に謝って、仲直りしてから2人してデートしてこい、という意図なのだろう。
しかし、このチケット。有効期限はまだ残っているが、まさか……
「先週私たちが行ってきた水族館のこと、覚えてる?」
「……ああ。確か」
「そ。これ、お兄ちゃんが仕事で行けなくなって余ったチケット。勿体なかったし、本当は明日にでもあんたか夏希を誘って行こうかなと思ってもう一枚買ったやつ。でも、この際だしあんたらのデートに使いなよ」
予想通り、1人行けなかった夜刀の兄の分のチケットだった。
本来は自分用に用意したとはいえ、結果的に夜刀に負担をかけてしまった。
これに関しては俺と日向の問題であり、夜刀が自腹で1枚揃えていた分のチケットは買い取るべきだろうが、タダで譲ってくれた。
本当に申し訳ない。
「良いって。喧嘩している親友同士が仲直りしてくれれば、私としてはそれが1番なんだから」
「恩にきる」
この分の借りはいずれ清算するとして、まずは日向との和解をするために今は彼女の好意に甘えることにした。
夜刀は日向にもこのことを話しているとのことで、水族館に向かうバスが停まる最寄りのバス停を待ち合わせ場所に指定しているとのこと。
「結構いい場所だから、ちゃんと楽しんできてよね。あんたの気持ちはわかってるって」
「……ああ」
絶対に分かっていない。勘違いも甚だしい。
訂正したいが、照れ隠しだと誤解されるのが夜刀の性格から目に見えているので、ここは前半の一文のみに対する返事をするだけにしておく。
その後、夜刀を見送り、身支度を整えて、なるべく先に到着できるよう早めに出発した。